University of Virginia Library

 水夫室では、水夫たちが、犬ころがうなり合いながら食べると同じように、騒ぎながら、夕飯を食っていた。

 負傷したボーイ長のそばには、藤原と、波田とがいた。波田のベッドは、ボーイ長のとL字形に隣り合っているので、自分のベッドで、頭をかがめながら、うまい夕食を ( ) った。全く、字義どおりに「のどから手が出る」ほどであった。胃の ( ) へ届く食物は、そのまま直ちに消化されて、血管を少女のような元気さと ( はな ) やかさとで駆け回るように感じられた。彼は飯を口一杯に ( ほお ) ばりながら、ボーイ長の足もとに波田と並んで、これを頬ばっている藤原に話しかけた。

 「チーフメートは来たかい」

 「まだだよ」藤原は、まるでそれが波田のせいでありでもするかのように、ふくれっ ( つら ) をもって、答えた。

 「随分無責任じゃないか

[_]
[3]
。三時間も打っちゃらかしとくなんて」

 「距離が遠いんだよ。距離が、やつらのはね」藤原はなぞのようにいった。

 「ハハハハ、なるほどね、サロンから、おもてまでじゃ三時間じゃ来られねえや」波田は、冗談だと思って笑った。

 「五感と、神経中枢との距離がさ。鼻と口との距離と同じほどなんだよ」

 ストキはひどく憤慨しているように見えた。「それに、こういうことになれて、無神経になるってことは、それが仲間のことであると、なおさらよくないね」

 藤原は、話がむずかしいので、有名であった。彼は漢語みたいなもの――仲間の間でそういった――を使いたがる癖が骨にしみ込んでいるのであった。

 まだ食事が、始められて間もなく、チーフメートは、ボーイに「救急箱」を持たせて

[_]
[4]
、「大急ぎ」で駆け込んで来た。

 水夫たちは食事を中止した。そして、水夫見習いのベッドを、チーフメートと一緒にとり巻いた。

 「ボースン! こんなに暗くちゃ何もわからんじゃないか、 蝋燭 ( ろうそく ) をつけて来い。五、六本!」と、チーフメートは一発放した。

 かくて、蝋燭はつけられた。ボーイ長がそこへ寝始めてから、三時間目に初めて、彼の室は ( ともしび ) で照らされた。彼が船へ持って来たものは、そのからだと、その切り捨てられた仕事着と、初期の 禿頭病 ( とくとうびょう ) とだけであった。

 彼は、陸上でひどく苦しんだ。彼の家はひどく貧乏の上に、兄弟が十一人もあった。彼は、小さい時分から、自分を養うのは自分でなければならぬことを感じさされて来たのであった。

 彼は、訴えるような目つきで、また、彼のそのような負傷にもかかわらず、チーフメートに直接物を言うことを恐れて、遠慮がちに「痛あーい」とうめいた。

 チーフメートは何でもかまわず、ボーイ長の左半身全体に、イヒチオールを塗りまくった。彼は一分間でも早く彼の義務が終わればいいのであった。医者のやるようなことが、彼の義務であることも ( しゃく ) にさわることであったが、それは、彼がそれでパンを得ている以上、仕方のない災難なのであった。彼は、彼もパンのために、そのいやな仕事を持っていることを知ると同時に、もっと悪い条件の ( もと ) にパンを求めているものがあり、それが「おもてのならずもの」どもであることを知らねばならないはずであった。ところが、彼は、ブルジョアが、彼と自分とを区別してるとすっかり同じように、彼とセーラーらとを区別していた。「おれは紳士だが、やつらは労働者だ」あるいはもっと正確には「おれは人間だが、やつらはセーラーだ」と。

 チーフメートは、限りなき 嫌悪 ( けんお ) の情を含みながら、ボーイ長をめちゃくちゃに、イヒチオールで塗りまくることを、(面倒臭いあまりに、そうするのではない)というふうにセーラーたちに見せたかった。彼はなさなければならないことの形式だけをやって、しかも感謝の念をセーラーたちから盗もうとさえたくらんだのであった。

  黒川鉄男 ( くろかわてつお ) 、これがチーフメートであった。黒川は、イヒチオールを塗りまくる間に、口をきくことは、それほど仕事の能率を妨げないし、また、それ以上仕事を、きたなくも困難にもしないと考えた。そして、彼がどんなに、この「虫けら」のようなボーイ長に対してさえ、人道的であるかを見せてやることはいい。と彼は考えた。

 「おもては全く、寒いね、そしてまるでまっ暗じゃないか」と黒川は口を切った。彼はボーイ長の胸部にイヒチオールを塗布しながらいった。

 「満船の時はどうも仕方がありません」と、ボースンは 鞠躬如 ( きっきゅうじょ ) として答えた。まるで、まるで、寒くて、暗くて、きたなくて、狭いのは、ボースン自身の罪ででもあるように。

 「これじゃいくらお前らでもたまらないなあ」

 「なあに、メートさん、新造船だから、いい方ですよ」とボースンは答えた。

 「暗くて寒いことあ今始まったこっちゃないや、おまけに 風呂 ( ふろ ) だってありゃしない、これでもおれらは、人間並みは、人間並みなのかい」と藤原が後ろから、燃えるような毒舌を ( ) っつけた。

 チーフメートは 早速 ( さっそく ) 方向転換の必要を痛感した。

 「ボーイ長の傷は存外軽くてすんだね。おれはもうとてもだめだと思っていたんだよ、命拾いしたわけだね」

 「そうさ、すぐくたばりゃもっと傷が軽いわけさ、手がかからねえからな」また藤原が口を出した。

 セーラーたちは、何か起こりはしないかと内心好奇心に駆られて「事」の起こるのを待っていた。

 「黙ってろ! よけいな口をたたくな!」チーフメートはとうとう爆発した。

 「黙ってろ? 黙るさ、だが、 手前 ( てめえ ) らにゃ手前らの命は大切でも、人間の命が、どのくらい大切かってことはわかる時はあるまいよ。ヘッ」藤原はそのまま自分の巣へ上がって、 煙草 ( たばこ ) に火をつけた。彼は明白にチーフメートに挑戦した。

 戦争はすぐ開かれるか、あとで開かれるか、どんな形において開かれるか、それは水夫ら全体を興奮の極に追い上げた。

 黒川一等運転手は彼の策戦が失敗したことを承認した。そして、多分この事はこれだけで片がつかないだろうと、いうこともわかった。長びくような事件にならねばよいがと彼は心配していた。特にそれは、この場合では、彼にとって絶対に都合のわるいことであった。彼は、黙って、早く手当てを済ますに限ると思ったので、その手当てを急いだ。

 かくして、イヒチオールはそれが、その本来塗らるべきところであろうと、または、傷をなして赤い肉の出たところであろうと、出血しているところであろうと、おかまいなしに塗りたくられた。また、いかなることが起きても、起こらなくても、ボーイ長の左半身全体をまっ黒くするということは、彼の三時間にわたる熟慮の結果であった。

 そしてチーフメート黒川鉄男は、そのプログラムに従って他意なくやってのけた。何ら親味な情からでもなく人間的な気持ちからでもなく、 安井 ( やすい ) ――水夫見習い――は、その全半身にただ気やすめだけのイヒチオールを塗布された。それは義務を果たすための一つの対象にすぎなかった。

 安井はうめいた。「おかあさん、おかあさん」と叫んで救いを求めた。そして目を開いては、絶望のどん底にまっ暗になって落ち込んでしまった。

 彼は、からだの ( いた ) みと共に、 ( ) え得ぬ渇と飢えとに迫られていたのだった。