University of Virginia Library

     三一

 ボイラーを吐き出すと、すぐに飯を食った水夫たちはそのまま船首甲板へ上がって、桟橋横付けの作業にとりかかった。ボーイ長は、食事の時に藤原に頼んで、

 「今夜はぜひ病院へやってもらうように、船長に頼んでくれませんか、もうこの上とても辛抱がなりません」というのであった。

 「いいよ。だがね、今から、桟橋だから、桟橋へついてからにした方がいいと思うよ。それにまず、そんなものはどうでもいいとしても、順序ってものがあるそうだから、ボースンに一度話して、ボースンから最初に話し込んでもらって、僕も、その時、一緒について行って話をつけたらいいと思うよ。ま、何にしても、苦しいだろうが、今夜まで待ってくれたまえね。今度は僕も、そのつもりでいるんだから」と藤原は快く、請け合ってくれた。ボーイ長は非常に喜んだ。

 桟橋にも、 馬蹄形 ( ばていがた ) ( まち ) にも、その後ろなる山も、高原も、みな、美しく、厚い、雪で念入りにおおわれ、雪面を吹きまくる北海道の風はしびれるように痛かった。

 万寿丸は桟橋へついた。桟橋の 漏斗 ( じょうご ) はその長いくちばしを、船のハッチの中へ差しのぞけた。それからは白い雪の代わりに黒い石炭が降って来た。

 船員たちは、船長から、水火夫に至るまで、自分を、完全に縛りつけている、その動揺する家屋から、解放しようとして、それぞれ準備に忙しかった。

 船長は、室蘭から少し内地へはいった 登別 ( のぼりべつ ) という温泉地へ、室蘭| 碇泊 ( ていはく ) 中は必ず泊まり込んでいた。そこには、彼の妻や子供の代わりに、彼の 愛妾 ( あいしょう ) がいるのであった。

 一般に北海道に美人が多いかどうかは、わからないが、しかし、飛び抜けた美人を時々、われわれは北海道で見る。色が「抜ける」ほど白くて、顔立ちの非常に高雅な美人を、われわれは、雪に ( うず ) もれた山腹の遊郭にさえ見いだすことができた。それは寂しい情景であった。船員たちにとっては、彼らの手に負えない夢幻的な情緒であった。従って水夫たちにとっては、それは本能的な、肉欲的な、一対照より以外ではなかった。

 彼は、今夜も、そこへ行くために、汽車の時間表とにらめっこをしながら、したくを急いでいた。

 船長が、そのダイアモンドのピンを、ネクタイに「優雅」にさそうとしている時に、純白の服を着けたボーイは船長室の ( とびら ) をたたいた。

 「何だ?」船長は怒鳴った。

 「ボースンとストキとが、お目にかかりたいといって、サロンで待っております」

 「用事だったらチーフメーツへ話せ、といえ」彼はピンの格好について、研究を続けた。ボーイはサロンに待っていた、ボースンとストキに、その由を伝えた。

 「それじゃ」と、ボースンは、それをいいしおに、ストキにいいかけた時であった。

 「どうしても、会わなきゃならないんだ! ぜひ、会いたいって、も一度取り次いでくれたまえ」ストキは、ボースンをおさえてボーイにいった。

 ボーイは「何だい一体」とストキにきいた。

 「ナアに、ちょっと会って話せばいいことなんだよ」気軽に藤原は答えた。

 「 ( やっこ ) さん、登別に行くんで、急いでるんだよ」

 「ところが、こっちはもっと急ぎの用事なんだ、ちょっと頼む」

 ボーイは再び船長室の扉をたたいた。

 「ぜひお目にかかりたいといっています」

 「だめだ! 時間がないんだ!」船長は鏡の中の自分に見入っていたが、チェッと舌打ちをした。

 「うるさいやつらだ、用事は何だときいて見ろ」ばか野郎めらが、と、彼は考えの中でつけ足した。―― 手前 ( てめえ ) たち全体の運命は横浜までだ。代わりのボースンはもう横浜まで来てるんだのに、ばか野郎らが――船長は 蛆虫 ( うじむし ) どもの低能さに対して、ちょっと冷やかしてやってもいい、という気を起こしたほどであった。

 「ボーイ長の負傷の手当てをするために、室蘭公立病院へやっていただきたい、というのだそうでございます」

 「ボーイ長! そんなものはだめだ、と、そういっとけ」何だ一体ボーイ長の負傷とは、ばかな。そんなものは船の費用から出せるかい。べら棒な。冗談も休み休み、 ( おり ) を見ていうがいいんだ。時もあろうに、自分らの首の運命の決していようという時に。それに今は上陸間ぎわじゃないか、ゴロツキどもめが! 船長は、ボーイ長が負傷をしたことを、今、言われて見て、思い出すには出したのであった。そして、それは手当てをしなければならないであろう。――が、――それはこんな場合ではもちろんないはずだ! と彼は思ったのであった。

 一体それはいつのことだ。横浜でやるべきではないか、今ごろになってそんなことをいうのは因縁をつけるというものだ! しかし、これは彼の思い違いであった。横浜では船長に話す間がなかったし、それに、チーフメートは、船長に相談してからにするというので、横浜では、フイになったのであった。

 船長は、登別の温泉に、彼女――それは全く美しい若い女であった。そしてそれは、 白樺 ( しらかば ) のように、山のにおいの高い、澄んだ渓流のように作為のない、自然人であった。――をしっかりと、あのあらゆる力と情とをこめて、彼女を抱き締めることの回想と予想とで、血なまぐさい、 ( よご ) れた、現実的な、ボーイ長の問題などは、その余地を頭の中へ置き得ようはずがないのであった。

 「どうしても、それが必要なら、それはチーフメーツがうまく片をつける事柄なんだ!」船長は、ズボン――押し出してしまったあとの絵の具チューブかなんぞのように、ピッタリ一| ( ) にくっついた――の中へ足を通した。

 「北海道じゃちょっと類がない、すがすがしい気持ちなもんだ。ズボンの折り目の立っているのは」彼はちょっと足を前へ踏み出すように振って見た。「上等」それで彼のズボンの試運転は通過した。

 彼は十八の少年のように急ぎながら、彼女に与える指輪を、自分の小指へ光らしながら、理想的に船長らしい、スッキリした立派な服装と、その姿勢とを、サロンデッキへ現わした。

 そこには、その寒さにもかかわらず、ストキとボースンとが立って、彼の出て来るのを待っていたのであった。彼はハッとして立ち止まった。

 ボースンは、とっつかまえられた、コソ泥棒みたいに、しきりに ( しり ) ごみしながら、ストキにつかまれ、励まされて待っていたのであった。が、彼は一体、何をいえばいいのだ! 彼には言うべきことはなかった。けがをしたのは見習いであって、女房子を持った哀れな、老いた彼ではなかった。「おれはこの船をほうり出されたらどこへ行くことができるんだろう。橋の上か、墓場かだけじゃないか、おれは今は、おれのためよりも、子供らや家内のために、働いているだけのものだのに、おれは、……ストキは全く困ったことをさせるわい。見習いのけがとおれと、一体何の、……そりゃ関係はあるにしても、船長が一度いかんと言ったものをナア……おれは、第一寒くてやり切れないや」

 ボースンは、ストキの顔をせっぱ詰まって拝むようにながめ、そしてまた、船長にあわてて敬礼をした。

 船長は黙って行きすぎようとして、タラップの方へ歩みかけた。

 ストキはボースンを小っぴどくつついた。ボースンは目だけをパチパチさせて、口は固くつぐんでいた。それは一秒おそくてもいけなかった。続いて第二発目のストキの 拳固 ( げんこ ) がボースンの横っ腹へ飛んで来た。と同時に、

 「船長」と太い、低い、重々しい声がおさえつけるように、ストキの口から呼ばれた。

 そしてストキは、ボースンを打っちゃらかしたまま、船長が今おりてゆこうとするその前へつっ立った。

 「船長! 水夫見習いの安井| ( のぼる ) ってのが負傷したのは知ってますか、それが、 今日 ( きょう ) は病院へやってもらいたいといってるんです」

 「それがどうしたんだ」と船長は頭のさきから、足の 爪先 ( つまさき ) まで、ストキの長さを目で測量した。

 「上陸禁止にでもなっているのか、そうでなかったら、今日でも 明日 ( あす ) でも病院へ行けるじゃないか、だが何だって、お前はそんなところに立ちふさがってるんだい」船長は、 暴化 ( しけ ) の時に、夜中、深海測定をやるのと同様に、厳密に、幾度も幾度もストキの長さを、全く腹が立って頭の熱くなるほどの、熱心さと冷静さとで測定した。

 藤原はそのあらゆる激怒と、 憤懣 ( ふんまん ) とを、船長の前で、そのしっかり踏んだ足の下に踏みつけて立っていた。

 「だが、負傷手当を船から出すべきじゃありませんか。それに、足を負傷して寝ているものが、この雪の中を歩いて行くというわけにも行きませんからね。 ( くるま ) 賃と、診察料とを払ってくださいまし。それに、……」

 船長は、爆発した。

 「負傷手当を船から『出すべき』だ? べきだとは何だ! べきだとは! そんな生意気な 横柄 ( おうへい ) なことをいうんだったら、どうとも勝手にしろ、おれは、 手前 ( てめえ ) らに相手になってる暇はないんだ! ばかな!」

 船長は怒鳴りつけると、そのまま、桟橋へとおりて行った。

 藤原は自分の足の下に踏んでいたかんしゃく玉を、そうと、やっぱりおさえつづけた。彼はアハハハハハと、船長の後ろ姿に向かって 哄笑 ( こうしょう ) を浴びせかけた。

 船長は桟橋の上へ飛び上がった。ポケットで金が鳴った。彼は、ひどく ( おこ ) りはしたが、先を急いでいた。

 「 明日 ( あす ) 、片をつけてやるから」と自分をなだめながら、桟橋の ( やみ ) へと消えて行った。

 彼は、しばらくすると、ほとんど全速力で駆け足に移った。何だか、メスが、自分の心臓に向かって光りそうで気になってならないのであった。このごろはどうも、おかしい。三上――藤原――、どうもよくない傾向だ。彼は、後ろを振り向いた、 ( きつね ) のように幾度も幾度も振り向いた、桟橋は黒く、まっ暗であった。本船の 碇泊燈 ( ていはくとう ) が、後ろに寒そうに悲しくまたたいていた。

 やがて桟橋が尽きて、海岸に出た。雪は二尺余り積もっていた。海岸に 小溝 ( こみぞ ) のように深く雪道が踏み固められてあった。

 室蘭の町は 廃墟 ( はいきょ ) のように、雪の灰の中からところどころのぞいていた。 人魂 ( ひとだま ) のように ( まち ) の灯が、港の水に映っていた。のろいの声を揚げて風が波をつき刺した。彼は 外套 ( がいとう ) ( えり ) を立て、首巻きを耳まで巻いてフルスピードで停車場の方へと急いだ。

 停車場は室蘭の町をズッと深く入り込んで、 馬蹄形 ( ばていがた ) の一端に寄った方にあった。さびしい、終点駅であった。停車場は海岸の低地にあって、その上の方には、遊郭の灯が特に明るく光っていた。

 冷酷な、荒涼たる自然であった。その前では人は互いにくっつき合い、互いが、互いに ( あたた ) め合い、たすけ合わねばならないように感ぜしめられるのであった。

 何だか、人なつっこくなるのであった。

 船長はストキや船員を 反撥 ( はんぱつ ) して、登別へ引きつけられた。そこでは彼は自然の冷酷さからしばらく ( のが ) れうるのだ!

 ストキはわめくような笑いを船長に浴びせると、そのままグルリと振りかえって、おもての方へ帰って行った。ボースンは、すごすごとついて行った。

 おもてでは大工は、ボースンが来るのを、したくをすっかり済まして待っており、水夫たちは藤原の帰るのを待ちくたびれていた。

 藤原は、おもてへはいった。食卓の前のベンチへ倒れるように腰をおろした。

 「どうだったい」と皆はきいた。

 「だめだ! 今度はチーフメーツだ」と彼は答えた。もし彼は、彼がボーイ長が診察を受け、治療を受けるだけの金を持っていたならば、チーフメーツへなんぞ、再び交渉に行くわけがなかった。その結果は、あまりに彼にはハッキリ見え透いている。けれども、彼がもし、ボーイ長を自分の費用で連れて行き得ない限りは、彼はありとあらゆる手段を試みる必要があったのである、

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そして、それは、また、彼を救うと同時に、ボーイ長を絶望から、しばらくでも引き止めて置くところの、唯一の残された方法なのであった。

 「チーフメーツの方もどうなるかわからないから、もし、それがだめだったら、おもてで出し合うってことにしよう。そうすることは、まるで船主にロハでくれてやるようなもんだが、この際仕方が、ほかにあるまい。そして大丈夫チーフもだめだと思うんだ。船長の許さないものをおれが、というに相場はきまってるんだ。だから、 一人 ( ひとり ) 頭二円ずつぐらい金を集めて置いてくれないか、それはボースンに頼もう。今持ち合わせのない者は、ボースンに立て替えて置いてもらうこと。ということにしていたらいいだろう。ね、僕は、チーフのところへ行って来るから、頼みますよ」

 彼は出て行った。波田は、彼が出て行ってしばらくすると、ボースンに、五円貸してくれと頼んだ。そして二円をボーイ長へ ( ) いて、三円をふところへしまい込んだ。そして、彼は、デッキを通って、チーフメーツの室の付近へ行って、藤原の交渉を聞こうと試みた。しかし、チーフメーツの室は固く ( とびら ) に錠がおろされて、人の 気配 ( けはい ) がしなかった。彼はサロンデッキを一回りした。けれども何事も、そこでは起こってはいなかったし、また、だれもそこにはいなかった。

 波田は――それでは、藤原君はどこへ行ったんだ?――と思いながら、おもてへ帰って来た。

 藤原はもう帰って来て、水夫たちに、チーフメーツは、船長よりも先にサンパンで、海から上陸したあとだったことを報告したところであった。

 そこで、ボーイ長はどうしよう、という相談が水夫らと、四人の 舵取 ( かじと ) りの間に行なわれた。