University of Virginia Library

一二

 藤原は熱心に語った。彼は、白水を目の前に置いて、話してでもいるように、感激し、幸福そうに自分の話に酔っているのであった。彼は、ここまで話して来て、その好きな 煙草 ( たばこ ) に火をつけて、肺臓全体に煙の行きわたるように、深く鋭く、煙をすった。

 波田は、熱心に聞いていた。そして、白水というのは、藤原の前名のことではあるまいか、と、藤原の話の合い間合い間には疑ったりしていた。それは、藤原によって語られ、表わされる白水ではあるにしても、あまりによく藤原に似すぎていた。けれどもそれはどうでもいいことであった。

 「フーム、鉄工産業の労働者は頼もしいね」と、波田は詠嘆的にいった。

 「労働者は、主人になるんだからね、労働者の手によって、平和と幸福とがあがなわれるんだからね」ストキは、ホッとしたようにしていった。

 「それから、その男はどうしたんだね」と、波田は本をいじりながらきいた。

 「白水は、自分の六畳の薄暗いというより、ほとんどまっ暗な ( ) を、夜間――昼間でもいいのだが、昼間は皆仕事に出るのであった。が、中には、昼間弁当を持って本を読みに来る者もあった――開放したのであった。そして、顔は変わっても、数はいつでも大抵五、六人、多い時は十五、六人も集まった。そして、そこでいろんな話が取りかわされた。僕も、その集まりには毎晩出たものだった。

 白水は、彼の室では、またはその集まりでは、まるで工場における彼とは別人のように柔和に、そして気軽になるのだった。最初の間は、だれでも不思議に思うのだった。だれかが『白水君は、工場と、家とに別々な全く ( ちが ) った白水君を持ってるんだね』といった時、彼はこう答えた。

 『それや僕に限ったこっちゃないぜ。君だってそうじゃないか、機械の付属品たる君と、妻君のための君と、奴隷としての君と、君の主人としての君と、だれだって、労働者はこの二つの人格を持っていないものはないだろう。君だって、機械の付属部分として働いてる時の顔つきや気持ちと、今の、それ、細君や、子供のための君としての顔つきや気分の方が、どのくらいなつかしい、親しい人間だかわからないよ。燈台下暗しだぜ、ハッハッハハハ』と。そこに居合わせた者も、皆声をそろえて笑った。彼の説明は 按摩 ( あんま ) のように人を柔らかにし、その疑いを解いたんだ。

 そして、話はいつも、こういったふうな冗談から口を切られて、なぜ労働者が機械の付属部分であるか、という質問が生じて来るのだった。それには白水君がだれも返答しない時に、ゆっくりと、よくわかるように、説明を加えるんだ。

 こういうふうにして、そこに集まって来る労働者は、必ず、一つずつか、二つずつか、自分自身の身の上の解剖を会得して帰って行くようになった。

 こうしている間にも、白水は、絶えず、警察から、尾行されたり、張り込みされたり、呼び出しを受けたりするんだった。そして、それが、毎晩そこに集まることが原因であることが、そこへ集まってくる人たちにもわかって来るのだった。

 そのうちに、そこへ絶えず集まる者には、たとえばぼくらなどにも、時々警察の目が光るようになって来たんだ。それがなぜだかわからなかったんだ。しかし、若い者は警察からかれこれいわれることに対して、非常な反感と、従って、それを激成するような、立場になって行くのだった。彼らは今まで無邪気に聞いていた。しかし、警察が彼らの私宅を訪問したり、その工場を ( たず ) ねたりするようになると、彼らは真剣に聞くようになって来た。そして、警察をだんだん恐れぬようになって行った。

 『おれたち自身が何であるかを、おれたち自身で研究することが、なぜ悪いんだ』と、若い労働者たちは、警察の刺激の洗礼を受けると、一種の無産階級信念――を ( いだ ) くようになって来たんだ。

 そして、ついに、警察によって刺激された 若人 ( わこうど ) どもは、立派な『無産階級軍の前衛隊』となり、なお加えらるる試煉によって、 牢獄 ( ろうごく ) も、絞首台も、恐るるに足らずという、固い信念の中に、生きるようになったんだ。そうして、そうなると、そこに待っていたものは、彼らの ( しり ) を引ったたいた ( むち ) が、こしらえて待っていた 陥穽 ( おとしあな ) であった。いよいよ彼らは、現実に牢獄の ( へい ) ( ) っ突からねばならなくなったんだ。

 ある年の秋だった。A工場のあるN市は、日本全国を襲った暴風雨の襲撃をこうむった。その程度は日本の諸都市中で最もみじめな部分に属するほどであった。

 風が強くて、雨が横から吹いて、 ( かさ ) がさせなかった。屋根| ( がわら ) が吹き飛ぶので、 ( まち ) に出られなかった。海岸部分は軒先まで浸水した。水がひくと同時に、 壊崩 ( くず ) れた家が無数だった。船が海岸へ打ち上げられて、おもちゃ屋の店先における船のようであった。目ぬきの方でも、小学校が崩壊した。民家が倒れた。市民は外にも出られなかった。内にもいられなかった。

 A工場

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の労働者も、この天災から逃避し得なかった。のみならず、彼らはその住む地域の関係上、より一層はなはだしい程度に、その惨害を受けた。彼らは少し受け取って多く養うために、安い家賃を選んだ。そこは海岸の低地であったんだ。

 A工場の労働者で、白水と同じ部に出ている男が、十分にその浸水の塩の辛さをなめさされた。彼の家は床上二尺浸った。畳がまさに汚濁せる潮水のために浸ろうとする時、まさにその時期にかっきり達している彼の妻君は、生理上の法則に従って、赤ん坊を 分娩 ( ぶんべん ) した。その 産褥 ( さんじょく ) の隣に、十二年以前からいかなる場所へでも横になって行く、痛風の彼の老母が ( ) せっていた。

 太陽がだれをも待たないと同様な公平さと、正確さとで、その汚濁した潮水は、その水量を増して来た。叫喚があった。失心があった。泣き声が上がった。

 この労働者は、 ( たらい ) に赤ん坊を入れた。そして押入れの上段に、できるだけ深く老母を押し込んだ。次に彼の妻君を、その手前に押し込んだ。その上で、この男は、自分自身赤ん坊をぼろでふいて、父親の正当なる責任を果たした。きわめて簡単| 明瞭 ( めいりょう ) なる事実であったが、その

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簡単であっても、その事のために入費がかかるということも明らかなことだった。ところが、どうしてこの男が母の薬代や妻のあと始末、それから子供への手当て、産婆への報礼などをすることができよう。それどころではなかった。彼は今まで、家族を養っていたA工場にも、出るに出られないありさまだった。畳はビショビショにぬれていた。床の下は ( さかな ) でも住んでいそうだった。便所と井戸水とが同居したのに、まだそれが 掃除 ( そうじ ) されていない。

 もし、この男が苦労になれなかったか、貧乏になれなかったかで、ちょっと神経質ででもあったのならば、僕らが考えても、首をくくった方が気がきいていそうに思われるくらいなんだ。ところが、この男は我慢したんだ。あとで知る事だが、この男は我慢するんだ、何でも、 ( しゃく ) にさわるくらい我慢強いんだ。と僕らは、そう思ってたんだ。ところがどうだろう。まるっ切りやつは感じないんだ。

 彼は、この 惨憺 ( さんたん ) たる事実に対して、何物をも感じなかったようだった。ただ、金が少々あればいいのだった。それが万事を解決するだろう。君、長い間、人間はあまりみじめであると、感受性を全然失ってしまうものらしいんだ。この兄弟なんぞもやっぱりその一例だと見れる。人間がその苦痛に対して、ならされてしまう――何の必要もないのに――それが、どんなことだと君は思うんだ。馬が去勢されて生殖欲がなくなるように、人間が、縛りつけられて、型に押し込まれて、自由を奪われてしまった去勢された馬のように、感受性を失ってしまう。自分がどんな 奴隷 ( どれい ) だか知らずに、働けば楽になると思って働く。労働者たちは、皆この感受性を 麻痺 ( まひ ) させられてしまったのだ。労働者は働けば働くほど、自分を ( しぼ ) る資本に、それだけ多くの余剰労働は搾取され、資本を増大せしめるんだ。

 この去勢された、馬のようになり切った兄弟は、二、三日の後会社へ行ったんだ。

 『積善会の積立金をいただきとうございますが、こうこういうわけで』と事実の

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ありのままを純客観的に――彼には、今では、彼自身のことが客観的にしか見えなくなったようだった――くどくどと述べ立てたんだ。

 この積善会ってのはね、労働者の賃銀の百分の五を毎月強制積み立てをさせるんだ。そして、その金を一定の額だけ、吉凶禍福に応じて、会社からいくらかの補助金と共に『給与』してもらうんだ。そして毎年一回この金で運動会を開いて、一金一封(五十銭)を酒代として、いただくんだ。工場法の役目を、労働者の負担に転化した型が、すなわちその積善会なるものだったんだ。その積善会のお金の中で私の積立金をくださいと、この男は申し出たんだ。

 もちろんそれは言下にはねつけられて、見舞料として、積善会から二円だけもらえたわけなんだ。ところが二円では何とも話が煮えんとその男はいうんだ。何とかならないでしょうかと、相談を白水に持って行ったんだ。

 『それは、積立金を取ったらいいだろう。積立金は職工の貯金だろう。それを取ったらいいだろう。積善会の方はまた話が何とかつくだろう』ということで、白水は事務所へ、その節くれ立った木の切り株のような男と一緒に行ったんだ。

 工務係の 後明 ( こうめい ) という妙な後光の差しそこなったような名前の男が、 二人 ( ふたり ) と相対して、何の話だときいたんだ。

 おふくろと、妻と赤ん坊とを、押入れへ押し上げた、この哀れな男は、くどくどと、なぜ波が敷居より上へ上がって来たか、とか、畳と畳の間から、まず ( よご ) れた水が、ブクブクと吹き出して来るものだとか、押入れへ、幸い、三人を入れましたので、とか、彼が、今そこで、そんな目に会ってでもいるように、細大もらさず、『客観的』に話し始めた。

 彼の話は、決して腹の立つべき ( たち ) のものではなかった。けれども、その長さと、それから、繰り返しと、切りのないのとには、だれもが退屈をしなければならなかったし、それに、話の中に、いつのまにか、問題と、話の中心とが離れてしまうという困難な欠点があった。

 『それで、どうだというのだね』と後明は、この男にきいた。

 『へー、それで』と、この哀れな男はおうむ返しに答えた。そしてそれっ切りで先が出なくなってしまったのだ。彼はもう、自分の要件は今までの話の中で話した、それも繰り返し繰り返し話したような気がしていたのであった。もうこれ以上何を申し上げましょうといった顔つきをしていた。