University of Virginia Library

     二九

 チーフメーツはデッキから、「ボースン!」と怒鳴った。

 ボースンは、いよいよあわてて、いよいよ急にその 禿 ( ) げ頭をなでて、頼むのであった。「ソラ怒鳴ってる! 後生だからこのボイラーだけ上げてくれ。そのあとでいくらでも話はつくじゃないか、ホラ、またわめいた。頼む、ストキ、西沢、な、波田頼む」

 彼はこんなことをしゃべりながらも、チーフメーツの声に応じて、そのたびに、マストの 梯子 ( はしご ) まで駆けて行っては、また、駆けて帰るのであった。「ね。おい、やってくれるだろう。な、おい、頼んだぜ」

 「おれたちゃチーフメーツの命令でやめただけのもんだ。ボースンからやれっていわれたってどうも、やるわけにゃ行かないぜ」ストキはがんばった。

 「困ったなあ、ほんとに、チョッ! 頼む、わしは今ちょっとチーフメーツさんが呼んでるから上がって来るから、その間頼むよ。いいかい。おれを助けると思って。な」

 ボースンは発育不良な、旅芸人のジョーカー見たいな格好で、マストにとりつけてある 梯子 ( はしご ) ( のぼ ) って行った。

 三人の水夫は、そこに腰をおろしてしまった。彼らは、彼らの力が偉大であるということを知った。わずか三人のセーラーであった。しかも、それが、ただ何ともいわずに、ボイラーからおりただけであった。それだけなのに、このボイラーが動かず、あのクレインがむなしく待ち、仲仕が徒手傍観し、本船の出帆がおくれ、チーフメーツは青くならなければならない。

 そして、これは、ただ労働を一時中止するというだけの簡単な理由からなのだ! そしてこれは、社会の一切の根本は、労働者の労働によって、維持される、ということを語るものだ。きわめて簡単であるのに、われわれの知らされない、唯一の事実なんだ!

 水夫たちはそんなふうに感じて、 煙草 ( たばこ ) に火をつけた。

 藤原は、西沢と波田とに、「これはまだ何でもないんだ。僕らは、こんな詰まらない理由でストライクには移れない。これは、労働者の発作的の 痙攣 ( けいれん ) だ。ストライクは発作的に無計画に起これば、必ず失敗するものだ。しかし、これでも、事によるとほんとうのストライクの、口火にはなるかもしれないけれどね。ストライクの総成員三名なんてのは、古今未聞だろうね」

 「僕らは、しかし、この船の船長や、チーフや、ボースンには、あらゆる機会に反抗しなきゃならないんだぜ。船長チーフメーツは共謀で、おれたちあての食費を、会社から前月末に受け取るものだから、それをボースンに月二割で、おもての者に貸しつけさせてるんだぜ。見ろ、だから借金しないと、給料も上がらないし、受けが悪いじゃないか。向こう半年も頭なしのやつはどんどん給料が上がるじゃないか。やつらは、借金の利子を回収するためだけで、給料を上げるんだ。だから、彼らはおれたちに女郎買いを奨励するんだ。借金があれば、月二割の途方もない利益があるのと、それに頭を上げられないし、足止めすることもできるんだからな。だから藤原君なんか、いつまでたってもストキなんだ。だから波田君なんざ、僕よりもいつも進給がおそいんだ」西沢は自分たちのことを例に話した。全く藤原はその驚くべき独学の努力のおかげで、学校出の船長などよりも、はるかによく社会的事情にも、一般学術的常識にも、通じていた。

 小倉は藤原から、英語、数学、その他の学科を習った。彼は高等海員の試験を受けるつもりで勉強しているのであった。小倉も頭はよかったので、一年余りでナショナルリーダーを五まで上げてしまい、代数は高次までやってしまったのであった。そして、船長にしろチーフにしろ、頭脳が 明晰 ( めいせき ) なために、その地位を得たのではないことを知ったのだった。だが、小倉は、自分の位置を、高めることによって、酷使と 隷属 ( れいぞく ) と侮辱とから、 ( のが ) れようとしたのであった。そして、それは結局彼| 一人 ( ひとり ) を救うことすら至難であり不可能であることがあらゆる努力を尽くして後、彼を敗残の身にしたことによってわかったのであった。彼は非常に圧迫を憎んだが、身を ( てい ) して反抗しようとする代わりに、権力の壁にくっついて身を隠そうとたくらんだため、 卑怯 ( ひきょう ) になったのだと、水夫たちからいわれていた。

 ボースンはデッキからおりて来た。そして三人が煙草をのんでいるところへ来て、チーフメーツは非常におこって、すぐに下船を命ずるといっていたが、自分はやっと頼んで、やめてもらって来たから、どうか、一服したらすぐに荷役にとりかかってもらいたい、そうしないと、チーフメーツは、すぐボーレンへ代わりを連れに行く気でいるのだから、といって来た。

 藤原は、産業予備軍が海員においては、組織的に、ボーレンによって動員準備されてある、かつ事情不明のためストライク・ブレーキングが平気で行なわれることを知っていた。そしてこの場合もそれが行なわれうることを知っていた。で、彼は、仕事につくことが得策であることを知った。

 「それじゃ、一服したらやると、チーフメーツへ返事して来てくれ」と、わけなくストキが承諾したので、おどり上がったボースンはデッキへ上がって行った。

 藤原は、西沢と、波田とに、形勢は全く不利であるから、これは時期を見なければいけない、これほどの少数で、完全に勝つためには機会を握ることが第一だ。その時は今ではない。だから、その時を待って力を示すために、今は忍んだ方がいい。それに今はなんでもないことなんだからと、 種々 ( いろいろ ) と話をした。

 「だが、今はいい時だがなあ、正月前だし、横浜にはギリギリに帰れるかどうか、という時なんだからなあ。条件がそろってるんだがなあ、ただ冬であるってことが悪いだけだ。ボーイ長は雇い入れなしで負傷させて打っちゃってあるし、おれたちは、全く馬車馬か奴隷かで甘んずるなら、それでもいいだろうけれど、――それに、いま時分、室蘭に休む者はありゃしないと思うんだがなあ」と波田は主戦論を唱えた。

 「だから、今は仕事をしなければならないんだろう。今は、室蘭に休んでる者があるかないか、ハッキリしてないから、今は仕事をしなければならないんだろう。その代わり、今夜上陸した時に、僕らは休んでる者があるかないかを探ることができる。で、もしいないということになれば、出帆間ぎわに船を動かさないことができるだろう。横浜まで、電報でセーラーを呼ぶにしても、いくら早くても、四日や、五日はかかるだろう。おまけに正月だ。正月早々なんだ。ね。それに、ボーイ長を 今日 ( きょう ) どういうふうに取り扱うか、それを見なくちゃ、もしボーイ長に対して、全然船から救護しないということになれば、僕らは機関部の方にも ( げき ) を飛ばして、全船の問題としなければならないと思う。

 まずいのは、三上の問題が、未解決で残ってることなんだ。船長側では、それを仕掛けの種に使うだろうと思われるんだがね。

 要するに、ほんとに、僕らの力がその一切を現わしうるのは、一切の奴隷的条件が、僕らに痛切に感得され、彼らの野獣的| 殺戮 ( さつりく ) ぶりが暴露される時だけなんだ。その時は、当分来ないか、または 明日 ( あす ) の朝来るかは、僕らが、ジッと見張っていなければならないことなんだ。ね。だから今よりも、いつか、もっと彼らの暴虐が露骨に現われて、われわれの生命を直接にも、――間接にも顧慮することなく、かえって損傷するという事実がハッキリした時の方がいいだろう。と、僕は思うんだがね」藤原は条理を尽くしてその本質と、作戦とを述べた。

 ボースンは降りて来た。衆議は一決して、藤原と波田とはボイラーの上に、西沢は、船底でそれぞれの仕事の持ち場についた。

 ボイラーは、ハッチの口よりも長かったので、非常にその作業は困難であった。けれどもその日の夕方には、三本のボイラーをうまく無事に積みおろすことができた。

 さて、それから、万寿丸は、高架桟橋の、石炭| 漏斗 ( じょうご ) の下へ、そのハッチの口を持って行かねばならなかった。