University of Virginia Library

     二六

 翌朝万寿丸は、雪に照り ( ) えた、透徹した四囲の ( もと ) に、自分の所在を発見した。それはすこぶる危険なところへ、彼女は首を突っ込んでいた。

 船員たちは、自分の目の前に、手の届きそうなところに、大黒島の雪におおわれた、

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( わし ) ( つめ ) のような岩石に向き合っており、左手に一体に海を黒く、魔物の目のように染める 暗礁 ( あんしょう ) を見いだした。

 彼女は、その醜体を見られるのが恥ずかしそうに、抜き足さし足で早朝、何食わぬ顔をして、室蘭港へはいった。

 すぐに石炭積み込み用の高架桟橋へ横付けになるべきであったが、ボイラーの荷役の済むまでは沖がかりになるので、室蘭湾のほとんどまん中へ、今抜いたばかりの錨を何食わぬ顔をして投げた。

 万寿丸が属する北海炭山会社のランチは、すぐに勢いよくやって来た。

 とも、おもてのサンパンも、赤| 毛布 ( げっと ) で作られた 厚司 ( あつし ) を着た、囚人のような船頭さんによって、 ( ) ぎつけられた。沖売ろうの娘も 逸早 ( いちはや ) く上がって来た。

 水夫たちは、ボイラー揚陸の準備前に、朝食をするために、おもてへ帰って来た。

 食卓には飯とみそ汁と 沢庵 ( たくあん ) とが準備されてある。一方の腰かけのすみには、沖売ろう――船へ菓子や日用品を売り込みに来る小売り商人――の娘が、 果物 ( くだもの ) 駄菓子 ( だがし ) などのはいった箱を積み上げて、いつ開こうかと待っているのであった。

 船員は、どんな酒好きな男でも、同時に菓子好きであった。それは、監獄の囚人が、昼食の代わりに食べるアンパンを持って通る看守を見て、看守はアンパンが食べられるだけ、この世の中で一番幸福な人間だと思うのと同じであった。監獄と、船中においては、甘いものは、ダイアモンドよりも ( とうと ) かった。

 波田は、その全収入をあげて、沖売ろうに奉公していた。彼は、船員としての因襲的な悪徳にはしみない性格であったが、「菓子で身を持ちくずす」のであった。彼はきわめて貧乏――月八円――であった。それだのに、彼は金つばを三十ぐらいは、どうしても食べないではいられないのであった。しかし、財政の方がそれほど食べることを許さないのであった。彼は沖売ろうがいっそのこと来ねばいいにと、いつも思うのであった。そのくせ沖売ろうの来ない日は、彼は元気がないのであった。全く彼は「甘いものに身を持ちくずす」のであった。

 この場合においても彼は、ソーッと、自分の ( たな ) から、状袋を出して、その中に五十銭玉が一つ光っていることを見ると、非常な誘惑を菓子箱に感じた。

 「どうしてもおれは仕事着と、 ( くつ ) が一足いるんだがなあ」と考えはした。彼は、その全収入を菓子屋に奉公するために、仕事着は、二着っきり、靴はなく、どんな寒い時もゴム裏| 足袋 ( たび ) の、バリバリ凍ったのをはいていた。そして、ボースンの、ゴム長靴のペケを利用して、その ( すね ) の部分だけを、ゲートル流にはいていたのであった。も一つ、彼が菓子以外にいかに金を出さないか――出せないかということを知るには、彼の頭を見ればよかった。まるでそれは「はたき」のように延びて ( よご ) れ切っていた。ボースンはそれを気にして、彼は、特に、一円を理髪代として貸した――菓子屋の来た時に彼は月二割の利子をむさぼるところのボースンの金を、一円借りたのである。ボースンも彼には菓子代は決して貸さなかったが、波田は理髪代といった――彼はそれで、一度に金つばを食ってしまった。

 彼は、神様を便所から見つけたが、菓子箱には貧乏神がいるとこぼしていた。「しかし、正月になれば、それも何とかなるだろうさ、くよくよしたもんでもないや」

 彼は自分に言い訳をしながら、沖売ろうのねえさんの所有に属する、菓子箱へと近づいた。

 「どうだね、うまい菓子があるかね」

 「みんな、うまいかすだわね」菓子屋のねえさんは、東北弁まる出しで答えた。

 波田は、うまそうな菓子を一種ずつ取って食べた。そして、そのたんびに計算を腹のなかで忘れなかった。金つばが食いたかったが、これは沖売ろうは持って来なかった。

 室蘭では、東洋軒という、室蘭一の菓子屋が作るだけであった。彼はそこのケークホールへ、その格好で平気で押しかけるのであった。

 ろくに食べた気のしないうちに波田は五十銭の予定額だけを食い尽くした。それ以上は借款によるよりほかに道がないので、彼はやむを得ず、小倉が帰って来るまで待つことにした。

 波田にとっては、一切の欲望の最高なるものを菓子が占めていた。

 もし三上がいるとすれば、沖売ろうのねえさんは、ボースンと、大工と、三上との共同戦線の ( もと ) に、かわいそうにいじめられるのであった。彼女は、それを覚悟で、二重に 猿股 ( さるまた ) をはいて、本船へ、彼女のパンを ( ) べく沖売ろうに来るのであった。

 彼女は、実に気の毒なほど醜かった。それは形容するのが 惨憺 ( さんたん ) なくらいに醜い女であった。年は二十三、四ぐらいに見えた。彼女は、女に生まれたことが全く不都合な事だった。彼女がその髪を延ばして置いて、鏡に向かってその髪を結ぶ時に、きっと彼女は自然をのろうだろうとおもわれた。彼女と一緒に本船の火夫室へ来る沖売ろうは、彼女とはまるで違っていた。年は同年ぐらいであったが、彼女は北国に見る美人型であった。

 彼女は、水夫たちから、ことに、彼女を見るも気の毒なくらいに恥ずかしめる、ボースンや大工らは、彼女が、「インド ( ざる ) 」によく似てると、むきつけて、そうであることが、不都合きわまることのようにほんきに、彼女を 罵倒 ( ばとう ) し、そして恥ずかしい目にからかった。

 彼女は、それでも一緒になって、キャッキャッとはしゃぎながら、自分の商売の菓子箱のくつがえるのも忘れて、抵抗したりふざけたりするのだった。

 彼らは、薄暗いデッキの上を、小犬のようにころがり回ってふざけていた。

 彼女が菓子のほかに、彼女の肉をも売るということを、波田は耳にしたことがあったが、それは想像するだけでも不可能のように思えた。彼女は女性として男性に持たせうる、どんな魅力もないように見えた。きたない男よりも醜い彼女であった。

 だのに、彼女は、やはり、うわさのように菓子以外のものも、提供することがズッとあとになって波田にもわかった。それはボースンの 部屋 ( へや ) であった。

 これは、 蜘蛛 ( くも ) と蜘蛛とが、一つの ( びん ) の中で互いに食い殺し合うのによく似てはいないだろうか。

 だが、その日は、それらのことは一切起こらなかった。彼女の菓子は、食事の済んだ水夫らによって一つ二つ摘ままれた。

 ボースンと大工とは、彼女を、波田の寝箱の中へ押し倒すことだけは、形式的に忘れなかった。波田の寝箱の隣では、負傷のために、弱り、やせたボーイ長が、まだうめいているのであった。

 波田は、ボーイ長に、朝鮮| ( あめ ) を二本買ってやった。ボーイ長は涙を流して喜んだ。

 疾病や負傷や死までが、生活に疲れ、苦痛になれた人たちにとっては軽視されるものだ。生活に疲れた人々は、その健全な状態においてさえ、疾病や負傷の時とあまり違わない苦痛にみたされているのだ。人間がそれほどであることは何のためか、だれのためか、なぜそれほどに人間は苦しまねばならないのか、それはここで論ずべきことじゃない。

 おもしろいことは、この沖売ろうの娘は、おもてのコックと後になって、――四年もこれの書かれた後――二週間だけ一緒になって世帯を持った。二週間の後彼女はコックのために酌婦に売り飛ばされて、 夕張 ( ゆうばり ) 炭田に行き、コックは世帯道具を売って、ある 寡婦 ( やもめ ) の家へ入り婿となって、彼自身沖売ろうになり、日用品や、菓子などを舟に積んで、本船へ持って来るようになったことだ、が、これはズッと後の事だ。

 水夫たちの食事が終わると、ボースンは、チーフメーツのところへ仕事の順序をききに行った。

 チーフメーツは、クレインが来るから、それまでのあいだに、ボイラーの方を用意して置けと命じた。ボースンはおもてへ帰って来て「今からハッチの ( ふた ) をとるぞ」

 そこで水夫らはデッキへと出て行った。