University of Virginia Library

     二五

 万寿丸は、室蘭の荷役を早く済まして、 碇泊 ( ていはく ) 中そこで船のマストや何かをすっかり塗って、横浜へ帰って正月をする予定であった。そしてその予定は、一切のプログラムを最大速力でやって、順当に行けば、かろうじて 大晦日 ( おおみそか ) の晩横浜へ着くのであった。

 そんなわけであったから、わが、 団扇 ( うちわ ) のような万寿丸は、豚のようなからだを汗だくで、その全速力九ノットを出していた。そしてこの大速力のために、船体はパシフィックラインのエムロシアが、全速を出した時のような、自震動をブルブルと感じながら飛んで行くのであった。なぜ、たった九ノットの速力でゆれるかといえば、わが万寿丸は、なるべく多く石炭を ( ほお ) ばるべく、デッキから、ボットムまで、どちらを向いてもガラン ( どう ) で、支柱がないためなのだった。それはフットボールの内部のようなものだった。

 冬期の北海道は霧がはなはだしかった。汽船で鳴らす霧笛、燈台で鳴らす号砲のような霧信号。海へころがり込んだフットボールのような万寿丸は、霧のために、目隠しをされたものであるから、九マイルの速力をどうしても、もっと下げなければならないはずであった。けれどもそれは、正月のことを考える時に、船長はこれから上速力を下げるわけには行かなかった。その代わり彼はむやみやたらに霧笛を鳴らした。

 それは何かの事変の前兆を知らせるという、犬の遠ぼえに似ていた。それを聞くものに、きっと不安な予感に似たものを吹き込まねば置かぬ音色であった。同じ汽笛でも、出帆の汽笛は寂しく、入港の汽笛は、元気よく勝ち誇ったように聞こえるものだ。霧笛の場合は同じ汽笛でも、不吉な、落ちつかない、何だかソワソワした気持ちに人を引き込んだ。自らその糸をひいている船長自身が、その音色に追っかけられるようにあとからあとからと、糸をひいた。霧笛は、ますます深く、人から 景色 ( けしき ) を奪う霧のように、その心から光と落ち着きとを奪うのであった。

 精密なる海図と 羅針盤 ( らしんばん ) とがあるとはいえ、またそれが、めだかが湖に泳ぐような比例で海が広いとはいえ、とまれ先が見えないということは、安心のならないことであった。ことに水夫らにとっては、まるで盲人が ( つえ ) をかついで、文字どおり盲滅法に走っているように思われるのであった。

 西沢と波田とは、ブリッジに上がって、小倉の 舵取 ( かじと ) りを見学していた。

 自動車の運転手がそのハンドルを絶えず、回しているように、汽船の 舵機 ( だき ) も、前のコンパスとにらめっくらをしながら、絶えず、回され調節されていた。

 一時間九ノットの速力も、この船全体をその権力の下に支配する、船長の心理に及ぼす影響は、このブリッジにのぼって、一望ただ海波であり、一船これわが配下である時に、決してのろい速力ではなかった。 団扇 ( うちわ ) のようなこの小さな船も彼にとっては偉大であった。ことにかく霧の濃くかけた時は、船長は、二千トンのこの船を、二万トンに拡大して見ることもできた。なぜかなれば、船全体が霧のために、 漠然 ( ばくぜん ) たる輪郭をもってぼかされ、それを想像をもって拡大するからであった。

 暗がり中で、だれも見ていないと知ると、急に二歩ばかり威張って、警察署長のような格好に歩いて見ることが、大抵だれにもあるように、万寿丸は、巨船のごとくに気取って航行しているように見えた。

 が、それにしても不思議であった。室蘭港口に ( せん ) をしている大黒島は、もうそこに来ていなければならないはずの時間であり、コンパスであり、海図であった。にもかかわらず事実は、大黒島の燈台も霧信号音も、見えも聞こえもしないのであった。

 わが万寿丸は九ノットのフルスピードをもって、船長自身ブリッジに立って、小倉の ( かじ ) を命令していた。

 波田と、西沢とは ( おのおの ) 熱心にいかにして汽船の舵を取り、その方向を保って行くか、ということをながめ、心で研究していた。

 彼らは、何も見えない濃霧の中を、コンパスと海図とだけで、夢中になって飛んで行く船が不思議でたまらなかった。

 万寿丸は、その哀れな犬の遠ぼえを、絶えず吹き鳴らしながら、かくして進んで行った。

 霧の上に、夜の ( やみ ) が、その墨をまき始めた。一切のものが今にも失明しようとする者の、最後の視力のようにボンヤリしてしまった。

 と、突然、ブリッジに立ってる者は船長から、波田に至るまで急に飛び上がった。おそろしい速力を持った巨大な軍艦が、その主砲を ( ) っ放して、その 轟音 ( ごうおん ) と共に、この哀れな万寿丸の ( へさき ) を目がけて、突進して来たのであった。それは全くとっさの場合であった。

 「ハールポール」と船長は、 舵機 ( だき ) をあやつっている小倉の前へ来て、飛び上がりざま叫んだ。その声は絶望的にブリッジに響きわたった。

 機関室への信号機は「フルスピードゴースターン」全速後退を命令して、チンチンチンチンとけたたましく鳴りわたった。

 船長初め、小倉らブリッジにあるすべては「 ( ) っつけた」と覚悟していた。

 波田に西沢は、何だかまるでわけがわからなかった。

 これらは息をつく間もない瞬間に一切が行なわれた。そして、本船はグッと回った。波田も西沢も、船長までもが、そのなれにかかわらずよろめいたほど急速に。そして、今にも衝突しそうに思えた、山のような怪物、(それは軍艦だと波田と西沢は思っていた)は全速力をもって、まるで風のように 左舷 ( さげん ) の方へ消え去った。と、その怪物からは続けざまにドンドンドンと 轟然 ( ごうぜん ) たる砲声が放たれた。

 哀れなる小犬のような、わが万寿丸は、今は立ちすくんでしまった。いわば、腰を抜かしたのである。むやみに非常汽笛を鳴らし、救いを求め、そこへ ( いかり ) をほうり込んだ。

 今、それほど万寿丸を驚かした、軍艦のように速力の速い怪物は、百年一日のごとく動かない大黒島であり、大砲は霧信号であった。

 わが万寿丸はその二十| ( けん ) 手前まで九ノットの速力で、大黒様のお ( しり ) の辺をねらってまっしぐらに突進して来たのだった。

 あぶなかった。錨がはいると、皆は、期せずしてホッとした。

 大黒島の燈台では、乱暴にも自分を目がけて勇敢に突進して来る船を認めたので、危険信号を乱発したのだった。幸いにして、この無法者は、間ぎわになってその乱暴を思い ( とど ) まった。

 万寿丸は「動いてはあぶない」とばかりに、立ちすくんだ盲人のように、そこに 投錨 ( とうびょう ) して一夜を明かすことになった。

 奇妙きてれつなる一夜であった。船も高級船員もソワソワしていた。おもてのものだけは、一夜を楽に寝ることができた。