University of Virginia Library

     四五

 船長と、チーフメーツとはサロンへと出て行った。

 ところが、これはどうだ。サロンの入り口へ火夫たちがまっ黒に集まって、中をのぞき込んでいるのだ。口笛を鳴らす者があった。足踏みをするものがあった。

 船長とチーフメーツとがサロンへはいると、彼らは、水夫たちへの激励から、船長、チーフメーツへの示威運動へと移った。

 口笛が盛んに鳴った。足踏みが 拍子 ( ひょうし ) をとって、踏み鳴らされた。

 「何だ! そんなとこから、のぞき込みやがって、あっちへ行け?」船長は怒鳴りつけた。

 「何言ってやがるんだい(以下六字不明)!」だれかが後ろから叫んだ。

 これは早く、片をつける必要があると考えた。

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船長は、入り口の方へ、その「物すごい」目を一| ( せん ) 放っておいて、 椅子 ( いす ) へ腰をおろした。

 「どうだろう。これは即答もできないから、横浜へつくまで保留したら」彼は切り出した。

 「船長、それはいけません。私たちは、これが室蘭だから、要求として成立することを知ってるのです。横浜まで行けば、産業予備軍が捨てるほどおります。私たちは、ここで要求が ( ) れられ

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なければ、労働をしません。それから、これはどうお考えになってもご随意ですが、私一人を 馘首 ( かくしゅ ) したにしても片はつきません、と言うことを申し上げときます。私たちは、何の相談もしないのに、機関部の方でもあんなに、動揺してるじゃありませんか。この要求は恥ずかしいほど、妥協的なおずおずした時代遅れの、要求ですよ。これが容れられないということになれば、『お前たち奴隷は、おれたちの(もの)だ』ということになりますよ。

 あなたたちが、一か月の俸給だけで四百円――彼はこれを聞くのに苦心したのだ――取って、戦時利益特別賞与が年四十五か月分ある。この現在、私たちが、月給十三円から十八円で、命をかけて労働するということは、私たちは、あまりいいこととは考えられません。あなた方は、自分の懐中の裕福なので、夢中になっていられる間に、私たちは俸給の三倍もの率で、物価が上がってるので、非常な減給を受けた形になっているのです。おまけに、労働時間は、船が忙しいと同じ比例で、私たちをかり立てています。一日に十四時間は、まるで、懲役囚よりも長時間です。その上公休日なしです。けがはしっ放し、死に放題、しけだろうが、夜中だろうが、おれは宅へ帰るからサンパンを押せ、お前たちは夜明け前に帰れ! これが私たちなんです。どうですか、聞いていて恥ずかしくなるような労働条件ではありませんか、実際、監獄だってこれよりは、はるかにいい待遇が与えられていますよ。その監獄よりひどいのが、万寿丸で、その船長が 吉長武 ( よしながたけし ) といわれては、あなたの名誉でもなかろうと考えます」

 藤原は、また思い切ってやったものだ!

 船長及び士官らの、憤慨ぶりは頂点に達していた。彼らは、椅子のクッションのように赤くなったり、海のように青くなったりした。彼らの憤慨と同じ比例で、水夫らは喜んだ。

 「全くだ!」とうとう波田が怒鳴ってしまった。

 「そうだ!」波田の気合のかかった言葉につり込まれた、 ( とびら ) の外の火夫たちは、一斉に 喊声 ( かんせい ) をあげた。

 「第一、私たちは、肉体を売る資本家かもしれない! だが、要するに、私たちは生きているんです。おまけにまだこの上も、生きて行きたいと思っているんだ。生きて行きたくなけや、こんな船になんぞだれが乗るもんか、畜生!」波田は、まだまだ言わなければならないことが、山のようにあった。あまり言うことが多くて、彼の言葉がスラスラと出なかったために、畜生! で爆発してしまった。

 「だれが畜生だ! 失敬な」船長は、夢中になって立ち上がった。

  扉口 ( とぐち ) の外からは、 罵声 ( ばせい ) と足踏みとが聞こえた。「燃やしちゃうぞ!」と聞こえた。

 私はこの「燃やしちゃうぞ」と言う言葉の来歴を話したいが、ごらんの通り今はとても ( せわ ) しくて。

 「そうではないか!」波田は立ち上がった。

 「尊い人間の生命を等閑にしたのは、どいつだ! ボーイ長でも、父と母とから生まれて、人間としての一切の条件を、貴様らとすこしも異なるところなく、具備しているんだ! それだのに、どうだ! ボーイ長が負傷してから、一度でも、貴様は、彼のことを考えたことがあったか、貴様に、人間の生命を 軽蔑 ( けいべつ ) することをだれが許したんだ!」

 彼は夢中になってしまった。

 「もし、貴様が、この上も、ボーイ長に対して、畜生の態度をとるなら、おれにも、覚悟がある! 貴様がボーイ長を見殺しにするなら、おれは……」とうとう波田は、その腰にさしていたシーナイフを引き抜いた。

 「あぶないっ!」と皆が叫ぶ前に、彼は、それをテーブルの上に、背も通れと突きさした。

 「おれは、畜生に対して、人間として振る舞われないんだ!」

 一座は、死んだように静かになった。扉の外の連中は、目ばかりになって、息を殺して成り行きを見張っていた。

 「貴様は、権利を持っている。この地上には、むやみに多くの権利が、他の権利を 蹂躙 ( じゅうりん ) することによって存在してる。だが、船長、いいか」彼はテーブルを、今度は 拳骨 ( げんこつ ) で食わせた。「人間を、軽蔑する権利は、だれもが許されていないんだ。また、他人の生命を否定するものは、その生命も、否定されるんだ! わかったか」彼は、そこにそのまま、すわることを忘れたようにつっ立っていた。彼はにらみ殺しでもしそうな目つきで船長を見据えていた。それは、まるで、燃える火の魂のように見えた。

 ストキは、波田の突き刺したナイフを静かにテーブルから抜き取った。そして、自分の席の前に置いた。

 船長は、ピストルを持って来なければならなかったが、そこを立つわけに行かなかった。彼は、初めて、彼が、ほとんど、 歯牙 ( しが ) にもかけなかった、低級な人間の中に、高級な彼をも威圧して射すくめてしまうだけの威厳を見た。それは、全く、何も持っていない、 一人 ( ひとり ) の労働者だ。地位も、金も、系累も、家も、それこそ何にもない、便所掃除の労働者の青二才じゃないか、だのに船長は椅子から立ち上がれなかった。

 彼は一度立ち上がって、途中で、グズグズとすわったことを悔いた。その、彼の前に立っている労働者が彼からその「煮える」ような眼光を放さなければ、彼は立てなかったのだ。

 それは、彼の職業的な、因襲的な、尊厳を傷つけるものであった。そして、一度負けたが最後頭の上がらない鶏のように、その後は、彼を永久に ( おさ ) えつける一種の不快な、重しになるであろう。それは脅迫観念にとらわれた病者が、何もないところに、恐るべき幻影を見て、狂い続けるのと同様であろう。それは見かけ倒しの立派な、 芝居 ( しばい ) の建て付けに、全身の信頼をもってもたれかかって、一緒に倒れるのと同じ人々の運命であらねばならぬ。彼は、芝居の建具によっかかっていたのだ!

 「貴様は、大きな錯覚に陥っていることを、自分で知らないんだ! 貴様だって、被搾取材料だ! でなきゃ

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幇間 ( ほうかん ) だ! 自分自身が何だってことを、内部からハッキリ見詰めろ! もしボーイ長を、この要求どおり、この要求は、あまり遠慮がしすぎてあるんだぞ、いいか、もし、これを許さなかったら、おれには覚悟があるんだ。おれが、覚悟を持ってることは、もう言わなくてもわかってるだろう。サア! くだらない筋だの、金ピカだのを ( ) って、人間として、人間の要求に応ずるがいい」

 波田はその椅子の上へ、ドカッと腰をおろした。そしてシーナイフを藤原の前から取って彼の ( しり ) っぺたにブラ下がっている、その帆布製の ( さや ) に収めた。

 人々は初めてホッとした。彼がライオンのように、あばれ回らなくて幕になったことが、だれもを安心させた。実際、それはまあよかったとだれもを感じさせた。

 船長は、まるで、ばかにしたような態度を、要求書へ向けていたのだが、今では、それが非常に尊いものででもあるように、チーフメーツの前から、自分の前へ引き寄せて、ながめ初めたのであった。この紙っきれに、あの情熱と 憤懣 ( ふんまん ) とが織り込まれてあったのだ! 彼は、それを引き裂かなかったことを今になって喜んだ。

 それを引き裂きでもしていようものなら!

 「それで、その要求書にある条項を、一々説明しましょうか、もし、お求めになるならば」藤原は言った。

 「いいや、説明には及ばないだろう。大抵わかってるだろうから。しかし、一応メーツたちと相談しなければならないから、お前たちは、ここでちょっと待っててもらいたいね。ちょっと相談をして来るから」と藤原へ言って、「どうぞ私の室まで」とメーツらに目くばせをして、彼は船長室へ 又候 ( またぞろ ) はいって行った。メーツらは続いた。

 「波田ってやつあ、どえらいやつじゃねえか」とサロンの外では、波田の行動に対して、賞賛の辞を惜しまなかった。「あれに限るよ。あれで行きゃ、こちとらだって、いつでもこんなに苦労しなくても済むんだが」

 「そうさ、力の強いのが勝つんだ。おれたちゃのまれてるんだ」などと火夫たちは、その場から去ろうとはしなかった。

 水夫たちは、相手がいなくなったので、極度の緊張から解放されて、 煙草 ( たばこ ) に火をつけて、休憩した。

 「どうだい、ボースン、お前の代わりまでいいつけられたじゃないか」波田は、ボースンの方を向いて言った。ボースンは、まるで、ひどく頭でも打たれた者のように、ボンやりしていた。出し抜けに船長を ( ) ったりするやつは、彼も見たことがあったが、口も手も、これほど達者なやつは見たことがなかった。「それにやつはまだ子供じゃないか」ボースンは、びっくりしてしまっていた。「いや、どうも知らなんだ」そのはずであった。

 波田は、酒も飲まず、女郎買いもせず、おとなしくして、よく仕事をする評判な青年だったのだ。「全く、人は見かけによらないものだ!」

 「え、どうだいボースン?」今度は藤原がぼんやりしてるボースンにきいた。

 「え、ああ、おれあぼんやりしてたよ」彼はほんとにぼんやりしていた。

 「冗談じゃないぜ、しっかりしてくれよ。皆大汗で働いてるんじゃないか」

 西沢と小倉と宇野と波田と、この四人は交渉条件のことについて、何かしきりに話し合っていた。

 そこへテーブルの上へ、機関部のボーイ長が、紙っきれを持って来て載せた。そして「これを機関部から」といってそのまま、逃げるようにして飛んで行った。

 西沢は、その紙っきれを開いて見た。

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フントウ ヲ シャス、セイコー ヲ イノル、キカンブカフ 一ドー セーラー ショクン

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と電報文みたいに片仮名で書いてあった。

 彼らはそれを見て、戸口の方を向いて、手をあげて合図をした。

 「徹底的にやれ、 罷業 ( ひぎょう ) になれば、火は ( ) かんから」戸口の外からだれかが怒鳴った。

 四人はそれを藤原に見せた。彼は「ありがとう」と叫ぶのを忘れなかった。

 やがて、船長室に密議を凝らしに行ったメーツらはサロンへ引っかえして来た。

 要求条件には念入りにも、船長と、チーフメーツとの判が並べておしてあった。

 「皆と相談の結果、要求を ( ) れることにしたから、今からすぐに働いてもらいたい、ボーイ長は、横浜着港と共にすぐ入院させるし、その他の条件も、即時実行することにしたから」船長は、低い声で言った。彼は自ら進んでこの条件を、認容したのだといったふうに、見せかけたかったが、あまりにも 狼狽 ( ろうばい ) した彼にはその方法もできなかった。

 「バンザーイ」「 ( ざま ) を見ろ!」「労働者フレーフレー」などといいながら扉の外の火夫たちは、ドヤドヤと立ち去った。

 「それじゃ、今からすぐに仕事にかかってくれ」チーフメーツは言った。

 「ヘー、かしこまりました」ボースンは答えた。

 「どうもありがとう存じました」藤原は、判のおされた要求書を、ポケットに収めながら言った。

 彼らはおもてへ帰って行った。

 水夫らは勝利を得た。だが、何だか物足りない感がだれもの、心のすみにわだかまっていた。彼らは、何かの予感を感じていたのであった。

 火夫室の前では、彼らは、万歳を三唱してセーラーを迎えた。

 その日の出帆は、それでも、水夫らにとっては、「 凱旋 ( がいせん ) 将軍の故国への船出」の感があった。