University of Virginia Library

     一八

  伝馬 ( てんま ) はすべった。そして船長は寒くて、 二人 ( ふたり ) は汗まみれになって、日本波止場へついた。

 船長は、飛び上がった。トランクも投げ上げられた。

 小倉は、 纜綱 ( ともづな ) を波止場に ( もや ) った。そして二人ともその浮波止場に飛び上がった。

 船長は、まだ十分その権力が裏づけられていなかった。船長は、ポケットから、その金時計を出して、機械マッチで今が一時四十分であることを知った。彼は自動車で十五分、二時には家へ帰りつける。で早く、「この油断のならないナラズ者」どもを、本船へ帰してやらねばならなかった。

 彼はポケットから、五十銭銀貨を二枚つかみ出して、それが確かに二枚であることを知って、それを、小倉に渡した。

 「 蕎麦 ( そば ) でも食ったらすぐ帰れよ! おそくならんように」そういうと彼は、そのままトランクを持ってスタスタ歩き始めた。

 「船長!」と、三上は、思わず叫んだ。

 船長はビックリした。危うくトランクを取り落とそうとしたほどビックリした。そして何も考える間もなく、三上は船長の前に立ちふさがった。

 「どうしたんだ。わからねえや」三上は ( ) むように怒鳴った。

 小倉は、静かに、黙って、成り行きを見ていた。「おれはこの場合すべき事を知っているんだ。ものは始まってからでなければ済むものではない。だが、それはまだ始まっていないんだ!」

 「小倉に金を渡しといたから、あれで何か食べて帰れ!」船長は、自分の立っているところが、まだ波止場であることは、非常に形勢を不利にすると、考えていた。――逃げるには逃げられぬわい――

 三上は、黙って、船長の前に突っ立っていたが、やがて、身を引いた。

 船長はホッとしながら歩きかけた。三上はまた突然その前へ行って立ちふさがった。

 ――今度は何か起こる――と、船長も、小倉もとっさに感じた。

 三上は万寿丸で、一番強力だった。 横痃 ( よこね ) のはじけそうな時でも、二人分の力持ちを、平気でやった男だ。

 「忘れちゃいないね」と、三上はうなった。

 「あ、そうか、そうか」と、船長はいって、またポケットへ手を突っ込んだ。そしてガサガサあわてながら、また五十銭銀貨を二枚つかみ出した。「スッカリ忘れてた」

 「まだ忘れてるよ」三上は押っかぶせるようにいった。

 船長は、五十銭玉を二つつかんだまま、ブルブル震えながら、そこへ突っ立っていた。早く帰りたいのになあ。チェッ!

 「いくらいるんだね」とうとう船長はごまかし切れなくなってきいた。

 「十円」三上は答えた。

 「十円!」船長は、すっかり驚いた。二円出したことが彼にとっては、とても思い切った奮発だったのに。三上は十円を要求するのである。

 「それや 明日 ( あす ) でよかないか」船長は明日は一切を解決することを知っていた。

 「明日は明日だ」といったが、三上の心中には、今、口から出したくらいでは、とてもはけ切れない激怒の情が、その全身の中に爆発した。

 「今夜帰れば途中で凍えるわい!」と、彼は、船長の頭の上から、ハンマーででも打ちおろしたように怒鳴りつけた。

 「 手前 ( てめえ ) は帰ってかかあと寝る! おれたちゃ帰りに凍えるわい! この汗を見ろ!」

  ( やみ ) に見えなかったが、二人は外は 飛沫 ( ひまつ ) にかかってぬれ、内は汗でぬれ、かわいたところは、その衣類にも皮膚にもなかった。彼らはそのまま、帰るということが不可能であることは、最初から感じたところであった。その 合羽 ( かっぱ ) はもちろん、その仕事着さえもパリパリと凍っていたのである。

 船長は十円に非常な執着を感じたが、それよりも彼はやっぱり、その命の方に 団扇 ( うちわ ) を上げた。彼は内ポケットから、十円札を出して三上に渡した。そして、何かいおうとしたが、ハッと口をつぐんだ。

 そして、彼はそのまま、波止場を出て、 ( くるま ) の帳場へ行った。

 彼はそのまま、警察へ電話をかけようとしてまたやめた。今夜かけると、おれは家で寝るわけには行かなくなる。それにおれは今夜は上陸してはならないはずなんだ。それはごまかしはついても、とにかく、今夜は家へ!

  ( くるま ) の帳場は、同時に自動車屋を兼ねていた。船長は自動車によって、その家へと宙を飛んで帰った。そして、途中の計画をすっかり忘れて、自分の家の前まで自動車を乗りつけてしまった。

 彼は、暖かい家庭の人となった。妻は、彼がおそくなった事情は、「水夫の 一人 ( ひとり ) で三上という悪党がワザとそうしたのであって、おまけに主人から十二円を強奪した。そのために主人は一時身が危険であった。主人は、いつでも、家から出て行くと、まるで、強盗殺人の中へションボリ置かれているようなものだ」と思い込んでしまった。そのくせ彼女は、いつも今まで主人の口から「おれは船中で一番えらい地位を持っていて、船員ならどんなやつでもフン縛ることまでできるんだ。それで船ではおれは、いわば陸でいう王様のようなものだ! おれは自由に手足のように船員を使うんだ。そしておれがいないと、あの大きな汽船が、まるで動くことができないんだ。とまれ、万寿丸では王様だ」と聞いていたのだ。で、今は、そのどちらでもあるのだろう。「船の中には、まともな人間としては主人だけだろう。あとはナラズ者がそろっているのだろう」と、考えた。

 二人は床の中で夜の明けるまで話した。