University of Virginia Library

     二三

 三上は、伝馬を押して、一度| 神奈川 ( かながわ ) 沖まで出たが、また引きかえして、 堀川 ( ほりかわ ) へはいった。彼は神奈川沖へ出た時に、伝馬にペンキで書かれてあった万寿丸を、シーナイフで削り取ってしまった。

 彼は、 翁町 ( おきなまち ) の、彼が泊まりつけのボーレンの、サンパンのつながれる場所へ、その伝馬をつないだ。そして、小林という、そのボーレンへ、のこのこ上がって行った。

 ボーレンのおやじは、 ( ざる ) のような彼の唯一の財産なるサンパンに、チャンス取りに泊まってる宿料なしの水夫を船頭にして、沖へとチャンスを取りに出かけた留守であった。

 おばさんはいた。 下手 ( へた ) 田舎芝居 ( いなかしばい ) 女形 ( おやま ) を思わせる色の黒い、やせたヒョロヒョロの、 南瓜 ( とうなす ) のしなびた花のような、女郎上がりのおばさんだった。一口にいえば「サンマ」のおばさんだった。このおばさんはいた。

 このおばさんはおやじのおかみさんではなかった。おやじの世話で船に乗って、今外国船に乗って、ここ四年ほど前ハンブルグから、近いうちに帰るという手紙と、金二百円とを送ってよこした水夫の、おかみさんだった。

 そのおかみさんが、今帰るか、今帰るかと待ってるうちに、二百円と一年とが消えてなくなってしまった。そこで、三年ばかり前から、やもめの、ここのおやじのところへ、飯たきに来て、亭主の帰るのを「網を張って」待ってるのであった。

 「まあ、三上さんだったわね。どうしたの、いついらしったの?」

 三上が、のっそりはいったのを見たおばさんは、 長火鉢 ( ながひばち ) の前に吸いかけの 長煙管 ( ながぎせる ) を置いて、くるりと入り口の方を振りかえって、そういった。

 「おやじはチャンス取りか」三上はブッキラ棒にきいた。

 「ええ、相変わらず、急いでるの? それともゆっくりできて?」とおばさんはきいた。

 「急がねえよ、上がらしてもらおう」といって、彼はもうそこへ上がってるんだったが、長火鉢の前の座ぶとんの上へ「上がらしてもらって」おばさんの長煙管で、スパスパと 煙草 ( たばこ ) を吸い始めた。

 「随分ごぶさたね、三上さん。あっちにはこんなにごぶさたしやしないでしょうね。おこられるからね」

 「 真金町 ( まがねちょう ) ? 毎航海さ、おやじはおそくなるだろうね。今幾人いる」

 「十一人、暮れに迫って、口はないし、はいるところはないし、おやじさん、困っててよ」と指で丸をこしらえて見せた。十一人の船員たちが今休んでいるのであった。

 「おばさんのご亭、まだ帰らないかい?」三上はきいた。

 「帰らないよ、まだ。向こうで髪の毛の赤い、青い目の女房でも持ってるだろうよ」

 「そのつもりで浮気をしてると、えらいことになるぜ。ハッハハハハ」

 「相手さえあればね。ホホホホホ」

 「僕は下船したんだから、当分また厄介になるよ。頼むよ、いいかい。チョッと出かけて来るから、おやじが帰ったらそういっといとおくれよ」三上が ( くつ ) をはいてると、

 「そして荷物は? 小屋? おやじさんこのごろ工面がよくないんだから、十でも十五でも入れないと、だめだよ。わかってるね」と、おばさんは、だめを押した。前金を十円か十五円は入れなけりゃ、とても置かないというのであった。

 「大丈夫だよ。そんなこたあ、いうだけ 野暮 ( やぼ ) さ。ヘッヘッヘヘヘヘ」三上は表へ出て行った。

 彼は近所の質屋へ行った。それは彼の常取引の質店であった。

 「いらっしゃい、しばらくで、お品物は?」主人はきいた。

 「実はね。品物はここまで持って来られないんだが、二日だけ、 伝馬 ( てんま ) で金を借りたいんだがね。ボースンが、融通してもらったところへ、現金を返すんだが、それが今足りないんだ。船は今ドックにはいってる××丸だから、伝馬を ( うか ) してあるんだ。それで、二日ばかり借りたいというんだがね。利息はいくら高くてもかまわないってんだ。どうだろう。見に行ってもらえんかね。そこにつないであるんだが」三上は、これを昨夜伝馬に乗る前から計画していたのであった。そして彼は、その計画を完全に信頼していたのであった。

 「伝馬じゃちょっと困りますね。 ( くら ) にはいりませんからね。それに船の伝馬じゃなおさら、何とも仕方がありませんね。どうぞ、それはまあ、何かまた別な品ででもございましたら」主人は一も二もなく断わってしまった。

 三上は、驚いた。彼は驚いたのである。彼は、まだ今度の事ほど綿密に、長い間かかって、企てたことはなかった。それは 室蘭 ( むろらん ) 碇泊 ( ていはく ) しているころからの計画であった。その計画は、サンパンを占領するという点までは、彼の計画どおりに進行したのである。であるのに、最後の点に至って、これほど何でもない問題が拒まれるという、その事が彼を驚かした。「だが、この家は伝馬を扱うのになれていないと見える」と、すぐ、彼は思いかえした。

 「さよなら」彼はそこを飛び出した。そして今までより少し彼はあわてて歩いた。彼は歩きながら、これほどの船つき場でありながら、一軒もサンパン屋が店を出していないことを不便がった。「靴でさえ中古の夜店を出してるのに――」彼は全く残念であった。

 彼はその日一日、ありとあらゆる質屋で断わられ、貸舟屋で断わられ、全くみじめな気持ちになってしまった。

 「伝馬は売れねえや、急にはだめだな、だが、おやじになら売れるだろう」小突きまわされた犬のように、身も心もヘトヘトになりながら、彼はボーレンのおやじを目標に持って来た。彼には絶望がなかった。

 彼は夜十一時ごろ、ボーレンの表戸をあけた。

 おやじは起きていた。そして、彼が上がって行くのをじろりとながめた。三上は、長火鉢の前へ、すわって、煙草に火をつけた。そこは六畳の間であった。すみの方には、船員が 二人 ( ふたり ) 寝ていた。

 おやじはしばらく黙って、これも煙草を吸っていた。

 「おやじさん。おらあ今日下船したぜ。また、しばらく頼むよ」三上は切り出した。

 「下船した。で、また船に乗る気なのかい」おやじは妙なふうに返事をした。

 船乗りが、下船してボーレンに休めば、次の船に乗るまでの間、そこに休んでその間に、口をさがすのが、その唯一の道であった。

 「ああ、万寿丸にゃもうあきたからなあ、今度はほんとうの遠洋航路だ」どうも、だが、おやじめ様子が怪しいぞ、今日万寿に行ったんじゃないかな、と思ったが、できるまで空っとぼけた方がいいと思いついた。

 「そうか、遠洋航路もいいだろう。だが、遠洋航路は履歴が美しくないといけないな。おまえの手帳をちょっと見せな、預かっとこう」

 手練の手裏剣見事に三上の胸元を刺した。

 「あ! 船員手帳!」と驚いて三上は ( ひざ ) をたたいた。「船に忘れて来たぞ」

 「冗談いっちゃいけない。三上、おれは今日万寿で、すっかり様子を聞いて来たんだぞ。いい加減にしろ、伝馬まで乗り逃げやりやがって。どうしたい伝馬なんか」

 「ええ! こうなりゃ ( しゃく ) だ、いっちまえ、畜生! 伝馬はつないであるよ」

 「どこにあるんだい」

 「おやじのサンパンのつないであるところさ」

 「何だってあんな邪魔っけなものを、のろのろと ( ) いで来たんだい」

 「売り飛ばすつもりなんだ!」

 「買い手はあるつもりかい」

 「売り物だったら買い手もあろうじゃないか」

 おやじは、もう三上と「まじめ」な話をすることは「やめた」と決めた。が、それにしても、こんな野郎に「踏み ( とど ) まれちゃ」商売が上がってしまうのだった。

 「お前もう横浜じゃとてもだめだから、 神戸 ( こうべ ) へでも行って見たらどうだね、そのサンパンに乗ってさ。え」

 「おらあ、万寿が帰って来るまで待ってるよ。浜で。船員手帳はおれのもんだからなあ」

 「万寿の船長は、お前を監獄にほうり込んでやるといってたそうだぜ」

 「船長が、しかしそうはしないだろうよ。おれが監獄へほうり込まれる前に、やつが海ん中へたたっ込まれるだろうよ」

 「お前は、船長を、おどかしたってえじゃないか、『海ん中へたたっ込むぞっ』て。どえらいことをやったもんだなあ、だが、おもてはみな大喜びだったぜ。『何だったって三上はえらい、やる時になりゃあのくらいやるやつあない』ってさ。だが、少し気をつけないといけないぜ、しばらくお前は横浜を離れてた方がいいんだがなあ。どうだい神戸か長崎へでも行って見ちゃ」

 「おやじが海員手帳を取ってくれるかい?」

 「それや取ってやってもいいが、渡さねえだろう。おれんとこに、あれよりもよっぽどいい履歴のがあるから、それを持って行けよ」

 三上は、別人の手帳を持って、別人になって、神戸へ行った。伝馬は、ボーレンのおやじが預かって、万寿が入港したら返すことにした。

 海員の雇い入れは、その手続きが全く面倒であった。きわめて、厳格なる手続きの ( もと ) に、きわめて厳格に取り締まられて、そして、彼らほど搾取される労働者は、多く他に例を見ないのであった。たとえば、三上は五年間汽船に乗っていて、ようやく月給十八円になったばかりであった。話にならないのだ。全く!

 しかも、それに対して、命はおおっぴらに投げ出してあるのだ!