University of Virginia Library

一四

 わが万寿丸は、三日間の道を歩んで、その夜十一時ごろ横浜港外へ仮泊するはずだった。船は 勝浦 ( かつうら ) 沖を通った。 浦賀 ( うらが ) 沖を通った。やがて横浜港の明るい灯が見え初めるであろう。

 横浜は、水夫ら、火夫らの 乳房 ( ちぶさ ) であった。それを待ちあぐむ船員の心は、放免の前日における囚人の心にも似ていた。

 東京湾の波浪も、太平洋の余波と合して高かった。 梅雨 ( つゆ ) 上がりの、 田舎道 ( いなかみち ) ( がま ) の子が、踏みつぶさねば歩けないほど出るのと同じように、沢山出ているはずの帆船や漁船は一| ( そう ) もいなかった。 観音崎 ( かんのんざき ) の燈台、浦賀、 横須賀 ( よこすか ) などの燈台や燈火が痛そうにまたたいているだけであった。しけのにおいが ( やみ ) の中を漂っていた。 落伍 ( らくご ) した雲の一団が全速力で追っかけていた。

 それでも、もう本船が、酔っぱらいのように動揺する。というようなことはなかった。 本牧 ( ほんもく ) の燈台をながめて、港口標光を前にながめながら、わが万寿丸は横浜港外に明朝検疫までを仮泊した。三千トンの重さと大きさとの、怪獣のうなりにも似た 轟音 ( ごうおん ) と共に ( いかり ) は投げられた。船はその動揺を止めた。

 一時に一切が静かになった。一切の興奮と緊張とが、一時に沈静した。

 「一切は 明日 ( あす ) なんだ。明日は幸福と解放の一切なんだ」とだれもが安心したのだ。

 水夫らは、船首上甲板に立っていたが、錨が投げられると共に、その ( おのおの ) の巣へ飛び込み始めた。先頭の波田がタラップをおり切らぬうちに、ボースンは怒鳴った。

 「オーイ、これからサンパンをおろすんだぞ」

 あたかも強い電波にでも打たれたように水夫たちはこの言葉に打たれた。

  岩見 ( いわみ ) 武勇伝に出て来る 鎮守 ( ちんじゅ ) の神――その正体は 狒々 ( ひひ ) である――の 生贄 ( いけにえ ) として、 白羽 ( しらは ) の矢を立てられはせぬかと、戦々| 兢々 ( きょうきょう ) たる娘、及び娘を持てる親たちのような恐れと、哀れとを、水夫たちは一様に感じた。これは、夜横浜に着いたが最後必ず起こる現象であった。そしてまた、船長はいやでもおうでも夜横浜へつくように命令するのであった。朝着きそうな予定のときだけが、その通りに入港した。その他は必ず夜着くように 犬吠 ( いぬぼう ) 沖か、勝浦沖かで彼女は散歩を強制せられるのであった。

 古今共に 狒々 ( ひひ ) が、出るためには、夜を選ぶのであった。そして、悲しむべきことは、わが万寿丸に岩見重太郎が乗り合わせていないことであった。十一時、サンパンは、その非常に危険な 怒濤 ( どとう ) の中におろされなければならなかった。 二人 ( ふたり ) ( ) ぎ手が、水夫の中からつかみ出されなければならなかった。

 この漕ぎ手に白羽の矢が立ったのは、 鰹船 ( かつおぶね ) で鍛え上げた三上と、 舵取 ( かじと ) りの小倉とであった。三上は低能であった。小倉はおとなしかった。白羽の矢は、岩見武勇伝の場合と違って、大抵この二人に、恒例として当たるのであった。

 二人の漕ぎ手は、一里余の暗黒の海上を、サンパン ( ) め――暴風雨にて港内通船危険につき港務課より一切の小舟通行を禁止する――の 暴化 ( しけ ) を冒して、船長を日本波止場まで、「秘密」に送りつけねばならぬのであった。

 船長は、「秘密」で、上陸して、その家庭へ帰るのであった。そして、その翌朝、「秘密」に、ランチで本船へ帰って、それから、「公然」入港するという手順になっていたのである。

 それらの面倒で危険な、 一人 ( ひとり ) のために何にも関係のない、もう二人の人間の生命を、危険に向かって暴露する。この「秘密」の冒険で、船長は十時間、あるいはもっと少なく八時間だけ、家庭における人となりうるのであった。

 船長は、船長室でしたくをしていた。彼は、彼の家庭についてだけ ( いだ ) きうる、彼の思想を、この船に対する他のあらゆる思想と、全然区別していた。彼は、「秘密」の彼の上陸の前には、対内的にのみ、船長から、人間に変わるのであった。彼は何もかもが、一切合切、妻のこと、子供のこと、その他で持ち切っていた。ことに、妻のことでは、彼は、「やきもち」をやいていたのであった。

 彼はトランクに種々のものを押し込んだ。そしてはまた出した。そしてため息をついた。「サンパンの準備は何だってこんなに手間取るんだ! わかり切ったことじゃないか、一度や二度のことじゃあるまいし、チェッ!」だが、彼は、まだ催促については我慢していた。そして彼は自分の室を見回した。

 船内において一番きれいな、広い、凝った、便利な室ではあった。が、彼にとってそれは、ビール箱の内側であった。それはすこしも愉快なものではなかった。それはかわいた 荒蓆 ( あらむしろ ) のように、彼の神経を ( ほこり ) っぽく、もやもやさせた。

 ボーイがコーヒーを持って来た。

 「まだ、したくはできないか、ボースンを呼べ!」と彼は、ボーイに命じた。そして、ボーイに対しても腹を立てた。「チョッ! こんな気の抜けたコーヒーを持って来やがって、コーヒーの保存法も知らないんだ、やつらは」彼は、煮えつくようなコーヒーにのどをうるおした。

 「ソーッと、出し抜けに、おれは帰らなきゃならん。自動車は家へ知れないくらいのところで、帰してしまわなくちゃ、そして……」船長は、絶えず妻にやきもちを焼いた。そして、彼も、それほど妻を愛してはいないことを、誇示するつもりで寄港地ごとに遊郭に行った。そこではよく、水夫と一つ女を買い当てたものだ!

 それは、全くおもしろい、こっけいな、喜劇の一幕を演ずるのだが、今は、サンパンが用意されようとしている。