University of Virginia Library

     三九

 一切はともかくも順当に行った。

 高架桟橋からは、予想以上に、石炭を吐き出した。それは黒い 大雪崩 ( おおなだれ ) となって、 船艙 ( せんそう ) へ文字どおりになだれ込んだ。仲仕は、その雪崩の下で、落ちて来る石炭を、すみの方へすみの方へと、ショベルでかき寄せた。上の 漏斗 ( じょうご ) からの出方が速くて量の多い時は、数十人の人夫のショベルの力は間に合わないで、船のハッチ口は石炭でふさがってしまい、人足たちは船艙の四すみのあいたところへ密閉されてしまった。

 彼らは、苦しさと暗さとから、その身を救うために、そのありたけの力で、石炭をすみの方へかき寄せた。そのショベルの音、石炭のザクザク鳴る音、彼らが何か呼ぶ声が、デッキの上をあるいていると、初めての者にはどこから聞こえて来るかわからないのと、その音がまるでもしあるなら 冥土 ( めいど ) からでも出ただろうといったふうな妙に陰気な響きであるので、必ず驚かされるほどであった。そしてハッチ口に山のように高く積んだ石炭は、うまくダンブルへ収まって、中の労働者が上へ上がることができるだろうかと、心配せずにはいられないほど高かった。

 労働者たちは、時とすると半日も石炭に密閉されて、 隧道 ( トンネル ) に密閉された土工のように、暗い中で働いているのであった。出て来ると、まるでからだじゅうが肺ででき上がった人形ででもあるように、幾度も幾度も飽かずに深呼吸をしているのであった。そして、ごま塩のついた、非常に大きな、――それは他のどこの港でも見られない――人間の頭ほどの太さの、 整頓 ( せいとん ) した、等辺三角形の、握り飯を一つずつ、親方から受け取って、船室へ持って来ては食っていた。

 それはセーラー中での食い ( がしら ) 三上でさえも、一つはとても食べられなかった。それにはごま塩以外何にもおかずはついていないのであった。人足は夕食にその握り飯を一つもらうと、明け方までは、義務として、残業労働を、再びその ( あな ) の中で、「あの世」の人のごとくに続けねばならないのであった。

 石炭の運賃は、そのころ一トンについて室浜間が五円であった。従って、石炭は水夫室にまで積み込まれた。水夫の月給は八円ないし十六円であり、仲仕、人足らは八十銭の日賃銀をもらっていた。そしてその途方もない握り飯に釣られると、一円三十銭だけ、一昼夜でもらえるのであった! そして石炭の運賃はトン五円であった!

 ありとあらゆるすき間は石炭をもって 填充 ( てんじゅう ) された、保険マークはいつも波が洗って、見えなかった。そして、糧食は、かっきり予定航海日数だけが、積み込まれていた。

 船主や株主らにとっては、黄金時代であった。水夫たちや、労働者たちにとっても過度労働の黄金時代であった。

 たとえば、汽船はゼンマイ仕掛けのおもちゃのそれのようだった。ゼンマイのきいている間は、キチキチとすこしも休むことなく動いた、従って、水夫たちも船長にしても、同じようなことであった。船長はややそのために水火夫へ対して当たったのかもしれない、迷惑な話だ!

 人足たちは、桟橋から 轟音 ( ごうおん ) と共に落ちて来る石炭の 雪崩 ( なだれ ) の下で、その賃銀のためにではなく、その雪崩から自分を救うために一心に、 血眼 ( ちまなこ ) になって働いた。そして、そのために彼らの労働は一か月に二十日以上は、どんないい体格の者にも続けられないのであった。そして、彼らは粉炭を呼吸するのだ。

 しかし、よかった。一切がわからなかった。一切が知られなかった。馬車馬のように 暗雲 ( やみくも ) にかせぐのはいいことなのであった。そして、資本主にとってもこの事はこの上もなくよいことであったのだ。そして、そのころは欧州戦争が行なわれていたのだ。

 その時であった! わが日本帝国の ( とみ ) が世界列強と互角するようになったのは!

 その時であった! 日本が富んだのは。その時であった、日本の資本主達が富んだのは! 労働者はその代わり過度労働ですっかり、からだをブチこわしてしまった!

 夕食は船ではとっくに済んだのに、昼ごろふさがってしまったハッチ口はまだ開かなかった。デッキの下では、――テーブルの下あたりでも、ボーイ長の寝箱の下あたりでも、あちこちで、ゴトゴトと、異様な響きが絶えず続いた。そして時々うなるような人声が聞こえた。そして、それらも七時を過ぎると、ようやく穴があいた。それは難治の ( ) れ物が口を開いて ( うみ ) を出し切ったのと同じ喜びを人足たちに与えた。山の絶頂へでも登りついた人のように、彼らはショベルを ( つえ ) にして石炭を踏みしめて ( のぼ ) って来た。

 そして、その例外に太い握り飯にありつくのであった。

 彼らはこうして、ダンブルの中で 土蜂 ( どばち ) のような作業に従って、窒息しそうな苦痛をなめている時に、その境涯をうらやんでいるものさえあった。

 それは高架桟橋上の労働者であった。それは船のマストと高さを競うほども高いのであるから、その風当たりのよいことは、送風機のパイプの中のようであった。

 彼らは、石炭車の底部にある ( ふた ) をとる。石炭は桟橋へ作られた 漏斗 ( じょうご ) の上へ落ちる。そして、船のダンブルへドドッと 雪崩 ( なだ ) れ込むのである。彼らが労働する部分は皆鉄ででき上がっている。そして、その鉄は焼き ( ごて ) のように、それに触れると肉を引んむいてしまう。彼らは帆布で作った大きな袋を足に「着て」いる。彼らはまた毛布と毛布との間に、綿や毛などを詰めた赤や灰色の仕事着を着ている。それは、彼らが、その目の回るような、過激な労働時間以外に着ている、唯一の防寒具である。彼らは、また、皆、 鎮西八郎為朝 ( ちんぜいはちろうためとも ) が、はめていただろうと思われるような、弓の手袋に似た ( かわ ) 手袋の中で、その手を泳がせている。

 北海道の寒風がりんごの皮を 緻密 ( ちみつ ) にし、その皮膚を赤く染めたように人足らも、その着物を厚くし、その ( ほほ ) を酒飲みの鼻の頭のようにしている。

 だが高速度鋼のカッターは、鋳物を、ナイフで大根でも削るように削る。と同様に北海道の寒風は、労働者たちから、その体温をどんどん奪ってしまう。桟橋の上で働いていることは、 ( ほのお ) の中へ氷を置くのと反対な、しかし似合った作用をする。

 彼らは、その労働を終えた時、帰って行く、 ( から ) 荷車の上へよじ登るのが困難なくらいに、からだが ( かた ) くなっているのだ。彼らの 一人 ( ひとり ) は言っていた。

 「まあ、生きながら凍ったようなものずら」と。

 しかし、労働者は、生きて行くためには死をおそれてはならなかった。