University of Virginia Library

 「おれたちは何だってこんなに泥棒| ( ねこ ) 扱いに、いじめられるんだろうなあ」と、藤原がため息と一緒に吐き出すようにいった。一時の興奮から、夕方ボーイ長のことで来たチーフメートとの事を思い出して、きっとよからぬ予感に襲われたのだろう。

 「それゃ君、泥棒猫だからさ」と小倉がひょうきんに答えた。彼は人に落胆させまいとして、いつでも骨を折る気のいい正直者であった。

 「どうしてなんだろう」藤原はおとなしくきいた。

 「十匹

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の猫の中の二匹が泥棒猫であっても、その全体が泥棒猫と思われるんだからな。まして君、十匹
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のうち八匹がそうだったら、もちろん泥棒猫団だろうよ」

 小倉は答えた。

 「それじゃ、僕らは一体、生まれつき泥棒猫だったろうかね」

 「多くはそうだね。つまり僕らが泥棒猫であったにしても、それは僕らの知ったことじゃないことになるわけだ」

 「というと」と藤原は小倉にききかえした。

 「つまりさ。僕らは、その飼い主から見れば役に立たない泥棒猫なんだ。ね、いつ主人のもの

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をかっぱらうか油断もすきもありゃしない、とこう、見られているんだ。だから、主人の方じゃ僕らを泥棒猫扱いするんだ。扱いだけじゃないんだ、僕らを 真物 ( ほんもの ) の泥棒猫か、もっと適切にいえば、去勢した馬車馬と考えてるんだ。だから、主人、つまり、資本家からいえばさね、僕らは、彼らが僕らをしようと思うままにされていることが、唯一の方法なんだ。だから、船主が『水夫らは昼飯を食わない方が労働能率を上げるだろう』と思えば、僕らから昼飯をとり上げてしまうし、室蘭、横浜間は三日で航海すべきだから、糧食はカッキリ三日分でよろしい。難破したり、遅航したりすれば、それはやつらの例の怠惰から来たもので、おれの方の損害の方が大きいから、それ以上の積み込みは相ならぬ、ということになれば、それも正しいのだ」小倉はきわめてまじめに、説法でもするように静かにいった。

 「フーン、して見ると、僕らもその考えに適応しなければならないのかい」藤原は、小倉にきいた。

 「適応する必要はもちろんないさ。しかしただ適応する者のあることだけは事実なんだ。僕は資本家が自分自身の肉体の構成と、労働者の肉体構成とが、全然、異なるものであると考えているだろうと思う」

 「それで、そうなら僕らはどうだってんだね」と藤原はきいた。

 「それで、僕らは、僕らとしての『意識』を持つ必要が生じて来るんだ。資本家や、資本家の 傀儡 ( かいらい ) どもが、商品を 濫造 ( らんぞう ) するように、濫造した、出来合いの御用思想だけが、思想だと思うことをやめて、僕らにゃ僕らの考え方、行ない方があることをハッキリ知らなきゃならないんだ」小倉は頭の中で、辞書のページでも繰ってるようにしていった。

 「どうして、それを考え、どうしてそれを知ればいいんだ」藤原は問いをやめなかった。

 「それは、あまり困難な問題だ。僕はそれで悩んでるんだ」と小倉は答えた。

 「小倉君『人間は万物の霊長なり』という人間の造った言葉があるだろう。そこでね。僕は、昔から、一番苦しい、貧しい、不幸な階級の中で、またことに貧しい不幸なのろわれた人々でも、万物の霊長だったんだろうか? と考えることがあるんだよ。『おれはあの犬になりたい』と 奴隷 ( どれい ) は主人の犬を見て思わなかっただろうか。『おれは ( つばめ ) になりたい』と、だれかが残虐な 牢獄 ( ろうごく ) の窓にすがって思わなかっただろうか。『おれは ( さる ) になりたい』と、詰まらぬ因襲と制度とから、切腹を命じられた武士は思わなかっただろうか。『おれは豚になりたい』と 乞食 ( こじき ) の子は思ったことはないだろうか。小倉君。僕は、行く行くはそうなることを信じているが、今では、人間は万物の霊長でもなんでもないと思ってるよ」藤原は 煙草 ( たばこ ) に火をつけた。

 「それや僕もそう思うなあ。僕だって ( ふか ) になりたい、と思ったことがあるもんなあ」と、波田は初めて、その 突拍子 ( とっぴょうし ) もない口をきった。

 「人間は万物の霊長であるないにかかわらず、人間だってことは僕は信じるよ。だが、人間が万物の霊長だってことは、僕も、もっとも僕は今まで、そのことをそんなふうに問題にしたことがなかったがね、人間は、ともかく賢い動物だとは思っていたよ。賢いくせに、詰まらぬところに力こぶを入れたり、どんな劣等動物でもしないような詰まらないことを、人間の特徴と誇りながらしたりする動物だろう、人間ってものは。ハハハハハハ」これが小倉の人間観であった。

 「人間が万物の霊長だなんて問題に、コビリつくことはもうよそう。が、全く人間も他の動物と同様に食うため、生殖するために、地上で 蠢動 ( しゅんどう ) してるんだね」藤原は人間であることを悲しむようにこういった。

 「食うことと、生殖することだけで活動してるから、それで蠢動してるというのかい」今度は小倉が皮肉な聞き手になった。

 「まあそうだね」と藤原はちょっと苦笑した。

 「ところが君、ブルジョアはそれ以上の高利貸的官能のために、あるいはまた倒錯症的欲望のために、食わせないこと、と、生殖させないこととで蠢動してるんじゃないのかい」といって小倉は大声立てて笑ったが、フト気がついたように、ボーイ長の方を見やって口をつぐんだ。

 「安井君、痛むだろうね」と、波田はボーイ長にきいた。

 「ええ、痛くて、痛くて、他の人の痛くないのが不思議で……」と答えた。

 「困ったね。航海中だから、まあ、できないだろうけれど仕方がないから、我慢するんだね。横浜へついたら病院へ入院ができるさ」と波田が慰めた。

 「ところが、できないんだ。ボーイ長はまだ雇い入れがしてないんだ。これは確かに船長の失敗なんだ。この点から攻撃すれば、解雇手当や負傷手当などはもちろん、取りうると思うんだ」藤原はこういった。

 「雇い入れがしてなくったって、入院はできるさ。この重傷を入院ささんてことはないさ。それに、雇い入れと、負傷とは、どんな関係がありようもないじゃないかね」波田は、藤原が入院を拒みでもするように食ってかかった。

 セーラーの 三上 ( みかみ ) 西沢 ( にしざわ ) 、水夫長、大工、コックなどは、もうその寝床でグーグーいびきをかいていた。全く、何か特に興奮することでもない時は、食後は非常に眠いのであった。全く目があかないほど眠いのであった。 幼子 ( おさなご ) が夕食を食べながら居眠るように、幾日か続いた強行軍で、兵士が歩きながら眠るように、それと同じく眠いのであった。けれども、この三人は、今食後十分か二十分の熟眠どころではないのだった。今や、彼らはボーイ長が雇い入れなしに使役されていたという事実について、彼らの意見を発表し合う必要が生じたのであった。

 「そんなことは、海員手帳にチャンと書いてあるこった。議論の余地なんぞありゃしないさ」と、ストキの藤原はいった。(事実それは海員手帳に記入されてあることであった。そして、いかなる場合でも船長はこれを怠ってはならないのであった。法文の上でも、実際から行ってもそれはそうでなければならず、またそうあるべきであるのだったが、さて、それがそうされなかった場合は問題はどうなるかということは、ほぼ、そうあるべき通りに、行かないのであった。要するに、理論からも、実際からも、人間は、平等に、幸福でなければ困るが、一部の人間は、平等は困る。おれたちだけのぜいたくがいいんだ。搾取の痛快味こそ生活の意義だというので、わかり切ったことがわからなくなるように、ボーイ長の場合においても、明白に、ボーイ長が有利な立場にあるにもかかわらず、その全体の利益と権利とをフイにするところの一要素である「労働者」で、ボーイ長があった。だから、これは、それほど簡単に、数学的の結果を見ることは困難であろう。その代わりに、法律的ないしは、商業会議所式の結果を見るであろう)と、三人が話し合いの末、そこまで落ち着いたのであった。

 「だから、おれたちは、これに対してはたたかわなけりゃならん」と藤原はいった。

 この時、ブリッジからコーターマスターが降りて来た。そしてボースンの室の入り口から怒鳴った。

 「今から、ディープシーレット(深海測定器)を入れろッ」と、それから水夫室へ来てそのまん中で大声に「スタンバイ」と怒鳴った。