University of Virginia Library

     一九

 三上と小倉は、水からはい上がった犬のような格好で、サンパン小屋の前へ行った。そこは、ルンペンプロレタリアがサンパン押しとして、 ( しらみ ) のように、ウヨウヨ小さな家の中に詰め込まれていた。そこは、昼も夜もなかった。そこに集まっている者はすべてが、 永劫 ( えいごう ) の昔から、無限の未来まで、そこで寝ころんででもいるというような感じを与えた。彼らは、あらゆる悪徳と、自暴自棄と、そうして飢餓との頂点から、いつでも、決して離れたことがなかった。

 死にかけた犬にも ( のみ ) やだにがついているように、飢えたる彼らの周囲にも、飢えた小売り商人が大福| ( もち ) ( ともえ ) 焼きなどを、これもほとんど時なしに売っているのであった。

 その夜は、それらの夜店も見えなかった。

 三上と、小倉とは、その凍寒と、飢餓とから ( のが ) れるために、 旅籠屋 ( はたごや ) か、飲食店かをさがさねばならなかった。彼らは、それ以上、寒さにも飢えにも ( ) え切れないように感じた。彼らは、そのよく知った地理によって、夜おそくまで、あるいは徹夜でも営業する飲食店が、どの辺にあるだろうとの見当はついていた。

 それは彼らが今さまよっている海岸付近か、でなければ遊郭の付近であった。

 彼らは、大通りに出た。そして十五、六間も歩いた時、その横丁に港町独特の飲食店がまだ起きているのを見いだした。二人はすぐ、そこにはいった。二人の異様な風態も、その凍えたぬれたところなども港町の飲食店はなれていた。幸いに、二人は、そこの一室へ、そのズブぬれの靴を脱ぎ、その着物をかわかしうることになった。二十七、八になる女中がすぐに 火鉢 ( ひばち ) へ火を入れて持って来た。

 「どうしたの、ちょいと、今ごろ、今入港したの! そうじゃない? まあ! 随分ぬれててね。若いからよ、ホホホホ。脱いでかわかしなさいな。ね、私、着物を持って来て上げるわ、泊まってくんでしょう。もちろんだわね。ホホホホホホ」

 彼女は全くの親切からのようにそういった。そして、下へ降りて行った。どてらでも持って来るのらしかった。

 三上はもちろん喜んだ。そして彼はもちろん泊まる気でいた。小倉も 一人 ( ひとり ) で帰るわけには行かなかった。それに彼は三上の今夜の事件を、どういうふうに処置をつけるか、考えねばならなかった。――船長は明朝になったら、三上を懲戒下船命令を発して、一年間あるいは三年間ぐらいは乗船不可能にしてしまうだろう。それだけでなく、それだけで済めばいいが、事によると、 恐喝 ( きょうかつ ) 取財ぐらいで告訴するだろう。これらについても自分としては何とか考えをまとめて置かなければならない。それにとにかく、こんなにズブぬれのガツガツの飢えではしようがない。そこで、二人は腹をこしらえることを考えた。

 「ねえさん、おそくなって済まないがね、もしできたらすきやきがやりたいんだがね。寒いんだから、すきやきでないととても暖まらないからね」と小倉は注文した。

 「ええ、できるわ、きっと、あなたの事だから。ホホホホホ、お 銚子 ( ちょうし ) は?」と立ちながら、彼女は聞いた。

 「酒を持って来るんだ」三上が受けた。

 「ホホホホホ、一切合財皆もちろん、――だわね」と ( うた ) にしながら、下へ注文を通しにおりて行った。

 二人は、どてらに着換えて、その着てたもの全部を、柱にかけた。

 彼らは人が恋しかった。ことに女が恋しかった。どんな動機からであろうとも、彼らに優しい言葉をかけてくれる女性は、この地上に、もし生きていればその母か姉妹だけであった。

 けれども、彼らは、それらをまるで失ってしまっていたか、まるで知らなかったか、または、それをはるかに遠くへ残して来ているのであった。

 優しい女性! それは、彼らには、何物よりも ( たっと ) い宝玉であった。一切の歴史から ( しいた ) げられて来た、哀れなか弱い女性! 彼らが反抗する必要のない、彼らによってまでも愛護されなければならない、

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虐げられたる女性、それは、虐げられさいなまれて来た労働階級と、よく似た運命を持っていた。

 彼らは女性を慕った。そして、それが 娼婦 ( しょうふ ) 淫売婦 ( いんばいふ ) とに限られてあった。女の中でも最も弱い階級と、男の中で最も虐げられた階級との間には、ブルジョアがそれらに対する時と違って、どこかに共通な打ち解けた点があった。それは共同の敵を持っている味方同志であった。

 表面的の関係は買い、売った、ことになっても、彼らにきわめてわずかに残された人間性が、それを、人間的に引き戻す機会もあり得た。そして彼らはどちらも、プロレタリアであった。

  ( すさ ) みにすさんだ心に、落ちる一滴の涙は、どんなに悲しいものであるか。

 女はやがて牛肉を ( はち ) に並べて持って来た。そしてそのあとから今一人若い二十二、三の女中がお ( かん ) のついた銚子を持ってはいって来た。

 女がいたり、酒があるということは三上を有頂天にした。彼は 一人 ( ひとり ) でしきりに飲んだ。女たちにもしいた。少しは彼女らも飲んだ。

 「どうしてあなたは少しも飲まないの」と、若い方のが、小倉にもたれかかりながらきいた。

 「その代わり食ってるだろう」

 「だって、私たちもいただいてるんですもの。少しは飲むものよ、男ってものは、ね」

 彼女は小倉が ( ) まじめで、肉ばかり食ってるのを見て、少し陽気にしてやろうと考えたらしいのだった。

 「ところが、僕は酒が飲めないんだ。船のりらしくもないだろう。でもやっぱり飲めないんだ。虫がきらいというんだろうね」といいながら、小倉は肉や ( ねぎ ) などをつつきながら、頭は ( もや ) いっ放しの 伝馬 ( てんま ) のことと、三上対船長との未解決のままの問題との方へばかり向いていた。

 で彼は、三上が、しきりに女をからかったり、例の変態的な性格でいやがらせたりしながらも、小倉の方に時々探るような目を注ぐのに気がつかないのだった。

 三上は、やはり、船長との一件で小倉の意見が聞きたかったのであったが、それよりも、彼は、その場の喜び、形式だけであるかもしれない、事実それに違いないところのその浅い喜び、ほとんど通常の陸上の人から考えると 嘔吐 ( おうと ) を催すかもしれない、その女たちの風体、態度、その他一切の条件にもかかわらず、それを長い間そのために一切を捨てて ( たず ) ねあぐんだ冒険者が、金鉱でも発見したかのように、その喜び、その楽しみから、一歩も足を踏みはずしたくなかった。実際三上は、もし、ほんとうに三上を愛する女があったら、彼はその女のためにどんなことでも虚心平気にやってのけたに違いない。彼は、生まれてから、すぐにその ( うみ ) の母親に死に分かれて、それっ切り、人間に愛があるということはおろか、子供に乳があるということすらも知らずに育ったのであった。彼はきわめて幼い時から、海べへ出て、漁夫の手伝いをした。そして自分の食う分は五つぐらいの時分から自分でかせいだ。そして彼は小学校へ行く代わりに 鰹船 ( かつおぶね ) で太平洋に乗り出した。沖を通っている、山のような船の中に「洋服」を着た人間が働いているのを見て、「自分も洋服を着て働きたい」というので、鰹船を捨てて、汽船乗りになったのであった。彼は、だれからも、ほんとに愛されたことのない人間であった。まただれもほんとに心から三上を愛する気にはなれないだろうと思えるほど、彼は異様にひねくれていた。そのくせ、彼は、「だれかがほんとにおれに親切にしてくれたら」と、どんな時間にでも思わぬことはないのであった。従って、彼は、西沢が女郎に愛されたという話を聞くと、きっと、彼はその女の名前をきき出して、次航海には、ソーッと 一人 ( ひとり ) で、「愛」とはどんなものかを探りに行くのであった。三上のこの心の秘密は、だれも知らなかった。であるから、彼は変態性欲者と、その真実の「愛」を求める原始的巡礼の状態を名づけられたのであった。で、彼は自分が、他にとって、決して 真摯 ( しんし ) な愛に相当しないことをさとって、自らもジョーカーとなったのである。

 三上は小倉を盗み見しては飲み、かつ、その 年増 ( としま ) の女を捕えて悪ふざけしていた。が、小倉は黙って食っていた。小倉の相手の女はとりつき ( ) がなくて、困っていた。三上が便所に立って、相手の女も続いて案内に立ったあとで、小倉のそばにいた若い女は、「どうしてあんたはそんなに黙ってるの、何かおもしろくないことがあって? も一人の人はあんなにはしゃいでるじゃないの、それとも、もうあんたは眠いの?」とその ( ひざ ) にもたれながら小倉にきいた。

 「あの男はね、かわいそうな男なんだよ。あの男の事を僕は心配してるんだ」と小倉は答えた。

 「どうして、あの人がかわいそうなの。私ならあんたの方がかわいそうだわ」と女は、しんみりといった。

 「陽気に見えたからって、その人間は何もかもが苦労がないわけじゃないだろう。あれはね、さびしくてたまらないからはしゃいでるんだよ。それにあの男にはね、苦労があるんだ。私もあの男のために一つの苦労を持っておるんだ」と小倉は女が、しいて彼のきげんをとるに及ばないことを暗示しようとした。

 「まあ! あんたは若いおじいさんね。あの人より若いんでしょう。だのに 息子 ( むすこ ) の事でも気にするように、あの人のことを気にしてるわ、でも、あなたは、いい人ね」と、だんだんまじめになりながら、女はそれでも、「ひやかすのよ」といった調子を含めていった。

 「どうしたんだ。大変おそいね、便所が」と、小倉は女にきいた。

 「あら!」と女はわざと驚いて見せて、「もうおやすみになったんだわ、あなたまだ ( かわや ) にいらっしゃらない」

 「もう幾時ごろだろう」

 「三時よ、もうじきに。やすみましょうよ。ね」

 「だけど、僕今夜じゅうに船にあの男と一緒に帰らなけれゃならないんだがなあ」小倉は困ったようにいった。

 「なぜ? 私がいやなの。だったら私代わってもいいわ。そんなこといわないでね。 後生 ( ごしょう ) だわ」

 女は、小倉が自分をきらって 駄々 ( だだ ) をこねるんだと思って、困り切っていた。

 「ねえさん。間違っちゃいけないよ。僕、ねえさんが、きらいでなんかありゃしないんだよ。ただ、船長がね、今夜じゅうに船に帰れといって、帰っちゃったんだよ。それにね、船じゃあ、みんなが、この 暴化 ( しけ ) だろう、だから気づかって待ってるだろうと思うんだよ。船長のいうことは、僕はどうでもいいけれど、船にいる僕たちの仲間はね、寝ずにいちゃ気の毒だろう。だから、あの男と二人で夜の明けないうちに帰りたいと思ってるんだけどね」

 「じゃ、あたし、そんなわけならあの人にきいて来て上げますわ。どうなさるかってね。だけど、ずいぶんしけてなくって? あぶないわね」といいながら障子を明けて出たが、それを締める時にちょっと振りかえって、「ちょっと待ってらっしゃいね」といって、三上の方へと行った。

 「無産階級には共通な感情がある」と小倉は思うと、急にセンチメンタルな気持ちになって、その女が帰って来たらいきなり熱いキッスを与えてやろうと思った。

 やがて女は帰って来た。そして、小倉のそばに遠慮がちにすわりながら、

 「ねえ、あの方、三上さんてえの、あなたが小倉さん、ね、小倉さん、三上さんはね、あなたを巻き添えにして済まないけれどね、とても今夜は帰れないんですって、 明日 ( あす ) になったって、どうだかわからないんだなんていっててよ。そして、済まないがとにかく明日の朝まで待ってくれるようにっていって、そのまま寝てしまいなすったわ」

 「ああ、いいよ。それじゃ僕も泊まらせてもらおうか。ねえさん。僕はね、ねえさんがきらいでなんぞないんだよ。抱きしめて、キッスしたいくらいだよ。だけど、僕にはね、僕が愛してると同じように僕を愛してる人があるんだよ。だから、僕は一人で寝るから、ねえさんは、帳場の具合が悪かったら、床を二つ敷いて、並んで寝ようね。そして寝物語に、ねえさんのほんとの恋人の話でも聞こうよ」といって、さびしく気の毒そうに小倉は笑った。

 「まあ!」と立って床を延べようとしていた女は、急に小倉の ( ひざ ) の上につっ ( ) した。そして泣き入るのだった。小倉はびっくりした。

 「どうしたの。一体、え、そんなに帳場に都合が悪けりゃ一緒だって、ちっともかまわないから、泣くのはおよしよ。ね」

 小倉は女を起こそうとした。女は起きなかった。そしてなおも泣き続けるのだった。

 「およし、ね。泣くのはもうおよし。どんな、苦しい事情があるか知らないが、聞かなけりゃわからない。泣くほどの事があるんだったら膝とも談合ってこともあるから、僕にでも話して気が紛れないこともないかもしれない。とても力にゃなれまいけれど、もし役に立つことがあったら、役に立つから、泣いてばかりいないで、話してごらんな。ね、僕明日の朝早く帰らなきゃならないんだからね。また二、三日か四、五日は 碇泊 ( ていはく ) してるから、毎日にでも来るから、ね。サア床を敷いておくれ」といって、小倉は女をその膝の上から ( かか ) え起こした。

 「ええ、今、床を敷くわ、ちょっと待っててね、片づけるから」ハンケチで目を押えてさびしそうに彼女はそこらの食べ散らしを片づけ始めた。小倉も彼女に手伝って、 七輪 ( しちりん ) などをかたわらへ寄せた。