University of Virginia Library

     二〇

 寝床はそこへ敷かれた。それは一つであった。 ( まくら ) も男枕が一つッ切りであった。

 「どうしたんだい、お前さんはなぜ泣いたりしたんだね」と小倉は、そのまま床の中へもぐり込みながら、気の毒そうに聞いた。

 「私はね。この家へ来てから、あんた見たいな人に会ったのは初めてなの。初めの間は、私もあなたを『お客』だと思ってたの」といいながら、彼女は枕もとの 火鉢 ( ひばち ) の前へ、 生娘 ( きむすめ ) がするように、つつましくすわって、はにかみながら話した。

 「だけど、だんだん話したり、聞いたり、見たりしたりしてるうちに、あなたは船乗り見たいじゃないように思えて来たの。私ね、こう思ったのよ。この人はきっと間違えてここへはいったんだ。そうでしょう。ほんとに牛肉のすきやきだけしか食べられないところだと思って来たのでしょう。そういう人の前へ出ることは私たちには恥だとはあなたは思わないの。相手が野獣であるときだけ、私たちだって野獣にもなれるのよ。私たちは、何でものろってやるわ、何でも、神様や仏様なんぞ、とっくの昔に、のろって、私はそばに寄せ付けないようにしてるわ。だけどもね、私たちの家に、私たちの肉以外のものを、まるで坊っちゃん見たいな、素直な気持ちで求めに来たあなたには、私たちの気持ちはわからないでしょうね。

 私たちはね、あなたのような人を見ることはないのよ。監獄にはいってる女の人が、男の人を見ることよりも、もっともっと、ずっと、私たちがあなた見たいな人を見ることの方が少ないのよ。それはね、男の人は、皆| ( けだもの ) だからなのよ。

 ええ、全く獣なのよ。私はそう断言できてよ。だけどね。それや男の人の罪でもないんだわ。それはね、神様や仏様の罪なんだわ。そうでしょう。ね、自分で人間を作って置いて、自分でこれはいいあれは悪いと決めて置いて、そして、自分の作った人間を、自分の作った罪悪の中へ、まるで 陥穽 ( おとしあな ) にでも落とすようにして、はめ込んでしまうのは、それや神仏の責任だわ。だから、私のこわいのは、神仏じゃないの」

 「じゃ何がこわいんだね」小倉は眠くてたまらなかったが、女の珍しい言葉につい興奮さされて起きていたのだった。

 「私寒いから、あなたのそばへはいってもいいでしょう。ね、ただはいるだけなのだから、ね、いいこと」

といいながら、女は帯も解かずに小倉の寝床へはいって来た。そして床のすみに小さく 黄金虫 ( こがねむし ) のように固まりながら、

 「私たちはね、ほんとに心から『愛そう』と思う人を見つけることができないのよ。

 私たちが、第一、 ( ) り好みする事がいけないって、あなたも考えて? 私たちだって、何かを見分ける力を持つことが、悪いってことはないでしょうね、よし悪くっても、それはあるものなんだわ、だから私たちは、心から人を愛するということはできないのよ。だけどもね、それは私たちの愛するだけの『価値』のある男が、この世の中にないってことじゃないのよ。そういう人もあるのよ。ええ、そういう人もあるのよ。そしてね、随分| ( しゃく ) にさわることはね、それは全く腹の立つ、癪にさわる生意気なことなのよ。そういう男はね、私たちが、ほんとにしんみりして、その人と愛し合いたいと思うような、そういう人はね、いつでもきっときまり切ってばかなのよ。ばかでのろまで、ぼうっとしてるの。でそういう男はね、私たちが、その男を愛してるってことがわからないのよ。そしてまた、その男は随分ばかね。私たち見たいな女は、男性を愛することは職業的以外にできないとでもいったように、無関心なのよ。全く、ばかにつける薬ってものは昔から、どこにもなかったのね」

 彼女は、まるで夢遊病者か何かのように、天井を向いたっきり、その大きく開いた目を、自分の 頭蓋骨 ( ずがいこつ ) の内部でも凝視しているように、じっと据えて、熱に浮かされてるように、早口に、熱心に、そして、 一人 ( ひとり ) 小火 ( ぼや ) を消しでもしてるようにあせって、あわてて話した。そのくせ、彼女のからだはそこへ ( びょう ) でねじつけられでもしたように、動かなかった。

 小倉は、よく話がわかった。そして、自分が、気取り屋でばかであることを、十分にこっぴどくやっつけられていることも知っていた。けれども、それにしても、「何という 聡明 ( そうめい ) な女だろう」と、彼はもうすっかり眠けを奪われてしまって、女の言葉の方向の動くがままに、その疲れ切った意識を引きずり回され、血みどろにされるのであった。

 「そしてね、そんなばかげたことは、あるはずがないのだけれどね、私たちも、また、ばかなのよ。なぜだと思って? それはね、私たちはいつでもきまり切ってばかだけに ( ) れるのよ。そのばかはね、いつでもきまり切って、戸惑いした ( すずめ ) のように、間違って飛び込んで来るだけなのよ。ホホホホホ、ね、小倉さん、あなたはご自分が賢くって品行のいい、船のりには珍しい、堅い、善良な、そしても一つあるのよ、人類のためになる人間だと思ってるのね。ね、そうでしょう。そうよ、そうよ、私にはね、あなたが自分で知らないことまでわかるんだわ。だから、まあ聞いてらっしゃい。だけどね、小倉さん。あなたは、それだけじゃ三上さんよりも、まだだめな、役に立たない ( ごく ) つぶしよ! わかって。世の中にはね、この汚れた世の中をすこしもよくしようとしないで、ますます悪く、腐らせて行くためにだけ努力していて、それでいて自分は点の打ちどころのない善良な人間だと思ってる人が沢山あるのよ。帽子をキチンとかぶって、 几帳面 ( きちょうめん ) な、ガキガキと歩いて、一銭も人から借り倒さないで、 乞食 ( こじき ) には、きっと一銭――一銭より少なくも多くもないことよ――それっぱかしだけやって、女といえば、おかみさんだけしか知らないで、それも、まるで家の 雑巾 ( ぞうきん ) と同様に無趣味に ( かわ ) かし上げて、ね、若いうちから、決して女郎買いなどしないで、その代わり、小倉さんは航海学を読んでるでしょう。そして、高等海員の免状を受けようともくろんでるわね。勉強してることね。あんたは。ね、いいの、あんた見たいに、勉強して、そして、階段を上がろうとして骨を折るのよ。だけどね、その階段はね、滅亡への階段ってのよ。わかって。それをうまくのぼっても、その階段自身が滅亡する運命になってるし、それがまたある間は、その階段をささえる土台の方で、無数の人間が失われる滅亡の階段ってのよ。その階段てのが、一切の ( もと ) なのよ。ね小倉さん。実は、ありもしない幻の階段のために、実在してる人間が、 永劫 ( えいごう ) に苦しむってことはいいことなの。あんたにはわかるはずだわ。あんたは、その階段からまるでその焼けつくような目を放したことがないんだもの。それは、あんたにはわからねばならないんだわ。あんたは、私や、その他ありとあらゆる不幸な、あんた自身も、その不幸者の第一人よ。よくって、その沢山の不幸な人間をもっと、もっとふやすために、あんたは、大骨折りで勉強して、そしてひとかど善人ぶってるのよ。ホホホホホホ、とうとう、私、あんたを、大ばか者にしてしまったわね。ご免なさいね。だけど、それはほんとに、あなたは大ばかなのよ。ホホホホホホ」女は全速力の船の、スクルーシャフトが回転してるようだった。

 「ああ、それはほんとの事だ!」と、小倉は口走った。

 「僕は、社会の、秩序という大きな看板に隠れて、自分の利欲のみを得ようとしていた。それは全くだ」

 「ほうら、白状してしまったわ。あなたはね。高々船長ぐらいになって、三上さん見たいな人をいじめて、ご自分はまた、自動車か何かに乗った 耄碌爺 ( もうろくおやじ ) からわけもわからないことをいっていじめられたいの。およしなさい。仰向いて ( つば ) を吐くのはやめるものよ。だけど、あんたが船長になると、今度は、ほんとに純粋な生娘が、あんたに ( ) れてよ。そして、船が着くたんびに、あんたに、ダイヤモンドの指輪を『愛の表象』としてねだることよ、ホホホホホ。それは、あんたに幸福をもたらすわね。私みたいな、ええ、私は 淫売 ( いんばい ) よ、それが、どうしたっての、小倉さん、あんたは淫売よりも、一生涯を通じての 娼妓 ( しょうぎ ) がお好きな 一人 ( ひとり ) でしょうね、ホホホホ。だけど、あんたは、さっき『僕が愛してると同じように僕を愛してる女がある』っていったわね。私、私、私だってだれにも劣らない愛を持ってるんだわ、だけど、私は前科者なのよ。ホホホホホ。世の中の人間は、自分を縛ってる鉄の鎖が、人をも縛ってると思うと、安心して自分の鎖が軽くでもなるんだと見えるわ。それはね、 奴隷 ( どれい ) 道徳の鎖よ。因襲の鎖ってのよ。だけどね、小倉さん。私には、そんなことはないのよ。

 私そんなこと、夢にも思わないんだけれど、たとえばね、もしか、私があんたを愛したくっても私が淫売ならその資格がないとでも、あんたはいいたいんだわね。いいえ、そうよ、ま、黙ってらっしゃい」彼女は、小倉が何もいおうとしてもいないのに、あわてて彼のいうのをさえぎった。

 「私はあんたに愛させてくれるように、頼む資格もないと思ってるのね。だけどね、小倉さん、私は幻の階段を追うような利己主義者は、私の方でいくら頼まれてもいやなのよ。それは 意気地 ( いくじ ) なしの考える生き方なんだもの。それは私たちが、こんな恥ずかしい商売をするよりも、もっともっと恥ずかしい、堕落した、 外道 ( げどう ) のやり口よ。

 だけどもね、小倉さん、もしあんたが、そうでなかったら、もしあんたが立派な人間で階段なんぞ認めない人だったら、私は、私は、あんた見たいな人に初めて会ったことを白状してよ。そして、私は、あんたを、世界じゅうで一番強い、弱い者の味方としてなら、私はあんたを愛したいの。だけどもね、何だって私はばかなんだろう。あんたにはいい人があったのね、私、私、私だって、私はね、小倉さん。あんたが高等海員の試験を受けて、船長に立身するように、試験を受けてでも、願ってでもなく、この商売に、むりやりにほうり込まれたんだわ。私のいうことがわかって、ホホホホホホ。私のいうことはね、こんな商売してても、それは私の知ったことじゃないってつもりなのよ。あなたが船乗りをしてるのも、私がこんな汚らわしいことをしてるのも、性質は同じなのよ。そしてね。私の方が、ほんとうは、もっと尊敬してもらわなければならないほど苦痛な部分を引き受けてるのよ。わかって? 人間が生きるためには、どんな苦痛でも忍ぶもんだわ。生きるためには、より早く死ぬ方法までに、飛びつくものよ。

 私なんぞ死ぬまでに、ほんとに自分のしたいと思ったことの、反対のことばかしさせられてとうとう死んじゃうんだ。自分の思う通りになることは一つだってありゃしないんだわ。私はね初めはね、あんたをただのお客と思ったの、そして次には坊っちゃんと思ったの、その次はほんとに物のわかったおとなしい人だと思ったの、そしてね、今ではね、あなたは、そうね、何だろう、何といえばいいだろう、私のおとうさんだわ。私を産んだ、私の知らない、ほんとの私のおとうさんだわ、ホホホホホホ……私おとうさんに……」