University of Virginia Library

一三

 『そういう悲惨な事情であるから、自分の労働賃銀の一部を積み立ててある、積立金を払い戻してくださいというのです』白水が代わって話した。

 『君は頼まれて来たのかね』後明は、それの方が先決問題だというような顔つきできいた。

 『そうです』

 『そうかね』と、今度はその男にきいた。

 『へー』と、どっちだかわからぬ返事をその男はした。

 『その事が、その積立金払い戻しについて、それほど重大な先決問題じゃないではありませんか、問題はきわめて簡単でしょう。労働者がその売った労働力に対して支払った金額の一部を、会社が労働者のために積み立ててある、強制的に。その金額を、労働者が返してくれというのは、まるで一分の思考をも要しないことじゃありませんか』白水はまくし立てた。

 『そりゃね、だれも払わんとはいわんのだが、どういう手続きで持って行こうってんだね』

 『支払い伝票さえ書けばいいこっちゃありませんか』

 『つまり、退職しようというんだね』と、意地わるの後明人事係はいった。

 『退職! だれが、いつ退職なんていったんです』と白水は少しずつ興奮してやり始めた。

 『だが、会社の規則では、積立金は、退職の時に支払うということになってるもんだからね。従って、積立金を受け取る者は、同時に、賃銀の残額をも一緒に支給されることになるわけだね』と、その豚めは、いやに ( しり ) を落ちつけてやがった。

 『もちろん』と、白水は口を切ったんだ。やつが、何か心に決することがある時の重々しい口調でね。

 『労働者が退職して行く時に、積立金が賃銀と同時に支払われるのは、当然なんだ、それは工場法にも明記されてあることなんだ。しかし、それはいかなる事情があっても、会社に損害のかかった場合でも、それから差し引くことができない、性質の金なんだ。その金が本人退職後もなお会社に残っていたとすれば、明らかに委託金横領ではないか、その金が支払われるのが、いつも最後の例だからって、その金を受け取ることによって、辞職を意味するなんて、そんな 詭弁 ( きべん ) が、よくも人事係の君の口から吐けたもんだ。君のその論調と態度とが、今まで、労働者自身の金を、どんな必要があっても労働者へ返さなかった、という例を作ったまでのことだろう。君のその論調でやられたのならば、今まで、一時の入用のために、自分の預金を引き出すために、どのくらい多くの労働者を、君は 馘首 ( かくしゅ ) したことになるだろう。この会社の積立金がもし、糸切り歯のように、それをとると、命に関するというのであったなら、僕はわれわれの武器に訴えても、または工場法によって、法においても戦うつもりだ』

 白水がその重々しい論調で、 肋骨 ( ろっこつ ) の間から、心臓を目がけて、 ( きり ) でも刺すように話していると、相手の後明は、最初はいやに 横柄 ( おうへい ) ぶって、虚勢を張っていたんだが、しまいには、おそろしくなったらしいんだ。

 『しかし、私はまだ、 馘首 ( かくしゅ ) するとも退職せよともいいはしないんですよ。ただそれは例のないこった、今まではこういう仕来たりであったといったまでですよ』と、その千枚張りの ( つら ) の上に油をかけやがるんだ。

 『悪い例なら破ったらどうだというんだ。旧来の 陋習 ( ろうしゅう ) を破ったらどうだというんだ。一切| 合切 ( がっさい ) を前例に守っていたら、人間はいまだに、人間の肉を食って、生活しなければならないんだ。まだ人間が人間の肉を食っているんだが、それがなくなるためには、あらゆる旧来の陋習が破らるべきなんだ。ことに法律でさえ保障しているような範囲内にまで、労働者を搾取し 劫略 ( ごうりゃく ) することは、明らかに人間| 嗜食 ( ししょく ) の一形式だ』白水はますます彼の ( きり ) をもみ込んで行った。

 『いや、君のように興奮しちゃ困りますよ。そういうお気の毒な事情ならお払いするようにしましょうが、何しろ前例のないことですから、一度重役まで伺って見なければなりませんが、今すぐでなければいけないんですかね』と白水にいって、

 『オイ、どうだい、すぐいるのかい』と、哀れな切り株にきいた。

 『もちろんすぐです。 今日 ( きょう ) はもう三日後になってるんだから、おくれてるんですぜ』と、白水は、その切り株があわてて、ヘマな返事をすることだろうと思って、引き取って答えた。

 『それじゃお話しして来ますからしばらく待っててくれたまえ』といい残して、バリカンでいたずらに毛をきられたむく犬のような格好で、後明人事係は出て行ったんだ。

 長いこと待たせて後明は帰って来て、紙っ切れを渡して、

 『それへ金額を書いてください、そして、その金額は向こう三か月間に分割して、収入から差し引いて積み立てますから、そのつもりでいてください』と抜かしやがったんだ。

 『何をこのむく犬め』と、白水はいきなり怒鳴りつけて、そこにあった 椅子 ( いす ) を振り上げかけたが、切り株が止めた。

 『へえ、ありがとうごぜえます。今さえ助かりゃ、あとは三月で間違いなくお返しいたしますから』と、一方で白水を引っぱりながら、一方で後明に、承知をした上、ご丁寧なお辞儀を一つしたんだ。

 『へえ、何に、今の都合がつきゃあとはまた、まっ黒になってかせぎますから』と白水にいったんだ。

 その事件があって後の白水は、会社側からはなはだしく忌みきらわれた。そして白水の 馘首 ( かくしゅ ) が事務員から、重役の問題にまで進んだんだ。

 この家屋浸水事件後、僕と白水その他の多数の兄弟たちが、A工場に対して、N市における最初の大規模な応戦を試みて、全部が、見事に陣頭に倒れ、おまけに僕と白水とほかに四人の兄弟が、その争議のため、 牢獄 ( ろうごく ) の赤い 煉瓦塀 ( れんがべい ) をくぐることになったんだ。それは九月の末ごろであったろう。A工場の労働者たちは、切り株浸水事件の後に、白水が積善会の積立金の会計報告等が一切ないことを鳴らし、かつ工場

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の扶助規則や未成年労働者使用等、規則違反が多いことなどを表面の理由として、資本家階級の間に、どんな策戦があるか探りを入れ始めたんだ。N市は地方色的に利己的なところであった。そのために争議も、一種の地方色を持っていたのだが、僕らは、最初の日の示威運動がすむとすぐに警察へ引っぱられ、そのまま、未決監へ送られたので、争議の経過は、まるで知らなかったんだ。だが、僕らが警察へ検束された翌日、ドシャ降りの雨の中を、A工場の兄弟たち千人が、警察へ示威運動に来て、警察へ委員を送って検束の理由を聞く一方労働者軍は、雨の中でその響きと和して革命歌を合唱してくれた時は、僕ら五人は中で思わず革命歌に合唱したんだ。そして、その日の夕方、その日の示威運動をリードした 鈴木 ( すずき ) 君が、はだしで引っぱって来られたんだ。

 僕らは、警察から検事局、検事局から未決監、予審と、順を追うて進むべき道を進んだんだ。そして、そこへ送られた五人の初犯囚は、警察の恐るべきでないと知ったごとく、****なる

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べきでないことをまた知るに至ったのであった。その争議は、N市に永久に、無産者運動を据えつける基礎になった。

 そして、その刑を終えると、同志はそれぞれ ( たもと ) を分かって、他の都会へ散って行ったんだ。そして、僕だけはこうして船乗りになっているんだ。白水は今は

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どこで活動してるだろうと、よく僕は思うんだ。船における戦闘は、陸上とは全然趣を異にすることが、このごろ僕にはわかって来始めた。僕らは、百人分の米を作って、自分は飢え、千人分の布を織って自分は凍えたり、大建築を建てて自分は行きだおれしたりするような労働者の地位を全く改めうるまでは、不断の闘争が必要なんだ。そしてその時は必ず来るんだ。当然来るべきよきものを迎えないという法はない。われわれはそれの来るまで迎えるんだ」

 ストキはポケットから 煙草 ( たばこ ) をとり出して火をつけた。

 「波田君、僕の話がいや味になりやしなかったかい。うんざりしちゃったろうね」

 「いいや、おもしろかった。僕は、君らが経験した監獄の話を聞きたいんだ」

 「監獄の!

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 監獄の話は単調なものだ。単調無為という苦痛だけさ。社会では、僕らの生命はそれを顧みる暇のないほど多忙に搾取され、その ( どぶ ) だまりに投げ込まれるが、監獄では、ただじっとそれを見詰めるというだけのものだ」藤原は、静かにデッキへ出て行った。

 「さあ、それじゃ、僕は昼食のしたくをしなきゃ」といって、波田は、コック 部屋 ( へや ) へと出て行った。

 デッキでは、藤原は、波よけにもたれて、荒涼たる本州北部の風光に見入っていた。