University of Virginia Library

 皆は、 今日 ( きょう ) 昼中の労働がはげしかったので、夜は休みになるものだと考えていた。 暴化 ( しけ ) はややその勢いを静めはしたが、しかも、船首甲板などは一| ( なみ ) ごとに 怒濤 ( どとう ) が打ち上げて来た。そして、水火夫室の出入り口は、波の打ち上げるごとに、すばらしく水量の多い滝になって、上のデッキから落ちて来るので、一々その重い鉄の ( とびら ) を閉ざさねばならぬほどであった。それに、けさからのワシデッキとハッチの密閉とで水夫たちは、その着物の大部分をぬらしてしまった。(波田、三上のごときは、その全部を二重にぬらした、つまり一そろいの服を二度ぬらした。)それで、今、だれの仕事着も洗いすすがれて、 汽罐場 ( きかんば ) の手すりに、かわかされてあった。

 水夫たちは起きるとすぐ、 猿股 ( さるまた ) 一つでか、あるいは素裸でか、寝間着かで、汽罐場まで、仕事着をとりに行かねばならなかった。けれども裸で、その寒さに道中はならなかった。

 波田は、自分の仕事着がまだ、今かわかされたばかりであるので、いくら汽罐場の上でもまだ生がわきであることを知っていた。従って彼は、猿股一つの上に 合羽 ( かっぱ ) を着て作業しようと

[_]
[8]
決心でいた。ところが仕事着は小倉が彼に一つくれることにしようと申し込んだ。それで、彼は、油絵のカンバスのような、オーバーオールを一つ手に入れることができた。それにはペンキで未来派の絵のような模様が、ベタ一面にいろどられて、ゴワゴワしていた。

 「それでも、ロンドンで買ったんだぜ」小倉はいった。

 「舶来の 乞食 ( こじき ) が着てたんだろう。こいつあ具合がいいや」と彼はいった。

 水夫たちは皆| ( おのおの ) スタンバイした。そして、ともへと出かけた。

 暗黒は海を横にも縦にも包んでいた。 ( やみ ) は、その見えない力であらゆる物を縛り、締めつけ、引きずり、ころばしているように思えた。それはすべての物をまとめて引っくるみ、その中の部分をも締めつけた。風が波に ( ) っつかり、マストに突き当たり、リギンに切られて、泣きわめいた。海はその知らぬ底で大きく低く、長く ( いが ) んでいた。

 わが万寿丸は、その一本の手をもって、相変わらず 虚空 ( こくう ) をつかんで行き悩んでいた。船尾

[_]
[9]
の速度計は三マイルを示していた。

 水夫たちは、倉庫からグリスを取り出して、ウエスにつけてその手に握った。

 そして、ボースンが、ランプを持って、レットの機械を照らした。

 ともからは、波田が以前から、その後頭の左寄りのところにインチ丸ぐらいで深さ二寸ぐらいの穴を「ブチあけ」てやりたい、とつねづねねがっていたセキメーツ(二等運転手)が来た。

 ガラス管は 沈錘 ( ちんすい ) の中へ収められた。そして、バネがはずされた。 ( たこ ) ( いと ) のようなワイアを引っぱってレットは、ガラガラッと船尾から、逆巻く、まっ黒な中に、かみつかんばかりに白い ( あわ ) を吐く、波くずの中へと突進した。デッキの最高部はきわめて狭かった。従って、後部のハッチデッキを浪でおおう時は、われわれは、本船と切り離された 板片 ( いたきれ ) の上にすがっているような心細さを感じた。凍寒はナイフのように鋭く痛くわれらの薄着の ( はだ ) をついた。 飛沫 ( ひまつ ) は絶えず、全部の者を縮み上がらせた。

 レットが、その ( いと ) を引っぱる速度がゆるむと、それは、ハンドルによって止められる、そしてそのワイアの長さが、そこで読まれる。それを読み終わると、二つのハンドルでその 沈錘 ( ちんすい ) を巻き上げねばならない。それが水夫の仕事であった。深海測定器であるから、おまけに進行中であるから、錘は斜めに流れつつ海底に到達するのである。百メートル、二百メートルなどのワイアの長さを読み上げられた時、われわれは、海の深さより、それを巻き上げることの困難さに縮み上がる。

 それはきわめて、それそのものとしては軽いものであった。けれども船の進行と、浪の抵抗とは、釣った魚がいよいよ陸上に上がるまでは、その幾倍もの大きさのように思われる、より以上に、その小さな沈錘を重くした。そして、その手巻きウインチは、きわめて小さくできていたために、ワイアを、一回転に、きわめて小距離、最初は二インチ後に三インチぐらいより巻き取ることができなかった。そして、それが車軸へ来るまでに、 二人 ( ふたり ) の水夫は、グリスをもって、ワイアに塗らねばならなかった。これは、一々塗ることが不可能であるために、二人のセーラーはワイアをグリスのついたウエスで握ってるという形になって現われるのであった。

 巻き方は骨が折れた。と同時にグリスの 塗工 ( とこう ) も寒かった。そして、その全体の者にとって最も苦痛な点は、凍寒と、眠いということであった。

 寒さは全く著しかった。 合羽 ( かっぱ ) をバリバリに凍らせた。皮膚が方々痛かった。歯が合わなかった。からだがしびれて来るのだった。そして、眠りは、もっと強く、水夫たちを襲った。賃銀労働のあらゆる 刹那 ( せつな ) が必要労働と、余剰労働とに分割されうるように、あらゆる刹那に、寒さと、眠さとが、まるで相反した刺激を彼らに与えた。

 寒さに対しては、彼らは必要以上に、からだを揺り動かした。眠さに対しては、彼らは ( ひざ ) 関節が、グラグラして、作業が ( くう ) になるのであった。そして、それが、お互いに、いたちごっこをしているのであった。それはまるで、冗談半分にやってるとより思えない格好であった。

 セキメーツは絶えず、怒鳴り散らした。実際セキメーツにとっては、水夫らがそんな格好をすることは、仕事の能率の妨げになり、ことに「おれをばかにして」いるのであった。水夫らは、セキメーツの怒鳴るのと、波浪のほえるのと、スクルーの 轟音 ( ごうおん ) と、リギンの裂くような音とをゴッチャゴッチャに聞いてしまった。そして、依然として、彼らは、彼らの必然に従って、二つの反射運動を繰り返した。

 セキメーツは自分の怒鳴るごとに、わざと、一度ずつ余分に入れるようにしてやろうと計画した。「こいつらをあくる朝まで巻かせてやるぞ!」と彼は決めたほど ( おこ ) ってしまった。

 沈錘は長い間反抗して、とうとう上がって来た。錘の中からガラス管を取り出して、それに代わりを入れて、入り口を、グリスでしっかり塗るのである。そのガラス管が錘の内へ収まるやいなや、セキメーツは「レッコ」と怒鳴る。ボースンはバネをとる。沈錘と、ワイヤとは投げられた石のように飛んで行く。

 この作業を水夫らは繰り返さねばならなかった。それは我慢のならぬことであった。けれども我慢せねば、またならないことであった。

 水夫らは、八度、それを繰り返した。それは、八日、航海するよりも、八日拘留されるよりも長かった。その間に四時間半を費やした。彼らはぬれた ( ) のように疲れ衰えてしまった。

 セキメーツは徹夜の決心を、自分のために撤回した。彼も今はぬれた麩であった。

 水夫がその 南京虫 ( なんきんむし ) の待ちくたびれている巣へもぐり込んだのは、午前一時前十五分であった。そこには眠りが眠った。