University of Virginia Library

     二八

 一方水夫らは、ボイラー揚陸のために、ハッチの ( ふた ) をとり、ビームをはずした。そして彼らは、マストの内部にとりつけてある足場を伝って、ダンブルの中へと降りて行った。それは厳重に荷造りがしてあった。水夫らは、それが航海中ゴロゴロあばれ出さないように、それをしっかり据え、方々から引っぱるための作業の困難で、とても面倒臭かったことを思いながら、それを取りはずすのだった。取りはずしは、取りつけから見ると、比較にならぬほど手軽に行った。

 クレインは今、室蘭駅の機関庫の見える方から、その怪物のような図体を、渋々とランチに引っぱられて、万寿丸を目がけて近づいて来るのであった。四角な浮き箱の上に、二十五トンの重さの物を引っぱり上げるだけの力と、骨組みとを持った鉄の腕と、ウインチが装置されてあるのだ、けし粒ほどの 小蟻 ( こあり ) 黄金虫 ( こがねむし ) か何かを引っぱるように、小蒸汽はそれを ( ) きなやみつつ、じりじりと近づいた。

 船の方では、いつでも、引き上げられるように、ボイラーはそのあらゆる拘束から釈放された。今はただ大きな腕が、自分をその 牢獄 ( ろうごく ) から引き出してくれるのを待つばかりだった。

 クレインは近づいた。そしてその偉大な腕を、ヌッと本船のハッチの上へ差し延べた。それから、ワイアロープがブラ下がって来た。そのロープの 尖端 ( せんたん ) には人間の腕まわりほどの太さの ( かぎ ) がついていた。この鉤自体が 一人 ( ひとり ) ではとても動かないのであった。そこへ持って来て室蘭では、この種の荷役になれた仲仕がいなかった。その巨大な鉤が上からブラ下がって来て、下から何でもひっかかりさえすれば、引き上げようとしているのに、仲仕はただまごまごするだけであった。

 水夫たちも荷役に手伝った。が、何にしても足場は、ボイラーの ( まる ) いペンキ塗りの上である。すべることこの上もないところへ、それを縛るワイアロープは、腕の太さほどであるのであった。まごつくとワイアに、はね飛ばされねばならぬ 破目 ( はめ ) になるのであった。おまけに鉤は一人で動かない、

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やつであった。従って作業がはなはだしく困難であった。

 ところが、船長が、このボイラー揚陸に当てた時間は、きわめて短いのであった。それはチーフメーツも心得ていた。チーフだって正月は横浜でしたかったことはいうまでもないことだ。従って、これも、ボイラーを急いでいた。かくのごとく二重にボイラーは急がれていたが、仲仕は人数が少ない上に、横浜の仲仕ほどなれていなかった。なかなか仕事ははかどらなかった。チーフメーツはハッチに片足を載せて、

 「そのワイアを引っぱるんだ! ちがう! そっちからこっちへだ! ボースン、そのワイアをあれへかけて引っぱるんだ、そら、シャックルがはずれた! だめだ! ボースン! ばか! 違う! そらホックをかけて、ヒーボイ、チェッ、またはずれた。スライク、スライク!」彼はまっ ( ) になってせり売りの商人のように怒鳴りまくった。

 彼のこの焦燥にもかかわらず、ボイラーはクレインからホックに、すこしも引っかかろうとしなかった。チーフメーツは、自分の声で、ホックをワイアに引っかけようとでもするように、だんだんその声を大きく張り上げた。そして、鉤の大きいのは、ボースンや水夫たちの責任ででもあるように、ボースンや水夫たちを口ぎたなくののしり始めた。

 紳士の番頭はその 地金 ( じがね ) を現わした。

 「大工、なぜすみへ行く、そのワイヤを抜くんだ! ボースン、何だ、まいまいつぶろ見たいに、グルグル回ってやがって、グルグル回ったって、ボイラーは上がりゃしないぞ、どこへ行くんだ、そら、ばか!」まるでボースンがばかであることをはやし立てているのであった。

 ボースンが、上から見るとただ、ボイラーのまわりをグルグル回るだけのように見えると同様に、チーフメーツはボースンの周囲をグルグル回りながら、ボースンがばかであることを、ハッキリ飲み込ませてしまったよりほかには、何もしなかった。

 ボースンはあわててしまった。どこから手を出していいか、わからなくなってしまったのだ。

 藤原はボイラーの上に上がって、 ( かぎ ) が当然引っかかるような状態になって来るのを待っていた。そして彼は、普段から、あまりに 意気地 ( いくじ ) のない、ボースンや大工が、チーフメーツに「くそみそ」にののしられているのに対して、なおさら腹を立てた。

 「ほんとに貴様らはばかだ!  奴隷 ( どれい ) でもそれほど卑屈じゃないぞ! 水夫らからは月二割も ( しぼ ) りやがって、豚め! チーフメーツの野郎、なにかおれにいって見ろ! 思い知らしてやるから、高利貸の 丁稚 ( でっち ) め!」

 彼は、それこそ、抜けかけたボールトのように、ボイラーの上へ突っ立っていた。

 ホックはうまく彼と、向かい合って立ってる波田との間へおりた。波田は腕ほどの太さの、ワイアの鉤穴を持ち上げた。それは一秒間とは持ち続けることのできない重さであった。藤原は、ホックを、彼のからだの重みをもたせて、波田の持っている鉤穴の方へ揺るがした。それはちょうどそこへ行ったが、少しおり足らなかった。

 だめだった! はまらなかった。

 「何だ、ボケナス、どうしてはめないんだ! ばか! よせッ!」チーフメーツは頭から、ストキへ 罵声 ( ばせい ) を吐きかけた。

 「波田君、降りたまえ! チーフメーツがよせという命令だ」そのまま藤原は、ボイラーからワイアを伝って飛びおりた。波田も続いた。

 「どうした、ストキ、どこへ行くんだ! 畜生!」チーフメーツはまるで狂っていた。

 藤原は下へ降りて、西沢をデッキから見えないところへ呼んだ。

 「君、仕事があれでやれるかい、ばかとか、よせとか、怒鳴り散らされて? え? よそうじゃないか、おれたちあ、船を桟橋まで着けないで下船しちゃおう、ばかばかしいや! 奴隷じゃねえや」藤原はジロリとボースンをにらんだ。

 「よせ! よせ! 全く、こんなボロ船いつだっておりるぜ」西沢も賛成した。

 「ストライクか、それや、ぜひやらにゃならないこった」波田も賛成であった。

 チーフメーツはデッキの上で、 ( もち ) をのどにつめでもしたように、あわててしまった。

 ボースンは下で ( しゃく ) を起こしそうに青くなった。そして、ストキのところへ飛んで行った。

 「ストキ、どうしたんだね、何か腹の立つことでもあったのかね」ボースンはまるでチーフメーツがも 一人 ( ひとり ) できた、といったようにオズオズしながらきいた。

 「ボースンはすこしもおこっていないようだね。おれたちゃ、チーフメーツから、仕事をやめろと命令されたから、今やめたまでの話さ。そして、荷役の加勢はもうよそう、ということに決めたんだ。陸から、そのために来た仲仕があるからね。それに、仲仕の前で、ああがなられちゃ仕事もできないしね」藤原は答えた。

 「そんなことをいわないで、頼む、あとで何とでも話をつけるから、気を直してやってくれ、わしなんぞはどうだ、まるで畜生だが、頼む、ナ、ストキ、やってくれ」ボースンは自分が畜生のようにいわれることを知ってはいたのだ。だが、ボースン対チーフメーツの関係と、水夫対チーフメーツとの関係はまるで違っていた。

 前者には、高利貸とその手代という関係があり、後者は、高利貸対労働者という関係であった。

 「やるもやらぬもねえじゃないか、いいつけを守って、やめてるだけのもんじゃないか、ボースンもさっきから大分やめろといわれてるようだが、よさないとあとでまたうるさいだろうぜ」

 全くボースンにとっては、どちらにしても、あとでうるさい、面倒な事になったものであった。

 ボースンは、ストキから、西沢、西沢から、波田へ、その 禿 ( ) げた頭をつるつるなでながら、一生懸命で、仕事をしてくれるように頼んだ。

 デッキでは、チーフメーツは青くなってしまった。彼は様子が悪いことを見てとった。しかし、どうにもならなかった。クレインの方では、チーフメーツの合図一つで、いつでも巻き上げようと、腕をたくし上げて待ってるのであった。デッキの上に、チーフメーツの怒鳴るために、人のことながらウロウロしていた仲仕たちは、にわかにボイラーの上から、水夫たちがおりたので、ぼんやりしてしまった。