University of Virginia Library

 安井の手当てがすむと、水夫たちは、改めて、食卓についた。そして、いつでもは安井がボーイ長の職務として、食事の準備、あと片づけ等はするのであったが、 今日 ( きょう ) は、 波田 ( はだ ) が引き受けた。

 「安井君、何か食べたくはないかい」と、波田はボーイ長にきいた。

 「のどがかわいて、腹がすいて、たまらない」と、彼はかろうじて答えた。

 「そいじゃ今持って来るから待ってくれよ」

 波田は、コックに、卵をくれるように頼んだ。

 「卵なんぞぜいたくなものが、おもてに使えるかい、ぼけなすめ!」波田は一撃の ( もと ) に、卵なんぞ「おもて」の者の口に ( はい ) りかねることを教えられた。しかし、もし、卵がなければ、流動物を与えるのに困るのであった。

 「どうだろう、ボーイ長が固い物は食べられないだろうと思うんだが、何か寝てて食べるようなものはないだろうか、とも(高級海員の事)のコーヒーへ入れるミルクを一| ( かん ) だけ分けてもらえないだろうかなあ」波田は 食餌 ( しょくじ ) のことは、チーフメートが医者ついでにやるべきものだと考えた。けれどもまた「やるべきこと」はおれたちだけにあるんだ。と思いかえした。

 「それじゃシチャード( 司厨司 ( ステューワアード ) )へ話して見ろよ! 一両ぐらい出しゃ分けられねえこともねえかな、ぐれえなとこだろうぜ」このコックはおもての食費をごまかすために、とものコックから、給料を下げてまでも、おもてへ一つ船で ( くら ) がえした、 途轍 ( とてつ ) もない「 ( わる ) 」であった。

 「この野郎、鼻持ちのならねえ野郎だ」と思いながら、波田は、シチャードへ、ミルク一罐と、卵十個分けてもらえないかと交渉した。

 「ボーイ長にやるんだって、ああ、いいとも、持って行きな、そうかい、じゃあパンを一斤ばかり持ってって、牛乳と卵とで湿してやるといいや、ほら、ここに砂糖と、……それだけでいいかい、そしてどうだね、ボーイ長の容態は」シチャードは親切に倉庫から、それらのものを ( ざる ) へ出してくれた。

 「どうもありがとう。金はあとでおもてから払うからね、当分済まないが借しててくれないか」波田は全くうれしかった。

 「いいよ、そんなこたあ、気をつけてやりな、若いもんだ。先のあるもんだからな」

 「ああ、そいじゃ、ありがとうよ」

 波田は、ともかくそれらのものを持って来て、ボーイ長に与えた。

 彼は飢えた ( おおかみ ) のようにむさぼり飲んだ。ボーイ長が食欲を失っていないことが、波田には大層心強く思われた。

 彼が安井のために、食事のしたくをする間にだれもが食事を終わっていた。そして、 茶碗 ( ちゃわん ) や、徳利( 醤油 ( しょうゆ ) )はころばないように、 ( おのおの ) その始末さるべきところへとしまわれてあった。彼は、それから、また、自分の分を継続しなければならなかった。船の動揺ははなはだしかったが、満船している関係上、動揺以上に浪の打ち込みがはなはだしく、そのため、水夫室の頭上では、 ( いかり ) が浪と衝突して少しでもゆるみが来ると、今にもサイドを押し割りそうに、メリメリッと鳴った。

 波田は、それらのことには、ほかのだれもと同じくなれ切っているので、二度目の夕食をうまく食うことができた。

 彼は、腹には詰め込みながら、耳には、セーラーたちの「煙草」の話を聞いた。しけたあとでは、きっと話がしんみりするのであった。いつでもふざけるにきまっている 三上 ( みかみ ) さえも、一、二度極端な、女郎に関するその話題を提供してみたが、反響がないので、それ以外に話すことを全然持たない彼は黙りこくって、すぐにその寝床にもぐりこんで、三十分間をぐっすりと寝ることに決めたらしかった。

 畳敷きにはできない形ではあるが、それをその面積に換えれば六畳ぐらいは敷けるだろうと思われる「おもて」には、上下二段にベッドを作りつけて、水夫長、大工、 舵取 ( かじと ) りを除いた、水夫五人と、おもてのコックが 一人 ( ひとり ) と、ストキとが寝るようにできていて、その中央に、テーブルと、ベンチとが作りつけてあった。で、おもてでは、一切| 合切 ( がっさい ) がギリギリ一杯であった。食卓は、用事が済むと、室のまん中に立っている柱に添うて上につり上げられるにしても、やはり一杯一杯であった。そして道具置き場は、その食卓の下をくぐって、船首のとがったところが、そうであった。

 わが万寿丸ははなはだしく 団扇 ( うちわ ) に似てるという定評があってさえ、やはり船の船首の部分は、いくらかとがっていることが、これで見てもわかるのであった。

 そして、窓はすべて、二重に厳密に閉ざされ、デッキへの鉄の ( とびら ) までが厳重に閉ざされたから、空気は全く動かなく通わなくなってしまった。そして、この、太鼓の内部のような船室は、皮であるべきサイドの鉄板が、 波濤 ( はとう ) にたたかれてたまらなくとどろくのであった。

 その間にボーイ長は、その負傷の 疼痛 ( とうつう ) を、陸上の父と母とに訴えた。 摺子木 ( すりこぎ ) のように ( まる ) い神経の持ち主であるセーラーたちも、環境がかくのごとくであるために、ひとりでにしんみりしてしまうのであった。そして、彼らは、いつでも、しんみりするのを好まなかった。それは、彼らを、この世の中で一番詰まらない役割に引っぱり込んでしまうからであった。というのは、いつでも彼らは最も詰まらない役割であるのだが、それをほんとうに彼らに手きびしくさとらせるからである。だれでも、自分が踏みつけられ、ばかにされることを喜ぶものはない。わがセーラーたちも、しんみりする時必ず、そうであることがわかるようにひとりでに考えるのであった。そして、船乗りの気質として、そんなに自分たちを「コミヤル」(余剰労働を搾取するという意が含まれている船乗り言葉)やつは容赦しないはずであるのだが、それができ得ないところに、彼らが、しんみりしたたびにしょげ込み、次いで自暴自棄になるという結果が生まれるのであった。

 彼らは、自分たちが人間であることを知っていた。そして、人間らしからぬ生活に追いまくられていることを知っていた。そして、彼らはどうすれば、これらの不都合な生活から人間らしい生活へはいれるかを、絶えず考え、その機会をうかがっていた。そして彼らはその考えをまとめることも、機会を捕えることもできないで「小資本を ( ) めるための、きわめて短い時間だけ、この危険な仕事によって金もうけをしよう」とした最初の考えは、そのまま彼らを 怒濤 ( どとう ) の上で老年にしてしまい、 磨滅 ( まめつ ) した心棒にしてしまうのであった。

 その夕、ボーイ長のベッドのそばに集まった藤原、波田、小倉の三人は、皆ひどくしんみりしていた。