University of Virginia Library

     二四

 北海道万寿炭坑行きのボイラー三本を、万寿丸は、横浜から、室蘭への航海に、そのガラン ( どう ) の腹の中に吸い込んだ。それははなはだ手間の取れる厄介な積み込みであった。だが横浜には、そんな種類の 荷役 ( にやく ) になれた 仲仕 ( なかし ) は沢山あった。従って、水夫たちも安心して、その作業を手伝った。それに、チーフメーツもそれらのことを知っているから、それほど興奮もしなかった。

 珍しい荷物であったので、退屈を紛らし、単調を破って、その積み込みの終えた時は、何だか、愉快なことでもなし遂げたように、水夫らは感じたくらいであった。

 横浜から、室蘭へは、万寿丸は、その船体が室蘭から横浜への時の三倍の大きさに見えた。というのは、荷がないから、まるでその赤い腹のほとんど全部をむき出して、スクルーで ( なみ ) をけっ飛ばしながら ( およ ) いで行くのであった。従ってデッキから水面までの距離が、うんと遠くなった。おもての海水ポンプは、まるで空気ポンプのように、シューシューいうばかりになってしまうのだった。

 こうなると、便所| 掃除人 ( そうじにん ) 、波田は実に、その作業を百倍の困難さにされてしまうのであった。彼は一々ともまで、淡水ポンプをくみに行くか――それは見つかると大変やかましかったから、その方法はあまり取れなかった――または、石油| ( かん ) にロープを結びつけて、海からつり上げるのであった。これは全くいやなことだった。わずか石油罐一杯の水が、それほど重く、それほどいつまでも途中で、ぐずぐずしていなくてもよさそうなものだと思われるのだった。これをつり上げるのが 億劫 ( おっくう ) さに、夕方一度便所に水を通すことを怠けると、パイプに一杯の ( ふん ) が凍りついてしまうのだった。それが凍りついた日には、波田は字義どおりに「糞をつかむ」――船では詰まらない目に合うことを糞をつかむというのであった。

 パイプ――直径一尺ぐらいの鉄管は――下水だめが、そのまま凍ったような形において凍るのであった。それが凍った際は、波田は、何よりもまず機関場へおりて行って熱湯をもらって来るのであった。機関場から、おもてまでの距離の遠さよ――、第一、罐場までの ( のぼ ) ( くだ ) りが、大変であった。ことに、熱湯の一杯はいった石油罐をブラ下げて、それを一滴も漏らさないように、もらすと下で火夫がやけどするのだ。そのすべる鉄の油だらけの 梯子 ( はしご ) をのぼらなければならなかった。これは周到な注意と、万全の用意とでなされた。彼は、それだけの作業、バケツを持っておりて、すべらぬようにもらさぬように、のぼって来る、それだけの作業を、夏の土用よりも熱い思いで汗をたらし、罐場を一足出るとすぐに、凍った便所の作業に移らねばならなかった。

 彼は熱湯と竹の棒とで、化学的及び物理的の作用を応用して、 頑固 ( がんこ ) に凍りついた兄弟たちのきたない物を排除する。

 彼は熱湯を ( ) っかける前に、 竹箒 ( たけぼうき ) の柄をもって、猛烈に物理的操作を試みた。――物理的操作とはセコンドメートの 口吻 ( こうふん ) を借りたのである――そして、糞の分子と分子とがやや 空隙 ( くうげき ) を生ずる時において熱湯を――この時決して物惜しみしてチビチビあけてはならない、思い切って――どっと一時に ( ) ちあけるのである。

 と、たちまちにして、はなはだしい臭気が、発煙硝酸の ( ふた ) でもあけたように、水蒸気と共に立ちのぼる。そしてこの水蒸気が発煙硝酸と同じく、その煙までも黄色であるように感じられる。そして、この 濛々 ( もうもう ) たる蒸気と臭気とに ( ) して、ドーッと音がすれば、それは、汚物が流れ出した証拠である。もし不幸にして音が伴わなかった場合は、波田はそれと同じことを、幾度か繰りかえさなければならない。

 波田は、その熱湯を汚物の ( つぼ ) の中へ注ぐやいなや、彼は棒もバケツもそこへ打ち捨てて置いて、サイドから、汚物の飛び出すスカッパーの活動の状態をながめに行く。

 それはきたない仕事であった。そしていやな、困難な仕事であった。それはちょうどわれらが便所へかがむのと同様不愉快なことであった。それはまた、勢いよく、一切が飛び出すことは、われわれが便所へかがんだ時と同様、腹の中がきれいになることを意味し、かつ快いことであった。

 波田はスカッパーから、太平洋の 波濤 ( はとう ) を目がけて、飛び散って行く、汚物の滝をながめては、誠に、これは便所掃除人以外にだれも、味わえない痛快事であると思うのであった。

 「これでおれも気持ちがいいし、だれもがまた気持ちがいいわい」波田は、その着物を洗って ( ) すために、罐場へ行った。

 そして彼は、その ( よご ) れた着物を洗う間に、「もし神があるなら、 糞壺 ( ふんつぼ ) にこそあるべきだ」と思った。

 「なぜならば、もし神や仏があるとしたならば、彼らが愛するところの人間が豚小屋に住み、あるいは寺院の床下に、神社の縁下に住む時に、どうして、自分だけが、そのだだっ広い場所を独占することができ得よう? もしそうしている神仏でもあるならば、それは岩見重太郎によって退治されねばならない神仏であって、決して 真物 ( ほんもの ) ではないのだ。今は、神仏よりも一段下であるべき人間でさえ、『万人がパンを得るまではだれもが菓子を持ってはならぬ』といっているではないか、神はまさに糞壺にこそあるべきだ!」

 波田によると神は恐ろしく、きたないところにもぐる必要があった。

 「おれは便所に神を見た。それ以外で見たことがない」と波田は、いつ、どこででも主張するのであった。

 「で、その神様は、おれのによく似た菜っ葉服を着て、おれより先にいつでも便所を掃除してる! それは労働者だった。賃銀をもらわない労働者の形をしていた!」と。

 「で、もし、神様が、労働者でもなく、便所にもいなかったら、おれは、とても上陸して寺院や 社祠 ( しゃし ) などへ、のそのそさがしになんぞ出かけてはいられないんだ。人間から現実のパンを奪って精神的な食べられもしない腹もふくれない、パンなんぞやるといってごまかすのは神じゃないんだ。それやブルジョアか、その親類だ」

 これが波田の宗教観であった。

 「その神様が賃銀を月八円ずつさえ得てれば、そのまま波田君なんだがなあ。惜しいことには、たった一つ違うんで困ったね」藤原はそういって笑ったものだ。

 船には、宗教を信ずるものは 一人 ( ひとり ) もいないといってよかった。ボースン、大工、この 二人 ( ふたり ) だけが、 暴化時 ( しけどき ) だけ寝台の下のひきだしの中から、 金刀比羅大明神 ( こんぴらだいみょうじん ) を引っぱり出して、利用した。彼らはもし、それらがいくらかでも役に立つなら、利用しなけれや「損だ」と習慣的に考えたのであった。

  板子 ( いたご ) 一枚下は 地獄 ( じごく ) である。超人間的な「神か仏」のような「物」にたよりたい気は、人には、特に船員などにはあり得たのであるが、しかも彼らはあまりにばかばかしい、それらのものを信じる気にはならなかった。宗教は今では全くくだらないものであるか、または、その正体をごまかすための神学や経典で、あいまいに 詭弁的 ( きべんてき ) に職業化されていた。宗教は今や高利貸や、マーダラーの手先になったり弁護人になったりすることによってのみその生命をかろうじて保っているにすぎなかった。

 話は飛んでもない 傍路 ( わきみち ) へそれたものだ。