University of Virginia Library

     四〇

 藤原は、自分の寝箱の中で、腹ばいになって、紙きれに何か書いていた。それは、何か本の抜き書きでもするように、そばには二、三冊書物が置いてあった。彼は、 煙草 ( たばこ ) をふかしていた。二本一緒にくわえたらいいだろうと思われるほどむやみにスパスパとふかしていた。彼一人でおもてを ( くす ) べ上げるに充分であった。

 ダンブルには、ほとんど石炭が一杯に詰まった。本船は、予定どおり、明朝出帆して、横浜へ帰って正月を迎えることができそうであった。横浜で正月を迎えることは、すべての船員の希望であった。「 室蘭 ( むろらん ) ではしようがない」のであった。

 横浜には船長も、機関長も、だれも彼もが、世帯を持っていた。その自分の世帯で、お正月を迎えたいということは人情として当然であった。万寿丸は、三十一日の午前十時ごろか、もっとおくれて横浜へ帰りつける予定であった。従って、その予定は、一時間も延長しうるものでなかった。

 明朝一番で船長は 登別 ( のぼりべつ ) の温泉から、その愛人と別れて、一番の列車で室蘭へ帰って来るはずであった。

 船長が、船へ上がり切ると同時に、ブリッジには、彼の姿が現われるだろう。そこで、彼は「ヒーボイ」と、 ( いかり ) を巻くことを号令するであろう。

 それまでは、今までとすこしも変わらないだろう。だが、それからが変わるだろう。彼らは「横浜正月」が、すでに実現されうるものと信じていた。その安心を、はなはだしく揺り動かされ、のみならず、その他のことも一切が、まるで、プログラムと違った方向に脱線して、 坐礁 ( ざしょう ) したということを、さとらねばならないだろう。

 そして、それらの原因は、水夫らが、要求条件を提出して、目下交渉中であるから、彼らは、働いていないのだ。それで、船が動かないのだ! ということが、船内一般に知られるだろう。われわれの要求条件は、エンジンの労働者によっても、吟味せられるだろう。この要求条項は、彼らにも、何らかの衝動を与えるだろう。そして、そのために、この要求条件は、よく考えて、作られなければならない!

 藤原は、煙草の煙の間から、こんなことを考えていた。

 彼は、その紙っきれをながめた。それには、要求条件の原案らしい文句が、書かれてあった。労働時間の制定、労銀増額、公休日、出帆、入港は翌日休業、公傷、公病手当の規定及び励行、深夜サンパン不可、などが乱雑に書かれてあった。

 彼は今、それらの条項に、要求書としての形を与えるために、苦しんでいるのであった。「チェッ!」藤原は舌打ちをした。そして、煙草の灰を本の表紙の上に、やけに払い落とした。「こんなことを今さら、要求しなければならないなんて」

 彼は、その紙きれをポケットに入れて、寝箱からおりた。そして、波田へたずねた、「小倉君の方は、どうなったんだろう」

 「さあ、それを、まだ何とも聞かないんだがね」波田も、心配しているのであった。

 「小倉は、 当番 ( ウアッチ ) かい、今?」

 「どうだか」波田は、出入り口まで行ってブリッジを見た。

 小倉は、ブリッジを、アチコチ歩きまわっていた。

 「いるよ、 海図室 ( チャートルーム ) で、相談しようじゃないか」波田は、ストキに耳打ちをした。ストキはうなずいた。

 「じゃ僕が、都合はどうだか、きいて来るから、君は、エンジンの上で、待っててくれたまえ」

 波田は、そのまま、気軽に飛び出して行った。藤原は、一度奥まではいって、そこで、ベンチに腰をおろした。そして、煙草へ火をつけた。しばらくすると、フト何か、忘れものでも考えついたように、立ち上がって、デッキの方へ出て行った。

 幸いに、メーツらは、明朝出帆の 名残 ( なごり ) を惜しむために、皆、どこかへ行ってしまっていた。

 三人は、チャートルームへ集まった。

 「西沢君に来て、もらわなきゃ」小倉が言った。

 「今、女郎買いの話で、おもてを持てさせてるから、目立ったらいかんだろう、と思うんだがね」藤原が答えた。

 「あいつあ、全く、しようがないよ。女郎買いの話となったら、まるで、夢中になっちまやがるんだからね、も少しまじめな時は、まじめに、やってくれなくちゃ、困るんだけどなあ」波田は、くやしがった。

 「しかし、中には、中にはじゃないや、ほとんどだれもが、それ以外に何もないのに、それ以外のものを、あの男は持ってるだけ、いいじゃないか、味方に対しては、われわれは、徹底的に寛容な、態度を取らなきゃならないよ。そうしないと、味方の戦線から、自然に壊滅しちまうからね」藤原はなだめた。

 「で、コーターマスターの方はどうだろう。まだ、話してもらえなかったかしら」藤原は、小倉にきいた。

 「まだ、話さないんだよ。どこから切り出していいんだか、話が、すっかり、 ( ) ちまけられないので困っちゃったんだよ。だからね、要求書を出す間ぎわになって、それを見せて意見を聞いたら。そしてもし、コーターマスターとしての、提出要求でもあるということなら、それを追加して、提出するということにしたら」小倉は答えた。

 「そうだね。その方がいいだろうね」藤原は賛成した。「その方が、秘密を保つ上にも、かえっていいだろうよ」波田も賛成であった。

 「じゃあ、僕は、西沢君を連れて来よう。そして決めちまわなきゃ、 明日 ( あす ) のことになるのじゃないかい」波田は、何だか追っ立てられるように、心が急がしいのであった。

 「ちょっと」と小倉は手で制した。「僕は、もう十五分で非番だから、非番になったら、ともの倉庫で寄り合ったらどうだろう」時計は、八時前十五分

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をさしていた。

 「そう、そうしよう。一人ずつ、チョッと上陸すると、いった格好をして、出ればいいからなあ」

 「じゃあ、そうしよう」そこで、 二人 ( ふたり ) のセーラーは下へ降りた。

 おもてへ帰った波田は、西沢に、八時の鐘がなったら、ともの倉庫で、相談があるから、わからないように抜けて来て、くれるようにといった。西沢はうなずいた。

 ストキは、ベンチへ聴衆の一人と、いったような顔つきで腰をおろして、例によって、煙草をふかし続けた。