University of Virginia Library

 船を一郭として、人間と機械とが完全に協力して、自然と戦っている時に、船員たちは、自分たちが、 ( ふな ) のりであることを、この時以上に ( しゃく ) にさわり、心細くなり、哀れに気の 滅入 ( めい ) ることはなかった。そして彼らは、あらゆる瞬間の極度の緊張と、注意とにもかかわらず、自分の運命を哀れむのであった。彼らは、まっ暗な ( やみ ) の中を電光が一時に、全く鮮明にパッと明るく照らすように、この困難な労働の間に、感ずるところの彼らの地位は、全くハッキリした賃銀労働者の正体であった。しかし、それは電光と全く同じであった。彼らは、すぐ、その仕事の方へと一切の注意を向けねばならなかった。

 水夫らは、船首の方を済まして、船尾のハッチへ行くために、サロンデッキに ( のぼ ) った時であった。ブリッジにいたコーターマスターの 小倉 ( おぐら ) が、何かわからぬことを、からだじゅうで怒鳴りながら、物すごい勢いでブリッジから飛びおりて来て、サロンデッキを ( とも ) の方へかけて行って、そのタラップをまた飛びおりた。

 セーラーたちは、ビクリとした。のみならず、コック場のコックやボーイや交替で休んでいた機関長や、ブリッジの上の船長やは、全部が小倉の飛んでった 行方 ( ゆくえ ) を見守った。

 小倉は、船尾へ駆けつけた。そこには、ブリッジからあやつるスティームギーア(蒸気| 舵機 ( だき ) )の鎖と、そのカバーとの間に、わざとのように、水夫見習いが、右半身をうつ伏しにもぐり込ませていたのであった。

 小倉は、水夫見習いが楽に出るようにと思ったのであったが、しかし舵機は同位に船首を保つために、一刻も 放擲 ( ほうてき ) しては置けなかった。

 そこへ水夫らは全部かけつけた。あるものは、カバーの 金板 ( かねいた ) をバーで動かそうと試みた。この間にも波浪は、船首甲板ほどではないにしても三、四| ( たび ) 、ここを洗った。

 水夫全体の力と小倉との力は水夫見習いを、鎖とカバーの間から引っぱり出すことができた。けれども見習いは、引きずり上げられた 溺死体 ( できしたい ) のようにだらりとして、目ばかりを宙につっていた。彼は直ちに、水夫| 二人 ( ふたり ) にかつがれて、最も震動と、 轟音 ( ごうおん ) のはなはだしい船首の、彼の 南京虫 ( なんきんむし ) だらけの巣へ連れ込まれた。

 仕事着を彼から脱がせることは最大の急務であった。が同時に最大の困難でもあった。まるで帆布作りの仕事着ででもあるように、それは凍りついていたのである。ついて来た藤原は、その腰のメスを抜いて見習いの仕事着を 上手 ( じょうず ) に切り裂いた。そして、彼の寝間着が、上にかけられた。

 ボーイ長の右手と右の肺の部分に紫暗色の打撲傷ができていた。そして左足の 拇指 ( ぼし ) が砕けていた。

 ストーブがないために、水夫らははなはだしく寒かった。見習いは、傷と、凍えのために、もしこのままにして置くならば、必ず、始末は早くつくということを皆知っていた。そこでついて来たストキと、水夫二人は各水夫の巣から、ありったけの毛布を集めて、それをかけてやった。

 そして、そのまま、全部彼らは船尾ハッチのカバー作業に駆けて行った。

 船尾のハッチは船首のそれと同様の危険と困難さをもって、作業された。手の届きそうな低空を、雪雲が横飛びに飛んだ。中に、濃い雪雲は、マストに引っかかってそれを抜いてでも行くかのように、はげしくマストを揺すぶった。水平線は、頭上はるかにのぼるかと思うと、 足下 ( あしもと ) 深く沈んだ。(船の動揺は、同時に水平線を動かすものだ)ボーイ長(水夫見習いをいう)の運命は、全甲板労働者の現在のすぐ背後に ( ふか ) のように迫っているのであった。

 船尾部分のハッチはこの上もなく厳密に密閉された。そして、次のは、機関室と、その上部にある士官室、サロンデッキとの陰になっていたために、以前の三つに比べて、作業は楽であった。そこで、藤原は、ランプをともす準備をするために、再び「おもて」(船首部分)へ帰って行った。

 ランプ部屋へはいる前に、彼はまず水夫室へはいった。まだ十七歳の少年、水夫見習いは、痛さに ( ) えかねて、「おかあ様、おとうさん」と、両親を叫び求めては、泣いていた。そしては、しばらく息を詰めて、死のような沈黙の中へ落ちて行くのだった。藤原は、ボーイ長の寝床の端板にもたれかかって、ボーイ長の顔をのぞき込んだ。けれども、見えなかった。一つの窓もあけられていない水夫室は、出入り口から星の夜のような光がかろうじてはい込み得ただけであった。ことにボーイ長のは二層| ( どこ ) の下部に当たり、光の方を背にしていたので、最も暗かった。藤原は、自分の床から 蝋燭 ( ろうそく ) をとって、ボーイ長の ( まくら ) もとに立てた。彼は白ペンキのように青ざめて、そしてくらげのように衰えていた。

 まだ、チーフメートは、何らの手当てもしには来なかった。

 彼は、ボーイ長を慰めた。そしてすぐにチーフメートが「 膏薬 ( こうやく ) 」を持って、のろのろ来やがるだろう、やつらには、労働者よりも、ブロックの方が比較にならぬほど重大なんだ、しかし、心配しないがいい、皆がついているからといって、ランプ部屋へしたくに行った。

 万寿丸は 尻屋岬 ( しりやみさき ) 燈台沖にかかった。 暴化 ( しけ ) はその勢いを少しも収めなかった。

 水夫らはボートやサンパンを吹き飛ばされないように、それを、より一層ほとんど、吹き出したいくらいに、 頑丈 ( がんじょう ) に、これでは沈没した時に決して間に合わないと、証拠立てられるほど、それほど頑丈に、くどくどとデッキや煙突にまで、綱を引っぱった。そして、この仕事は、波浪の恐れは全然なかったが、動揺と、風と、おまけに「てすり」がないので、海へ落ちるという危険を伴った。ボートデッキは、船中で一番高い部分であって、それは士官室の屋根と天井とを兼ねていた。

 水夫たちは、一本のロープを持って、ボートの下へ仰向けにもぐり込んだり、ボートの外側――そこはデッキ板一枚の幅しかなくて、海面まで一直線にサイドなのだ――に、今縛りつける、そのボートにつかまって綱をからげるために、サイドへ足を踏んばって、海の方へからだを傾けたりした。

 ボースンは、すぐ前のブリッジから、船長が作業を見ていたために、その 禿 ( ) げた頭を、 章魚 ( たこ ) のように赤くしてあわてたり、怒鳴ったり、あせったりした。