University of Virginia Library

     三三

 彼らは甘いものに対する渇望がややいやされた。そこでボーイ長へ持って帰る菓子が注文された。それから彼らは、ボーイ長の負傷について「とも」の取った態度について、われわれは、どういう形において抗議するか、また、三上のような、事件をひき起こさずには置かない、船長のめちゃくちゃな態度に対して、そしてこれらのことを交渉するならば、労働時間もハッキリと決めてもらうこと、それに賃銀がまるで相場はずれだから、も少し上げてもらうこと。――当時欧州大戦乱時代であって、石炭は水夫たちの寝るべき室にまで詰め込まれたほどであり、従って、汽船会社の利益は 莫大 ( ばくだい ) なものであった。――それに、日曜でも何でも出帆入港でとられれば、それで休日はおじゃんになるが、それは休日を翌日回しということにしてもらおう。これらのことは、ぜひ片をつけるべき性質のものであり、またつけねばならない状態に、われわれは追い迫られている。そこで、これらのことをいつ、交渉を始めるがいいかということの話が、彼らの間に、西沢によって口を切られて問題になった。

 「それは、交渉をチーフメーツに対してやるか、または最初っから船長に対してやるべきものか、それが問題だね」と小倉は言った。

 「もちろんそれは決定権を持っている船長との最初で最後の交渉にならねばならんだろう」藤原が答えた。

 「君の言うように、それが最初で最後であると言うならば、交渉を拒絶された場合には、どうなるんだろう」小倉はその点をおそれていた。もし交渉が不調になったりした場合、同盟下船とでもいうことになれば自分は明らかに乗船停止を食うだろう。そうすると、自分は高等海員の免状をとる資格がなくなってしまうんだ! 彼は苦しい立場にあった。彼はもし、高等海員になってやや多い収入を得ないならば、 山陰道 ( さんいんどう ) の山中で、冷酷な自然と、惨忍なる搾取との迫害から、その 僻村 ( へきそん ) 全体が寒さのために凍死し、飢餓のために餓死しなければならないのであった。

 彼の村は、山陽道と山陰道を分ける中国の 脊梁 ( せきりょう ) 山脈の北側に、 熊笹 ( くまざさ ) を背に、岩に腰をおろしてもたれかかっているような、人煙まれな 険阻 ( けんそ ) な寒村であった。その村の者は森林の産物をその生活資料としていた。ところがそれらの森林は国有林になってしまった。そこで、その村の者は、監獄へ行くか、餓えるかという二つの道のどちらかを取るようにしいられた。小倉の生まれた村の 小径 ( こみち ) とも、谷川ともわからない 山径 ( やまみち ) は、監獄の方へ続いていた。わずか三軒の家をもって成り立っているこの村は、その各家から戸主を監獄へ奪われた。村から最年少は六つ、最年長十六の間の、十三人の男児は滅亡に ( ひん ) している故郷を救うために、 ( やしろ ) のように 神寂 ( かみさ ) びたその村をあとに、世の中を目がけて飛び出したのである。そして、村に金を送る代わりに、村から労働力を ( しぼ ) られに来たという形なのであった。

 でもし、彼が、これに参与して、この企てが失敗するならば、彼は、今まで三年間、全力を傾倒してそれに向かって進んだ高等海員どころでなく、下級船員からさえもその職業的生命を奪われることになるのであった。

 彼は三上とサンパンを押した時にも、同様な感じを味わった。深い 憂悶 ( ゆうもん ) と、人生に対する疑問とが彼を 蜘蛛 ( くも ) の網のように包みとり巻いた。

 「それは闘争になるだろう。僕らは、何の武器も持たないから、ただ固まって、何もしないだけの方法をとるだろう。そうすると、船では雇い止めして、乗船停止を食わすだろう。事によれば桟橋から道は監獄へ続いてるかもしれないよ」藤原は答えた。

 「それは僕らの生活の破滅にはならないだろうか、いや、僕らだけではなくて、僕らの背後にある老人や幼児たちの運命を破滅に導くだろう。僕は僕の故郷のことを考えると、どんな忍耐でもやりたいと思うよ」小倉は彼の哀れな気の毒な心の中に、涙と共に浮かぶ考えを述べるのであった。

 「そうだ! 君は君の忍びうる最大の『忍耐』をなし得た時に、君は君のなしうる最大の力で同胞を 殺戮 ( さつりく ) し、それからパンを奪ったという結果を見ることになるんだ」藤原はほとんど冷酷そのもののような顔つきになっていた。そしてその目だけは火のように燃えて、光っているのであった。

 「そうは思われないよ。僕が今職業を失えば、僕の故郷では、どんなに嘆くか知れやしないよ。それだけではないんだ。僕の家では食う物に困ってしまうんだ!」小倉は感情がたかぶって来た。彼の頭には、彼が村を去る時の悲痛な光景が涙に曇って浮かんで来るのであった。

 「同情する! 労働者はほとんどすべてが、 罷工 ( ひこう ) することのできない地位につき落とされているんだ! あらゆる組織がおれたちを 簀巻 ( すま ) きにしているんだ。そして、おれたちは首を切られても罷工もできないんだ。直立不動の姿勢を保って、なぐっても、けられても、それをくずせない新兵よりもおれたちは苦しいのだ。資本制は、労働者に 一人 ( ひとり ) 残らず 狭窄衣 ( きょうさくい ) ――監獄で狂暴な囚人に着せる ( かわ ) の衣類、それを着ると、からだは自由がきかなくなって、非常な苦痛を感じる――を着せて、手錠、足錠をはめているのだ」藤原は、その目だけがますます然え上がった。が顔はそれと反対にだんだん血の気があせて青ざめて行った。

 「だが、小倉君、君はどっちにしてもだれかの死には、関係しないわけには行かないだろう、ボーイ長は、自分のパンを求めに来て、 ( はり ) のついた ( えさ ) を食った魚のように、自分を生命の危難に ( ) っつけてしまった。それが、『今』の問題なんだ。これはボーイ長にその形をとって現われたのだが、パンを得るために、船のりになるなどと言うことは、針のついた餌に釣られた魚と同じことなんだ! それはわれわれ全体に一様に変わりのない運命なんだ。われわれには、鉤についた餅よりほかには、どこにも餌がないのだ。君も二度まで沈没船に乗っていたというじゃないか、その時に、もし万一君が死んでいたら、どのくらい君の家族は嘆いただろう。もしその時に、君がだれかに救われなかったとしたら、君は、その嘆きを家の者にかけなければならなかったんだ、そうではあるまいか。それは、どこへ行っても餌に鉤がついてるから起こることなんだ。

 だが、小倉君、君の言うことはわかる。僕らは馬車馬のように生活するか、餓死するかどちらかなんだ。ほんとうに、僕らが、僕らの持っている偉大な力に、自分から驚く時の来るまでは、いたずらに、僕らは犬死にをしなければならないんだ」上陸の時以外に彼らが口にすることのできない一杯の紅茶は、彼らを興奮せしめたように見えた。藤原は自分でもそう思いながら、自分に追っかけられて話しつづけるのであった。

 「わかったよ、藤原君! 僕らは、一飛びに ( ) ぶことよりもジリジリ進む方がいいんだろう。自分だけがブルジョアになろうとするよりも、成功しなくてもプロレタリアの戦士で、倒れた方がいいんだ。僕には、それがよくわかるんだ。そしていつも君たちには敬服してるんだ。だが、僕には、その勇気と、決断と、信念とがないんだ! つまり憶病者なんだ! 僕は!  卑怯者 ( ひきょうもの ) なんだ! だが、僕は、今度は、やるよ、やって見よう! コーターマスター四人をも ( ) たせて見よう。僕にもようやくわかったような気がするよ」小倉は、ようやく厄介なものを払いのけた、と言ったふうな顔つきをして残ってる菓子を摘まんだ。

 「それで」と西沢は口を切った。「だれが船長に ( ) っつかるんだい」彼は、まるっ切り黙ってるわけにも行かない場合にしゃべるような、それと同じ気持ちで、同じようなことをそこへ吐き出した。

 「おれたちじゃとても 太刀打 ( たちう ) ちができねえから、やっぱりストキに頼むんだね」

 「じゃあ、今夜要求条件をこしらえて、それに全部で連印して、それを船長に提出しようじゃないか」波田がいった。

 「いいだろう」皆が賛成した。

 「だがそれはいつやるか? その時を選ぶことが、

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勝つも負けるも、時を選定すると言うことになるだけだと僕は思うんだ、ことに、船長は帰りを急いでるからね。正月は目の前だしね。おれたちの用事がなくなった時に、おれたちが力を示そうとしたって、それやだめなことだから」藤原は、実戦家としての提案をした。

 「だがさっきも言ったことだが、要求がはねつけられた時はどういう対策を取るんだね」小倉はそれを聞いた。「始めることになれば、おれも徹底的にやらねばならん」と彼も覚悟したのであった。

 「それは、ストライクが皆の意志で決定されるように皆で、決定しなければならない重大な問題だ。要求条件を出しただけでは、まだなんでもないんだからね、それで ( ) れられない時に、休業するか、怠けるか、下船しちまうか、等の方法があるわけだね。こんなところで下船するというわけにも行かないから、それもやむを得ない時はもちろん、裸ででもこの雪の中へおりる覚悟はしているんだが、下船するということは、最後の場合にとって置いて、そう大切でない時は怠けて、これをやっては絶対にいけないというような仕事の日には休業しちまうんだね。これが一番効果の上がる方法だと思うんだ」リーダーは、実戦の闘士、藤原であった!

 「そんなことは、一体どこで相談をするんだい」西沢がたずねた。

 「それは、もし、コーターマスター全部が承知したら、コーターマスターの室でやろうじゃないか」と小倉が言った。

 「それはいいだろう」で、本部は三畳敷きに足りない 舵取 ( かじと ) りの室を第一の候補地にした。コーターマスターがはいらなかったら「おもてでいいさ」ということになった。

 「それで、いつ一体やるのかい」波田が今度は聞いた。

 「いつがいいと思う」と藤原は反問した。「それは皆が一番いいと思った時が、いいんだ」

 「おれは出帆の時がいいと思うぜ。出帆の時におれたちが遊んだら、第一ワイアやホーサーが桟橋からはずれっこねえんだからな。ヘッヘッヘヘヘヘ」と西沢は、戦闘を開始したような気でいた。

 「そうさなあ……出帆の間ぎわに要求書をブリッジへ持って行くか?」小倉が言った。「『これを承認してください。何でもあたり前のことです』とやるか」

 「そうじゃないよ。要求書を、やつの目の前へつきつけるんだよ。『やい見えるかい、え、これに判をつけ、さもねえと、正月は横浜じゃできねえぜ』と 高飛車 ( たかびしゃ ) に出たら随分痛快だろうね」西沢はいった。

 「出帆の時はいいだろう。第一、おれはチエンロッカーにはいらないよ」波田は、自分のあの困難な仕事が、船の出帆に際して、どうしても省略することのできない重大な作業であることを、ハッキリ見ることができた。「おれたちを月給| 盗棒 ( どろぼう ) みたいに考えることは、まるで違ってるってことをハッキリ思い知らせた方がいいだろうよ」彼は、何だかほんとうに、人間として、労働者として、 ( たっと ) い犠牲的な、偉大な事業に、初めて携わりうるという晴れがましい誇りと、自信とを感じないわけには行かなかった。

 「だが、これがよし通ったにしても、これが最後の勝利ではないということを、よく考えて、なるたけ大事をとってくれないと困るよ。たとえば要求は通ったけれど、あとで気をゆるめたために、毎航海毎航海、 一人 ( ひとり ) ずつ下船させられたなんてことになると、二、三航海のうちに、また元々どおり、ほかの人間は ( しぼ ) られるし、僕らだってばかを見なけれやならないからね、争議は、その時も大切には相違ないが、跡始末がもっと大切なんだからね」藤原は、彼の苦い経験を思い起こした。「せっかくきれいに 掃除 ( そうじ ) しても 塵取 ( ちりと ) りですっかり取ってしまわないで、すみっこの方にためときでもすると、 ( ほこり ) はすぐに飛び出して、前よりもきたなくなるようなものだからね。ことに、三上のような捨てっぱちなやり方は、残った同志のことを思えばやれないはずだと思うよ」藤原は、一切のプログラムを腹案しつつ言った。「でボースンやカムネ(カーペンター――大工――の ( なま ) り)はどうするんだね」波田はボースンや大工が裏切り者になりはしないかを恐れた。彼らは ( かご ) の中で ( かえ ) った目白のようなものであった。自分の 牢獄 ( ろうごく ) を出ることを拒む、その中で生まれた子供のようであった。彼らは船以外に絶対に、パンを得られないほど、船に同化されていた。たとえば彼らは、ちょうど人間ほどの太さのねじ ( くぎ ) にされてしまったのだ。それは船のどこかの部分に忘れられたようにはまり込んでいるのだ。そして、それは大切なねじ釘なんだ。だから ( ) びるまでそこへそのまま置かれるのだ。 ( ) びると新しいのと取り換えられねばならない。

 彼らはねじ釘の本質に基づいて、船体に錆びついているものと見なければならなかった。

 「よっぽど例外ででもなけれや、あいつらが船長に闘争を宣言するなんてこたあないよ」とストキもいった。

 「それやあたり前さ、今夜だって、ボースン、大工は、チーフメーツに大黒楼に呼ばれて、そこで飲んでるんだぜ。もちろんやつらあ、ねじ釘さ! だがやつらはかえっていない方が足手まといがなくっていいよ。今夜は貸金の利子を勘定する日さ」西沢は、すばしこくスパイしていたのだった。

 「おれたちは毎月の収入の五分ノ一ずつ出し合って、やつらに芸者買いをさせ酒を飲ましとくんだなあ」波田が言った。

 「では」藤原が言った。「要求書は僕が原稿を作って、それがまとまった上で、清書して判をおして、それから提出ということにしようね。それまではもちろん、絶対に秘密、しかし内容を秘してコーターマスターを説くことは小倉、君に一任しよう。ね、それでいいかしら、ほかにまだ考えて置くことはなかったかしら」彼はちょっと頭を軽くたたいて考えた。

 「もういいようだね」西沢が答えた。「だが波田君には菓子が、僕には酒と女とが足りないような気がするね」彼は大口をあいて笑った。空気まで寂しさに凍りついたような、静けさを破って、声は通りへ響いた。

 「波田君、どうだい、そんなにいけるかい」藤原は立ちながらきいた。

 「もういいよ。でも食えば食えないことは無論ないけれどもね。財政が許さないさ。ハハハハ」と笑った。

 四人はおもてへ出た。西沢は「ひやかして、一杯ひっかけてくる」と言って坂を遊郭の方へ上がって行った。三人はそろって、どこか、そこが外国の町ででもあるような感じを ( いだ ) きながら、 馬蹄形 ( ばていがた ) にその船へ向かった。

 ボーイ長は波田から菓子のみやげをもらって喜んだ。

 三人は、紅茶のおかげで眠られぬままに、ボーイ長のそばで、ストーブに石炭をほうり込みながら、前のボースンが、 直江津 ( なおえつ ) でほうり上げられた悲惨な話を、思い起こしては語り合った。