5. 其五
紺とはいへど汗に褪め風に化りて異な色になりし上、幾度か洗ひ濯がれたるた
め其としも見えず、襟の記印の字さへ朧氣となりし半纏を着て、補綴のあたりし古股
引を穿きたる男の、髮は塵埃に塗れて白け、面は日に燒けて品格なき風采の猶更品格
なきが、うろ/\のそ/\と感應寺の大門を入りにかゝるを、門番尖り聲で何者ぞと
怪み誰何せば、吃驚して暫時眼を見張り、漸く腰を屈めて馬鹿丁寧に。大工の十兵衞
と申しまする、御普請につきまして御願に出ましたとおづ/\云ふ風態の、何となく
腑には落ちねど、大工とあるに多方源太が弟子かなんぞの使ひに來りしものならむと
推察して、通れと一言押柄に許しける。十兵衞これに力を得て四方を見廻はしながら
森嚴しき玄關前にさしかゝり、御頼申すと二三度いへば鼠衣の青黛頭、可愛らしき小
坊主の應と答へて障子引き開けしが、應接に慣れたるものの眼捷く人を見て、敷臺ま
でも下りず突立ちながら。用事なら庫裡の方へ廻れと情無く
云ひ捨てて障子ぴつしやり、後は何方やらの樹頭に啼く鵯の聲ばかりして音もなく響
きもなし。成程と獨言しつつ十兵衞庫裡にまはりて復案内を請へば用人爲右衞門仔細
らしき理窟顏して立出で。見なれぬ棟梁殿、何處より何の用事で見えられたと、衣服
の粗末なるに既侮り輕しめた言葉遣ひ、十兵衞さらに氣にもとめず。野生は大工の十
兵衞と申すもの、上人樣の御眼にかゝり、御願ひをいたしたい事のあつてまゐりまし
た、どうぞ御取次ぎ下されましと、首を低くして頼み入るに、爲右衞門じろりと十兵
衞が垢臭き頭上より白の鼻緒の鼠色になつた草履穿き居る足先まで睨め下ろし。なら
ぬ、ならぬ、上人樣は俗用に御關りはなされぬわ、願といふは何か知らねど云うて見
よ、次第によりては我が取り計うて遣ると、然も/\萬事心得たぶり。それを無頓着
の男の質朴にも突き放して。いえ、ありがたうござりますれど上人樣に直々で無うて
は、申しても役に立ちませぬ事、何卒たゞ御取次を願ひますると、此方の心が醇粹な
れば先方の氣に觸る言葉とも斟酌せず推返し言へば、爲右衞門腹には我を頼まぬが憎
くて慍りを含み。理の解らぬ男ぢやの、上人樣は汝ごとき職
人等に耳は假したまはぬといふに、取次いでも無益なれば我が計うて得させむと甘く
遇へば附上る言分、最早何も彼も聞いてやらぬ、歸れ歸れと、小人の常態とて語氣た
ちまち粗暴くなり、膠なく言ひ捨て立んとするに周章てし十兵衞。ではござりませう
なれどと半分いう間なく、五月蠅、喧しいと打消され。奧の方に入られて仕舞うて茫
然と土間に突立つたまゝ掌の裏の螢に脱去られし如き思ひをなしけるが、是非なく聲
をあげて復案内を乞ふに、口ある人の有りや無しや、薄寒き大寺の岑閑と、反響のみ
は我が耳に堕ち來れど咳聲一つ聞えず、玄關にまはりて復頼むといへば、先刻見たる
憎氣な怜悧小僧の一寸顏出して、庫裡へ行けと教へたるにと獨語きて早くも障子ぴし
やり。復庫裡に廻り復玄關に行き、復玄關に行き庫裡に廻り、終には遠慮を忘れて本
堂にまで響く大聲をあげ、頼む/\御頼申すと叫べば、其聲より大な聲を發して馬鹿
めと罵りながら爲右衞門づか/\と立出で。僮僕ども此狂漢を門外に引き出せ、騒々
しきを嫌ひたまふ上人樣に知れなば我等が比奴のために叱らるべしとの下知、心得ま
したと先刻より僕人部屋に轉がり居し寺僕等立かゝり引き出さむとする、土間に坐
り込んで出されじとする十兵衞。それ手を取れ足を持ち上げ
よと多勢口々に罵り騒ぐところへ、後園の花二枝三枝剪んで床の眺めにせむと境内彼
方此方逍遙されし朗圓上人、木蘭色の無垢を着て左の手に女郎花桔梗、右の手に朱塗
の把りの鋏持たせられしまゝ圖らず此處に來かゝりたまひぬ。