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12. 其十二

 色も香も無く一言に默つて居よと遣り込められて、聽かぬ氣のお吉顏ふり上げ、 何か云ひ出したげなりしが、自己よりは一倍きかぬ氣の夫の制するものを、押返して 何程云ふとも機嫌を損ずる事こそはあれ口答への甲斐は露無きを經驗あつて知り居れ ば、連添ふものに心の奧を語り明して相談かけざる夫を恨めしくはおもひながら、其 處は怜悧の女の分別早く。何も妾が遮つて女の癖に要らざる嘴を出すではなけれど、 つい氣にかゝる仕事の話故思はず樣子の聞きたくて、餘計な事も胸の狹いだけに饒舌 つた譯と、自分が眞實籠めし言葉を態と極々輕う爲て仕舞う て、何處までも夫の分別に從ふやう表面を粧ふも幾許か夫の腹の底に在る煩悶を殺い で遣りたさよりの眞實。源太もこれに角張りかゝつた顏をやはらげ。何事も皆天運ぢ や、此方の料簡さへ温順に和しく有つて居たなら又好い事の廻つて來ようと、此樣お もつて見れば、のつそりに半口與るも却つて好い心持、世間は氣次第で忌々しくも面 白くもなるもの故、出來るだけは卑劣なを根性に着けず、瀟洒と世を綺麗に渡りさへすれば其で好いわ、と云ひさしてぐいと仰飮ぎ、後は芝居の噂やら弟子共が行状の噂、眞に罪無き雜話を下物に、酒も過ぎぬほど心よく飮んで、 下卑た體裁ではあれど、とり膳睦まじく飯を喫了り、多分もう十兵衞が來さうなもの と何事もせず待ちかくるに、時は空しく經過て障子の日かげ 一尺動けど尚見えず、二尺も移れど尚見えず、是非先方より頭を低くし身を縮め て此方へ相談に來り、何卒半分なりと仕事を割與て下されと今日の上人樣の御慈愛深 き御言葉を頼りに泣きついても頼みをかくべきに、何として如是は遲きや、思ひ斷め て望を捨て、既早相談にも及ばずとて獨り我家に燻り居るか、それともまた此方より 行くを待つて居る歟、若しも此方の行くを待つて居るといふことならば、餘り増長した料簡なれど、まさかに其樣な高慢氣も出すま い、例ののつそりで悠長に構へて居るだけの事ならむが、扨も氣の長い男め迂濶にも 程のあれと煙草ばかり徒らに喫かし居て待つには短き日も隨分長かりしに、それさへ 暮れて群烏塒に歸る頃となれば流石に心おもしろからず、漸く癇癪の起り/\て耐へ きれずなりし潮先、据られし晩食の膳に對ふと其儘、云ひ譯ばかりに箸をつけて茶さ へ緩りとは飮まず。お吉、十兵衞めがところに一寸行て來る、行違ひになつて不在へ 來ば待たして置けと、云ふ言葉さへとげ/\しく、怒りを含んで立出かゝれば、氣に はかゝれど何とせん方もなく、女房は送つて出したる後にて、たゞ溜息をするのみな り。