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其三十二
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32. 其三十二

 長夜の夢を覺まされて江戸四里四方の老若男女、惡風來たりと驚き騒ぎ、雨戸 の横柄子緊乎と插せ、辛張棒を強く張れと家々ごとに狼狽ゆるを、可愍とも見ぬ飛天 夜叉王、怒號の聲音たけだけしく。汝等人を憚るな、汝等人間に憚られよ、人間は我 等を輕んじたり、久しく我等を賤みたり、我等に捧ぐべき筈の定めの牲を忘れたり、 這ふ代りとして立つて行く狗、驕奢の塒巣作れる禽、尻尾なき猿、物言ふ蛇、露誠實 なき狐の子、汚穢を知らざる豕の女、彼等に長く侮られて遂に何時まで忍び得む。我 等を長く侮らせて彼等を何時まで誇らすべき、

[_]
[4]忍ぶへき
だけ忍びたり誇らすべきだけ誇らしたり、六十四年は既に過ぎたり、我等を縛せし機運の鐵鎖我等を囚へし慈忍の岩窟は我が神力にてちぎり棄てたり崩潰させたり、汝等暴れよ今こそ暴れよ、何十年の恨の毒氣を彼等に返せ一時に返せ、彼等が驕慢の氣の臭さを鐵圍山外に攫んで捨てよ、彼等の頭を地につかしめよ、無慈悲の斧の刃味の好さを彼等が胸に試みよ、慘酷の矛瞋恚の劒の刃糞と彼等をなし呉れよ、彼等が喉に氷を與へて苦寒に怖れ顫かしめよ、彼等が膽に針を與へて秘密の痛みに堪ざらしめよ、彼等が眼前に彼等が生したる多數の奢侈の子孫を殺して、玩物の念を嗟歎の灰の河に埋めよ、彼等は蠶兒の家を奪ひぬ汝等彼等の家を奪へや、彼等は蠶兒の知慧を笑ひぬ汝等彼等の智慧を讚せよ。すべて彼等の巧みとおもへる智慧を讚せよ大とおもへる意を讚せよ美しと自らおもへる情を讚せよ、協へりとなす理を讚せよ、剛しとなせる力を讚せよ、すべては我等の矛の餌なれば、劒の餌なれば斧の餌なれば、讚して後に利器に餌ひ、よき餌をつくりし彼等を笑へ。嬲らるゝだけ彼等を嬲れ、急に屠るな嬲り殺せ、活しながらに一枚一枚皮を剥ぎ取れ、肉を剥ぎとれ、彼等が心臟を鞠として蹴よ、枳棘をもて背を鞭てよ、歎息の呼氣涙の水動悸の血の音悲鳴の聲、其等をすべて人間より取れ。殘忍の外快樂なし、酷烈ならずば汝等疾く死ね、暴れよ進めよ無法に住して放逸無慚無理無體に暴れ立て暴れ立て進め進め、神とも戰へ佛をも擲け、道理を壞つて壞りすてなば天下は我等がものなるぞと、叱咤する度土石を飛ばして丑の刻より寅の刻、卯となり辰となるまでも毫も止まず勵ましたつれば、數萬の眷屬勇みをなし、 水を渡るは波を蹴かへし、陸を走るは沙を蹴かへし、天地を塵埃に黄ばまして日の光 をもほと/\掩ひ、斧を揮つて數奇者が手入れ怠りなき松を冷笑ひつゝほつきとるあり、矛を舞はして板屋根に忽ち穴を穿つもあり、ゆさ/\ /\と怪力もてさも堅固なる家を動かし橋を搖がすものもあり。手ぬるし手ぬるし酷 さが足らぬ、我に續けと憤怒の牙囓み鳴らしつゝ夜叉王の躍り上つて焦躁ば虚空に充 ち滿ちたる眷屬、をたけび鋭くをめき叫んで遮に無に暴威を揮ふほどに、神前寺内に 立てる樹も、富家の庭に養はれし樹も聲振り絞つて泣き悲み、見る/\大地の髮の毛 は恐怖に一々堅立なし、柳は倒れ竹は割るゝ折しも黒雲空に流れて樫の實よりも大き なる雨ばらり/\と降り出せば、得たりとます/\暴るゝ夜叉、垣を引き捨て塀を蹴 倒し門をも破し屋根をもめくり軒場の瓦を踏み碎き、唯一ト揉に屑屋を飛ばし二タ揉み揉んでは二階を捻ぢ取り三たび揉んでは某寺を物の見事に潰し崩し、どう/\どつと鬨をあぐる其度毎に心を冷し胸を騒がす人々の彼に氣づかひ此に案ずる笑止の樣を見ては喜び、居所さへも無くされて悲むものを見ては喜び、いよ/\圖に乘り狼藉のあらむ限りを逞しうすれば、八百八町百萬の人みな生ける心地せず顏色さらにあらばこそ。中にも分けて驚きしは圓道爲右衞門、折角僅に出來上りし五重塔は揉まれ揉まれて、九輪は動ぎ、頂上の寶珠は空に得讀めぬ字を書き、岩をも轉ばすべき風の突掛け來り、楯をも貫くべき雨の打付り來る度撓む姿、木の軋る音、復る姿、又撓む姿、軋る音、今にも傾覆らんず樣子に。あれ/\危し仕樣は無きか、傾覆られては大事なり、止むる術も無き事か、雨さへ加はり來りし上周圍に樹木もあらざれば未曾有の風に基礎狹くて丈のみ高き此塔の堪へむことの覺束なし、本堂さへも此程に動けば塔は如何ばかりぞ、風を止むる呪文はきかぬか、かく恐ろしき大暴風雨に見舞に來べき源太は見えぬ歟、まだ新しき出入なりとて重々來では叶はざる十兵衞見えぬが寛怠なり、他さへ斯樣氣づかふに己が爲し塔氣にかけぬか、あれあれ危し又撓んだわ、誰か十兵衞招びに行けといへども、天に瓦飛び板飛び地上に砂利の舞ふ中を行かむといふものなく、漸く賞美の金を飽かして掃除人の七藏爺を出しやりぬ。

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[4] Rohan Zenshu reads 忍ぶべき.