2. 其二
火は別にとらぬから此方へ寄るがよいと云ひながら、重げに鐵瓶を取り下して、
屬輩にも如才なく愛嬌を汲んで與る櫻湯一杯、心に花のある待遇は口に言葉の仇繁き
より懷かしきに、惡い請求をさへすらりと聽て呉れし上、胸に蟠屈りなく淡然と平日
のごとく仕做されては、清吉却つて心羞かしく、何やら魂魄の底の方がむづ痒いやう
に覺えられ、茶碗取る手もおづ/\として進みかぬるばかり、濟みませぬといふ辭誼
を二度ほど繰返せし後漸く乾き切つたる舌を濕す間もあらせず。今頃の歸りとは餘り
可愛がられ過ぎたの、ホヽ、遊ぶはよけれど職業の間を缺いて母親に心配さするやう
では男振が惡いではないか清吉、汝は此頃仲町の甲州屋樣の御本宅の仕事が濟むと直
に根岸の御別莊の御茶席の方へ廻らせられて居るではないか、良人のも遊ぶは隨分好
で汝達の先に立つて騒ぐは毎々なれど職業を粗略にするは大
の嫌ひ、今若し汝の顏でも見たらば又例の青筋を立つるに定つて居るを知らぬでもあ
るまいに、さあ少し遲くはなつたれど母親の持病が起つたとか何とか方便は幾干でも
つくべし、早う根岸へ行くがよい、五三樣も了つた人なれば一日をふてて怠惰ぬに免
じて、見透かしても旦那の前は庇護うて呉るるであらう、おゝ朝飯がまだらしい、三
や何でもよいほどに御膳を其方へこしらへよ、湯豆腐に蛤鍋とは行かぬが新漬に煮豆
でも構はぬはなう、二三杯かつこんで直と仕事に走りやれ走りやれ、ホヽ睡くても昨
夜をおもへば堪忍の成らうに精を惜むな辛抱せよ、よいは辨當も松に持たせて遣るわ
と、苦くはなけれど效驗ある藥の行きとゞいた意見に、汗を出して身の不始末を慚づ
る正直者の清吉、姉御、では御厄介になつて、直に仕事に突走りますと、鷲掴みにし
た手拭で額拭き/\勝手の方に立つたかとおもへば、既ざら/\ざらつと口の中へ打
込む如く茶漬飯五六杯、早くも食うて了つて出て來り。左樣なら行つてまゐりますと、
肩ぐるみに頭をついと一ツ下げて煙草管を收め、壺屋の煙草入三尺帶にさすがは氣早
き江戸ツ子氣質、草履つゝかけ門口出づる、途端に今まで默つて居たりし女は急に呼びとめて。此二三日にのつそり奴に逢うたかと石から飛んで
火の出し如く聲を迸らし問ひかくれば、清吉ふりむいて。逢ひました逢ひました、し
かも昨日御殿坂で例ののつそりがひとしほのつそりと、往生した鷄のやうにぐたりと
首を垂れながら歩行いて居るを見かけましたが、今度此方の棟梁の對岸に立つて、の
つそりの癖に及びも無い望みをかけ、大丈夫ではあるものの幾干か棟梁にも姉御にも
心配をさせる其面が憎くつて面が憎くつて堪りませねば、やいのつそりめと頭から毒
を浴びせて呉れましたに、彼奴の事故氣がつかず、やいのつそりめ、のつそりめと三
度めには傍へ行つて大聲で怒鳴つて遣りましたれば漸く吃驚して梟に似た眼で我の顏
を見詰め、あゝ清吉あ―に―いかと寢惚聲の挨拶、やい、汝は大分好い男兒になつた
の、紺屋の干場へ夢にでも上つたか大層高いものを立てたがつて感應寺の和尚樣に胡
麻を摺り込むといふ話だが、其は正氣の沙汰か寢惚けてかと、冷語を驀向から與つた
ところ、ハヽヽ姉御、愚鈍い奴といふものは正直ではありませんか、何と返事をする
かとおもへば、我も隨分骨を折つて胡麻は摺つて居るが源太親方を對岸に立てて居る
ので何も胡麻が摺りづらくて困る、親方がのつそり汝爲て見
ろよと讓つて呉れれば好いけれどもなうとの馬鹿に蟲の好い答へ、ハヽヽ憶ひ出して
も心配相に大眞面目くさく云つた其面が可笑くて堪りませぬ、餘り可笑いので憎氣も
無くなり、篦棒めと云ひ捨てに別れましたが。其限りか。然。左樣かへ、さあ遲くな
る、關はずに行くがよい。左樣ならと清吉は自己が仕事におもむきける、後はひとり
で物思ひ、戸外では無心の兒童達が獨樂戰の遊びに聲聲喧しく、一人殺しぢや二人殺
しぢや、醜態を見よ讐をとつたぞと號きちらず。おもへばこれも順々競爭の世の状な
り。