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其二十八
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28. 其二十八

 あゝ好いところで御眼にかゝりましたが、何處へか御出掛けでござりまするか と忙し氣に老婆が問ふに、源太輕く會釋して。まあ能いわ、遠慮せずと此方へ這入り やれ、態々夜道を拾うて來たは何ぞ急の用か、聽いてあげようと立戻れば。ハイ/\、 有り難うござります、御出掛のところを濟みません、御免下さいまし、ハイハイと、 云ひながら後に隨いて格子戸くゞり。寒かつたらうに能う出て來たの、生憎お吉も居 ないで關ふことも出來ぬが、縮まつて居ずとずつと前へ進て火にでもあたるがよい、 と親切に云うて呉るゝ源太が言葉に愈々身を堅くして縮まり。お構ひ下さいましては 恐れ入りまする、ハイハイ、懷爐を入れて居りますれば是で恰好でござりますると、 意氣地なく落かゝる水洟を洲の立つた半天の袖で拭きながら遙下つて入口近きところ に蹲まり、何やら云ひ出したさうな素振り、源太早くも大方察して老婆の心の中嘸かしと氣の毒さ堪らず、餘計な事仕出して我に肝煎らせし清吉のお先走りを罵り懲らして當分出入ならぬ由云ひに鋭次がところへ行かむとせし矢先であれど、視れば我が子を除いては阿彌陀樣より他に親しい者も無かるべき孱弱き婆のあはれにて、我清吉を突き放さば、身は腰弱弓の弦に斷れられし心地して在るに甲斐なき生命ながらへむに張りも無く的も無くなり何程か悲み歎いて多くもあらぬ餘生を愚癡の涙の時雨に暮らし晴々とした氣持のする日も無くて終ることならむと、思ひ遣れば思ひ遣るだけ憫然さの増し、烟草捻つてつい居るに、婆は少しくにじり出で、夜分まゐりまして實に濟みませんが、あの少しお願ひ申したい譯のござりまして、ハイハイ、既御存知でもござりませうが彼清吉めが、飛んだ事をいたしましたさうで、ハイ/\、鐵五郎樣から大概は聞きましたが、平常からして氣の逸い奴で、直に打つのるのと騒ぎまして其度にひや/\させまする、お蔭さまで一人前にはなつて居りましても未だ兒童のやうな眞一酷、惡いことや曲つたことは決して仕ませぬが取り上せては分別の無くなる困つた奴で、ハイハイ、惡氣は夢さら無い奴でござります、ハイハイ其は御存知で、ハイ有り難うござります、何樣いふ筋で喧嘩をいたしましたか知りませぬが大それた手斧なんぞを振り舞はしましたさうで、左樣きゝました時は私が手斧でられたやうな心持がいたしました、め組の親分とやらが幸ひ抱き留めて下されましたとか、まあ責めてもでござります、相手が死にでもしましたら彼奴は下手人、わたくしは彼を亡くして生きて居る瀬はござりませぬ、ハイ有り難うござります、彼めが幼少ときは烈い蟲持で苦勞をさせられましたも大抵ではござりませぬ、漸く中山の鬼子母神樣の御利益で滿足には育ちましたが、癒りましたら七歳までに御庭の土を踏ませませうと申して置きながら遂何彼にかまけて御禮參りもいたせなかつた其御罰か丈夫にはなりましたが彼通の無鐵砲、毎々お世話をかけまする、今日も今日とて鐵五郎樣がこれ/\と掻摘んで話されました時の私の吃驚、刃物を準備までしてと聞いた時には、えゝ又かと、思はずどつきり胸も裂けさうになりました、め組の親分樣とかが預かつて下されたとあれば安心のやうなものの、清めは怪我はいたしませぬかと聞けば鐵樣の曖昧な返辭、別條はない案じるなと云はるゝだけに猶案ぜられ、其親分の家を尋ぬれば、其處へ汝が行つたが好いか行かぬが可いか我には分らぬ、兎も角も親方樣のところへ伺つて見ろと云ひつ放しで歸つて仕舞はれ、猶々胸がしくしく痛んで居ても起ても居られませねば留守を隣家の傘張りに頼ん でやうやく參りました、何うかめ組の親分とやらの家を教へて下さいまし、ハイ/\ 直にまゐりまするつもりで、何んな態して居りまするか、若しや却つて大怪我など爲 て居るのではござりますまいか、よいものならば早う逢て安堵したうござりまするし、 喧嘩の模樣も聞きたうござりまする、大丈夫曲つた事はよもやいたすまいと思うて居 りまするが若い者の事、ひよつと筋の違つた意趣ででも爲た譯なら、相手の十兵衞樣 に先此婆が一生懸命で謝罪り、婆は假令如何されても惜くない老耄、生先の長い彼奴 が人樣に恨まれるやうなことの無いやうに爲ねばなりませぬと、おろ/\涙になつて の話、始終を知らで一ト筋に我子をおもふ老の繰言、此返答には源太こまりぬ。