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8. 其八

 明日辰の刻頃までに自身當寺へ來るべし、豫て其方工事仰せつけられたきむね 願ひたる五重塔の儀につき上人直接に御話示あるべきよしな れば衣服等失禮なきやう心得て出頭せよと、嚴格に口上を演ぶるは辯舌自慢の圓珍と て、唐辛子をむざと嗜み食へる崇り鼻の頭にあらはれたる滑稽納所、平日ならば南蠻 和尚といへる諢名を呼びて戲談口きゝ合ふべき間なれど、本堂建立中朝夕顏を見しよ り自然と狎れし馴染みも今は薄くなりたる上、使僧らしう威儀をつくろひて、人さし 指中指の二本でやゝもすれば兜背形の頭顱の頂上を掻く癖ある手をも法衣の袖に殊勝 くさく隱蔽し居るに源太も敬ひ謹んで承知の旨を頭下つゝ答へけるが、如才なきお吉 は、吾夫をかゝる俗僧にまで好く評はせむとてか歸り際に、出したまゝにして行く茶 菓子と共に幾干錢か包み込み、是非にというて取らせけるは、思へば怪しからぬ布施 の仕樣なり。圓珍十兵衞が家にも詣りて同じ事を演べ歸りけるが、扨其翌日となれば、 源太は鬚剃り月代して衣服をあらため、今日こそは上人の自ら我に御用仰せつけら るゝなるべけれと勢込んで庫裡より通り、とある一ト間に待たされて坐を正しくし扣 へける態こそ異れ十兵衞も、心は同じ張を有ち、導かるゝまゝ打通りて人氣の無きに 寒さ湧く一室の中に唯一人兀然として、今や上人の招びたま ふか、五重塔の工事一切汝に任すと命令たまふか、若し又我には命じたまはず源太に 任すと定めたまひしを我にことわるため招ばれしか、然にもあらば何とせむ浮むよし なき埋れ木の我が身の末に花咲かむ頼みも永く無くなるべし、唯願はくは上人の我が おろかしきを憐みて我に命令たまはむことをと、九尺二枚の 唐襖に金鳳銀凰翔り舞ふ其箔模樣の美しきも眼に止めずして茫々と暗路に物を探るご とく念想を空に漂はすこと良久しきところへ、例の怜悧氣な小僧いで來りて。方丈さ まの召しますほどに此方へおいでなされましと先に立つて案内すれば、素破や願望の 叶ふとも叶はざるとも定まる時ぞと魯鈍の男も胸を騒がせ、導かるゝまゝ隨ひて一室 の中へずつと入る途端に此方をぎろりつと見る眼鋭く怒を含むで斜に睨むは思ひがけ なき源太にて座に上人の影もなし。事の意外に十兵衞も足踏みとめて突立つたるまゝ 一言もなく白眼合ひしが、是非なく疊二ひらばかりを隔てしところに漸く坐り、力な げ首悄然と己れが膝に氣勢のなきたさうなる眼を注ぎ居るに引き替へ源太郎は小狗を 瞰下す猛鷲の風に臨んで千尺の嚴の上に立つ風情、腹に十分の強みを抱きて、背をも 屈げねば肩をも歪めず、すつきり端然と構へたる風姿と云ひ 面貌といひ水際立つたる男振り、萬人が萬人とも好かずには居られまじき天晴小氣味 のよき好漢なり。されども世俗の見解には堕ちぬ心の明鏡に照らして彼れ此れ共に愛 し、表面の美醜に露泥まれざる上人の却つて何れをとも昨日までは擇びかねられしが 思ひつかるゝことのありてか、今日はわざわざ二人を招び出されて一室に待たせ置か れしが、今しも靜々居間を出られ、疊踏まるゝ足も輕く、先に立つたる小僧が襖明く る後より、すつと入りて座につきたまへば、二人は恭ひ敬みて共に齊しく頭を下げ、 少時上げも得せざりしが、嗚呼いぢらしや十兵衞が辛くも上げし面には未だ世馴れざ る里の子の貴人の前に出しやうに羞を含みて紅潮し、額の皺の幾條の溝には沁出し熱 汗を湛へ、鼻の頭にも珠を湧かせば、腋の下には雨なるべし、膝に載きたる骨太の掌 指は枯れたる松枝ごとき岩疊作りにありながら一本ごとに其さへも戰々顫へて一心に 唯上人の一言を一期の大事と待つ笑止さ、源太も默して言葉なく耳を澄まして命を待 つ、那方を那方と判かぬる二人の情を汲みて知る上人もまた中中に口を開かむ便宜な く暫時は靜まりかへられしが。源太十兵衞ともに聞け、今度建つべき五重塔は唯一ツにて建てむといふは汝達二人、二人の願ひを雙方とも聞き 屆けては遣りたけれど其は固より叶ひがたく、一人に任さば一人の歎き、誰に定めて 命けむといふ標準のあるではなし、役僧用人等の分別にも及ばねば老僧が分別にも及 ばぬほどに此分別は汝達の相談に任す、老僧は關はぬ、汝達の相談の纏まりたる通り 取り上げて與るべければ熟く家に歸つて相談して來よ、老僧が云ふべき事は是ぎりぢ やによつて左樣心得て歸るがよいぞ、さあ確と云ひ渡したぞ、既早歸つてもよい、然 し今日は老僧も閑で退屈なれば茶話の相手になつて少時居てくれ、浮世の噂なんど老 衲に聞かせて呉れぬか、其代り老僧も古い話の可笑なを二ツ三ツ昨日見出したを話し て聞かさうと、笑顏やさしく、朋友かなんぞのやうに二人をあしらうて扨何事を云ひ 出さるゝやら。