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17. 其十七

 清吉醉うてはしまりなくなり、碎けた源太が談話ぶり捌けたお吉が接待ぶりに何時しか遠慮も打忘れ、擬されて辭まず受けては突と干し酒盞の數重ぬるまゝに、平常から可愛らしき紅ら顏を一層澤々と、實の熟つた丹波王母珠ほど紅うして、罪も無き高笑ひやら、相手もなしの空示威、朋輩の誰の噂彼の噂、自己が假聲の何處其處で喝采を獲たる自慢、奪られぬ奪られるの云ひ爭ひの末何樓の獅顏火鉢を盗り出さむとして朋友の仙の野郎が大失策を仕た話、五十間で地廻りを擲つた事など縁に引かれ圖に乘つて其から其へと饒舌り散らす中不圖のつそりの噂に火が飛べば、とろりとなりし眼を急に見張つて、ぐにやりとして居し肩を聳だて、冷たうなつた飮みかけの酒を異しく脣まげながら汲ひ干し。一體あんな馬鹿野郎を親方の可愛がるといふが私には頭から解りませぬ、仕事といへば馬鹿丁寧で捗びは一向つきはせず、柱一本鴨居一ツでうそをいへば鉋を三度も礪ぐやうな緩漫な奴、何を一ツ頼んでも間に合つた例が無く、赤松の爐縁一ツに三日の手間を取るといふのは多分あゝいふ手合だらうと仙が笑つたも無理は有りませぬ、それを親方が贔屓にしたので、一時は正直のところ濟みませんが私も金も仙も六もあんまり親方の腹が大きすぎて其程でもないものを買ひ込み過ぎて居るでは無いか、念入りばかりで氣に入るなら我等も是から羽目板にも仕上げ鉋、のろり/\と十分清めて碁盤肌にでも削らうかと僻見を云つた事もありました、第一彼奴は交際知らずで女郎買一度一所にせず好鬪鷄鍋つゝき合つた事も無い唐朴、何時か大師へ一同が行く時も、まあ親方の身邊について居るものを一人ばかり仲間はづれにするでも無いこと私が親切に誘つてやつたに、我は貧乏で行かれないと云つた切りの挨拶は、なんと愛想も義理も知らな過ぎるではありませんか、錢が無ければ女房の一枚着を曲げ込んでも交際は交際で立てるが朋友づく、それも解らない白痴の癖に段段親方の恩を被て、私や金と同じことに今では如何か一人立ち、然も憚りながら青洟垂らして辨當箱の持運び木片を擔いでひよろ/\歸る餓鬼の頃から親方の手について居た私や仙とは違つて奴は渡り者、次第を云へば私等より一倍深く親方を有難い忝ないと思つて居なけりやならぬ筈、親方、姉御、私は悲しくなつて來ました、私は若しもの事があれば親方や姉御のためと云や黒煙の煽りを食つても飛び込むぐらゐの料簡は持つて居るに、畜生ツ、あゝ人情無い野郎め、のつそりめ、彼奴は火の中へは恩を背負つても入りきるまい、碌な根性は有つて居まい、あゝ人情無い畜生めだと醉が圖らず云ひ出せし不平の中に潛り込んで、めそ/\めそ/\泣き出せばお吉は夫の顏を見て、例の癖が出て來たかと困つた風情は仕ながらも自己の胸にものつそりの憎さがあれば幾分かは清が言葉を道理と聞く傾きもあるなるべし。源太は腹に戸締の無きほど愚魯ならざれば、猪口を擬しつけ高笑ひし。何を云ひ出した清吉、寢惚るな我の前だわ、泣いても初まらぬぞ、其手で女でも口説きやれ、隨分ころりと來るであらう、汝が惚けた小蝶さまの御部屋では無い、アツハヽヽと戲言を云へば尚眞面目に、ずゝだまほどの涙を拂ふ其手をぺたりと刺身皿の中につゝこみ、しやくり上げ歔欷して泣き出し。あゝ情無い親方、私を醉漢あしらひは情無い、醉つては居ませぬ、小蝶なんぞは飮べませぬ、左樣いへば、彼奴の面が何處かのつそりに似て居るやうで口惜くて情無い、のつそりは憎い奴、親方の對を張つて大それた五重塔を生意氣にも建てようなんとは憎い奴憎い奴、親方が和し過ぎるので増長した謀反人め、謀反人も明智のやうなは道理だと伯龍は講釋しましたが彼奴のやうなは大惡無道、親方は何日のつそりの頭を鐵扇で打ちました、何日蘭丸にのつそりの領地を與ると云ひました、私は今に若も彼奴が親方の言葉に甘えて名を列べて塔を建てれば打捨つては置けませぬ、擲き殺して狗に呉れます、此樣いふやうに擲き殺してと明徳利の横面突然打き飛ばせば碎片は散つて皿小鉢跳り出すやちん鏘然。馬鹿野郎めと親方に大喝されて其儘にぐづりと坐り沈靜く居るかと思へば散かりし還原海苔の上に額おしつけ既鼾聲なり。源太はこれに打笑ひ。愛嬌のある阿呆めに掻卷かけて遣れと云ひつゝ手酌にぐいと引かけて酒氣を吹くこと良久しく。怒つて歸つて來はしたものの、彼樣では高が清吉同然、さて分別がまだ要るわ。