University of Virginia Library

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其三十三
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33. 其三十三

 耄碌頭巾に首をつゝみて其上に雨を凌がむ準備の竹の皮笠引被り、鳶子合羽に 胴締して手ごろの杖持ち、恐怖ながら烈風強雨の中を駈け拔けたる七藏爺、やうやく 十兵衞が家にいたれば、これはまた酷い事、屋根半分は既疾に風に奪られて見るさへ 氣の毒な親子三人の有樣、隅の方にかたまり合うて天井より落ち來る點滴の飛沫を古 筵で僅に避け居る始末に、扨ものつそりは氣の働らきの無い男と呆れ果つゝ。これ棟 梁殿、此暴風雨に左樣して居られては濟むまい、瓦が飛ぶ樹が折れる、戸外は全然戰 爭のやうな騒ぎの中に、汝の建てられた彼塔は如何あらうと思はるゝ、丈は高し周圍 に物は無し基礎は狹し、何の方角から吹く風をも正面に受けて搖れるわ搖れるわ、旗 竿ほどに撓んではきちきちと材の軋る音の物凄さ、今にも倒れるか壞れるかと圓道樣 も爲右衞門樣も膽を冷したり縮ましたりして氣が氣では無く心配して居らるゝに、一體ならば迎ひなど受けずとも此天變を知らず顏では濟まぬ汝が出ても來ぬとは餘りな大勇、汝の御蔭で險難な使を吩咐かり、忌々しい此瘤を見て呉れ、笠は吹き攫はれる全濡にはなる、おまけに木片が飛んで來て額に打付りくさつたぞ、いゝ面の皮とは我がこと、さあ/\一緒に來て呉れ來て呉れ、爲右衞門樣圓道樣が連れて來いとの御命令だわ、えゝ吃驚した、雨戸が飛んで行て仕舞うたのか、これだもの、塔が堪るものか、話する間にも既倒れたか折れたか知れぬ、愚圖々々せずと身支度せい、疾く疾くと急り立つれば、傍から女房も心配氣に。出て行かるゝなら途中が危險い、腐つても彼火事頭巾、あれを出しましよ冠つてお出なされ、何が飛んで來るか知れたものではなし、外見よりは身が大切、何程襤褸でも仕方ない刺子半纏も上に被ておいでなされ、と、戸棚がた/\明けにかゝるを、十兵衞不興氣の眼でぢつと見ながら。あゝ構うてくれずともよい、出ては行かぬわ、風が吹いたとて騒ぐには及ばぬ、七藏殿御苦勞でござりましたが、塔は大丈夫倒れませぬ、何の、此れ程の暴風雨で倒れたりするやうな脆いものではござりませぬわ、十兵衞が出掛けてまゐるにも及びませぬ、圓道樣にも爲右衞門樣にも左樣云うて下だされ、大丈夫、大丈夫でござります、と泰然はらつて身動きもせず答ふれば、七藏少し膨れ面して。まあ兎も角も我と一緒に來て呉れ、來て見るがよい、彼の塔のゆさ/\きち/\と動くさまを、此處に居て目に見ねばこそ威張つて居らるれ、御開帳の幟のやうに頭を振つて居るさまを見られたら何程十兵衞殿寛濶な氣性でもお氣の毒ながら魂魄がふはり/\とならるゝであらう、蔭で強いのが役にはたゝぬ、さあさあ一緒に來たり來たり、それまた吹くわ、嗚呼恐ろしい、中々止みさうにも無い風の景色、圓道樣も爲右衞門樣も定めし肝を煎つて居らるゝぢやろ、さつさと頭巾なり半纏なり冠るとも被るともして出掛けさつしやれと遣り返す。大丈夫でござりまする、御安心なさつて御歸りと突撥る。其の安心が左樣手易くは出來ぬわいと五月蠅云ふ。大丈夫でござりますると同じことをいふ。末には七藏焦れこんで。何でも彼でも來いといふたら來い、我の言葉とおもうたら違ふぞ圓道樣爲右衞門樣の御命令ぢやと語氣あらくなれば、十兵衞も少し勃然として。我は圓道樣爲右衞門樣から五重塔建ていとは命令かりませぬ、御上人樣は定めし風が吹いたからとて十兵衞よべとは仰やりますまい、其樣な情無い事を云うては下さりますまい、若も御上人樣までが、塔危いぞ十兵衞呼べと云はるゝやうにならば、十兵衞一期の大事、死ぬか生きるかの瀬門に乘かゝる時、天命を覺悟して駈けつけませうなれど、御上人樣が一言半句十兵衞の細工を御疑ひなさらぬ以上は何心配の事も無し、餘の人たちが何を云はれうと、紙を材にして仕事もせず魔術も手拔もして居ぬ十兵衞、天氣のよい日と同じことに雨の降る日も風の夜も樂々として居りまする、暴風雨が怖いものでも無ければ地震が怖うもござりませぬと圓道樣にいうて下され、と愛想なく云ひ切るにぞ、七藏仕方なく風雨の中を駈け拔けて感應寺に歸りつき圓道爲右衞門に此よし云へば。さても其場に臨んでの智慧の無い奴め、何故其時に上人樣が十兵衞來いとの仰せぢやとは云はぬ、あれあれ彼搖るゝ態を見よ汝までがのつそりに同化て寛怠過ぎた料簡ぢや、是非は無い、も一度行つて上人樣の御言葉ぢやと欺誑り、文句いはせず連れて來いと圓道に烈しく叱られ、忌々しさに獨語きつゝ七藏ふたゝび寺門を出でぬ