其十一 五重塔 (Goju no to) | ||
11. 其十一
格子開くる響爽かなること常の如く。お吉、今歸つたと元氣よげに上り來る夫 の聲を聞くより、心配を輪に吹き/\吸て居し煙草管を邪見至極に抛り出して忙はし く立迎へ。大層遲かつたではないかと云ひつゝ背面へ廻つて羽織を脱せ、立ながら腮 に手傳はせての袖疊み小早く室隅の方に其儘さし置き、火鉢の傍へ直また戻つて火急 鐵瓶に松蟲の音を發させ、むづと大胡坐かき込み居る男の顏を一寸見しなに。日は暖 かでも風が冷く、途中は隨分寒ましたろ、一瓶煖酒ましよかと痒いところへ能く屆か す手は口をきく其間にがたぴしさせず膳ごしらへ、三輪漬は柚の香ゆかしく、大根卸 で食はする鮭卵は無造作にして氣が利たり。
源太胸には苦慮あれども幾干か此に慰められて猪口把りさまに二三杯、後一杯 を漫く飮んで汝も飮れと與ふれば、お吉一口、つけて、置き、燒きかけの海苔疊み折 つて。追付三子の來さうなものと魚屋の名を獨語しつ、猪口を返して酌せし後、上々 吉と腹に思へば動かす舌も滑かに。それはさうと今日の首尾は、大丈夫此方のものと は極めて居ても知らせて下さらぬ中は無駄な苦勞を妾は爲ます、お上人樣は何と仰せ か、またのつそり奴は如何なつたか、左樣眞面目顏でむつつりとして居られては心配 でなりませぬと云はれて源太は高笑ひ。案じて貰ふ事は無い、御慈悲の深い上人樣は 何の道我を好漢にして下さるのよ、ハヽヽ、なあお吉、弟を可愛がれば好い兄ではな いか、腹の饑つたものには自分が少しは辛くても飯を分けてやらねばならぬ場合もあ る、他の怖いことは一厘無いが、強いばかりが男兒では無いなあ、ハヽヽ、ぢつと堪 忍して無理に弱くなるのも男兒だ、嗚呼立派な男兒だ、五重塔は名譽の工事、たゞ我 一人で物の見事に千年壞れぬ名物を萬人の眼に殘したいが、他の手も智慧も寸分交ぜ ず川越の源太が手腕だけで遺したいが、嗚呼癇癪を堪忍するのが、えゝ、男兒だ、男 兒だ、成程好い男兒だ、上人樣に虚言は無い、折角望みをか けた工事を半分他に呉るのはつく%\忌々しいけれど、嗚呼、辛いが、えゝ兄だ、 ハヽヽ、お吉、我はのつそりに半口與つて二人で塔を建てようとおもふわ、何と立派 な弱い男兒か、賞めて呉れ賞めて呉れ、汝にでも賞めて貰はなくては餘り張合ひの無 い話だ、ハヽヽと嬉しさうな顏もせで意味の無い聲ばかりはずませて笑へば、お吉は 夫の氣を量りかね。上人樣が何と仰やつたか知らぬが妾にはさつぱり分らず些も面白 くない話、唐遍朴の彼のつそりめに半口與るとは何いふ譯、 日頃の氣性にも似合はない、與るものならば未練氣なしに悉皆與つて仕舞ふが好いし、 固より此方で取る筈なれば要りもせぬ助太刀頼んで一人の首を二人で切る樣な卑劣な ことをするにも當らないではありませぬか、冷水で洗つたやうな清潔な腹を有つて居 ると他にも云はれ自分でも常々云うて居た汝が、今日に限つて何という煮切ない分別、 女の妾から見ても意地の足らない愚圖々々思案、賞めませぬ賞めませぬ、何して中々 賞められませぬ、高が相手は此方の恩を受けて居るのつそり奴、一體ならば此方の仕 事を先潛りする太い奴と高飛車に叱りつけて、ぐうの音も出させぬやうに爲れば成 るのつそり奴を、左樣甘やかして胸の燒る連名工事を何で爲 るに當る筈のあらうぞ、甘いばかりが立派の事か、弱いばかりが好い男兒か、妾の蟲 には受け取れませぬ、何なら妾が一ト走りのつそり奴のところに行つて重々恐れ入り ましたと、思ひ切らせて謝罪らせて兩手を突かせて來ませうかと、女賢しき夫思ひ、 源太は聞いて冷笑ひ。何が汝に解るものか、我の爲ることを好いとおもうて居てさへ 呉るればそれで可いのよ。
其十一 五重塔 (Goju no to) | ||