オリンポスの果実
田中英光 (Orinposu no kajitsu) | ||
一
秋ちゃん。
と呼ぶのも、もう 可笑 ( おか ) しいようになりました。熊本秋子さん。あなたも、たしか、三十に間近い 筈 ( はず ) だ。ぼくも同じく、二十八歳。すでに 女房 ( にょうぼう ) を 貰 ( もら ) い、子供も一人できた。あなたは、九州で、女学校の体操教師をしていると、 近頃 ( ちかごろ ) 風の便りにききました。
時間というのは、変なものです。十年近い歳月が、当時あれほど、あなたの事というと興奮して、こうした 追憶 ( ついおく ) をするのさえ、苦しかったぼくを、今では冷静におししずめ、ああした愛情は一体なんであったろうかと、考えてみるようにさせました。
恋 ( こい ) というには、あまりに 素朴 ( そぼく ) な愛情、ろくろく話さえしなかった仲でしたから、あなたはもう忘れているかもしれない。しかし、ぼくは今日、ロスアンゼルスで買った記念の 財布 ( さいふ ) のなかから、あのとき大洋丸で、あなたに貰った、 杏 ( あんず ) の実を、とりだし、ここ 京城 ( けいじょう ) の 陋屋 ( ろうおく ) の 陽 ( ひ ) もささぬ裏庭に 棄 ( す ) てました。そのとき、急にこうしたものが書きたくなったのです。
これはむろん 恋情 ( れんじょう ) からではありません。ただ 昔 ( むかし ) の愛情の思い出と、あなたに、お聞きしたかったことが、聞けなかった心残りからです。
思わせぶりではありますがその言葉は、この手記の最後まで、とっておかして下さい。
オリンポスの果実
田中英光 (Orinposu no kajitsu) | ||