オリンポスの果実
田中英光 (Orinposu no kajitsu) | ||
十
それまでは 皆 ( みんな ) 、ぼくを精々、 嫉妬 ( しっと ) するくらいで、別に 詰問 ( きつもん ) するだけの 根拠 ( こんきょ ) はなかったのですが、 図 ( はか ) らずも、ハワイで買った 紅 ( あか ) いセエム革の手帳が、それに役立つことになりました。
ハワイを出て、海は 荒 ( あ ) れだしました。 甲板 ( かんぱん ) に出ても、これまで 群青 ( ぐんじょう ) に、 輝 ( かがや ) いていた 穏 ( おだ ) やかな海が、いまは暗緑色に 膨 ( ふく ) れあがり、いちめんの白波が 奔馬 ( ほんば ) の 霞 ( かすみ ) のように、 飛沫 ( しぶき ) をあげ、荒れ 狂 ( くる ) うのをみるのは、なにか、胸 塞 ( ふさが ) る思いでした。船の針路を 眺 ( なが ) めると、二三間もあるような、大きなうねりが、 屏風 ( びょうぶ ) をおし立てたように、あとからあとから続いて来ます。
さすが、 巨 ( おお ) きな汽船だけに、まア、リフトの 昇降時 ( しょうこうじ ) にかんじる、 不愉快 ( ふゆかい ) さといった 程 ( ほど ) のものでしたが、やはり甲板に出てくる人の数は少なく、 喫煙室 ( スモオキングルウム ) で、 麻雀 ( マアジャン ) でもするか、コリントゲエムでもやっている連中が多かったのです。
そういう時、ぼくは 独 ( ひと ) り、甲板の 手摺 ( てすり ) に 凭 ( もた ) れ、 泡 ( あわ ) だった 浪 ( なみ ) を、みつめているのが、何よりの快感でした。あなたとは、もう遊べませんでした。で、ぼくは、あなたとレエスのことばかり、空想していました。ボオトは、勝負はとにかく、全力を出し切らねばならない。全力を出し、クルウが 遺憾 ( いかん ) なく、 闘 ( たたか ) えたとします。そうしたら日本に帰って、あなたと堂々と 結婚 ( けっこん ) できると思う。
そんな風に楽しい空想を 描 ( えが ) いているときでも、絶えず、先輩達の眼、周囲の口が、想われて、それがなにより 厭 ( いや ) でした。こうした悪意に対して、ぼくは、それを、じっと受け 応 ( こた ) えるだけで、 精一杯 ( せいいっぱい ) でした。
当時、ぼくは二十 歳 ( さい ) 、たいへん理想に燃えていたものです。なによりも、貧しき人々を救いたいという非望を、愛していました。だから、その 頃 ( ころ ) 、なにか苦しい目にぶつかると、あの哀れな 人達 ( プロレタリアアト )
を思えと、自分に言いきかせて、 頑張 ( がんば ) ったものです。それでいながら、 例 ( たと ) えば、 舷側 ( げんそく ) に 沸 ( わ ) きあがり、 渦巻 ( うずま ) き、泡だっては消えてゆく、太平洋の水の 透 ( す ) き 徹 ( とお ) る淡青さに、生命も 要 ( い ) らぬ、と思う、はかない気持もあった。
船室では、同室の沢村さん松山さんが、いないときが多かったので、いつでも、自分の上段の 寝室 ( しんしつ ) にあがり、 寝 ( ね ) そべって、日記をつけていました。日記の書き出しには、こんなことが書いてありました。
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ぼくはあのひとが好きでたまらない。この頃のぼくはひとりでいるときでも、なんでも、あのひとと 一緒 ( いっしょ ) にいる気がしてならない。ぼくの呼吸も、ぼくの 皮膚 ( ひふ ) も、息づくのが、すでに、あのひとなしに考えられない。たえず、ぼくの血管のなかには、あのひとの血が流れているほど、いつも、あのひとはぼくの身近にいる。それでいて、ぼくはあのひとの指先にさえ 触 ( さわ ) ったことはないのだ。むろん触りたくはない。触るとおもっただけで、体中の血が、 凍 ( こお ) るほど、厭らしい。なぜだか、はっきり言えないが。どこが好きかときかれたら、ぼくは困るだろう。それほど、ぼくはあのひとが好きだ。 綺麗 ( きれい ) かときかれても、 判 ( わか ) らない、と答えるだろう。 利巧 ( りこう ) かいといわれても、どうだか、としか返事できないだろう。気性が好きか、といわれても、さアとしか言えない、それ程、ぼくはあのひとについて、なんにも知らないし、知ろうとも、知りたいとも思わない。
ただ、二人でよく 故里 ( ふるさと ) 鎌倉 ( かまくら ) の 浜辺 ( はまべ ) をあるいている 夢 ( ゆめ ) をみる。ふたりとも一言も 喋 ( しゃべ ) りはしない。それでいて、 黙々 ( もくもく ) と寄り 添 ( そ ) って、歩いているだけで、お 互 ( たが ) いには、なにもかもが、すっかり 解 ( わか ) りきっているのだ。あたたかい白砂だ。なごやかな春の海だ。ぼくは、その海一杯に 日射 ( ひざ ) しをあびているように、そのときは暖かい。
が目ざめてのち、ぼくはあのひとの 幻 ( まぼろし ) だけとともに、まわりはつめたい鉄の 壁 ( かべ ) にとりかこまれ 漸 ( ようや ) く生きている気がする。
ぼくみたいな男でも、かりにも日本の Delegation として戦うのだ。自分の全力の 砕 ( くだ ) けるまで闘わなければ済まない。 恋 ( こい ) なぞ、という個人的な感情は、 揚棄 ( アウフヘエベン ) せよ。それが、義務だという声もきこえる。それより、ぼくも 棄 ( す ) てたいと望んでいる。が、そう考えているときのぼくに、はや、あのひとの 面影 ( おもかげ ) がつきそっている。あのひとが、そう一緒に望んでくれる、と思うのだ。
これからのぼくは、一心に、あのひとを、どっかに 蔵 ( しま ) い 込 ( こ ) もう。日本に帰る日まで、一個人に立ち返れるまで、とこの言葉を 呪文 ( じゅもん ) として、ぼくは、もう、あのひとの片影なりとも、心に描くまい※
そう書いた、次の日の日記に、
※
かにかくに 杏 ( あんず ) の味のほろ苦く、舌にのこれる初恋のこと※もっと、ここに書くのも 気恥 ( きはず ) かしいほど、 甘 ( あま ) ったるい文句も書いてありました。で、ぼくは大切に、一々トランクの 奥底 ( おくそこ ) にしまい込んでいたのです。
ところが、ある日の午後、例によって、ベッドから、 脚 ( あし ) をぶらんぶらんさせ、トランクを台にして日記を書いていると、いま外に出たばかりの松山さんと沢村さんが、カッタアシャツ一枚で、ぬッと入って来ました。
ぼくは、あなたのことを、感傷的な形容詞で一杯、書き散らしていたところですから、なにか照れ 臭 ( くさ ) く、まごまごすると、 慌 ( あわ ) てて手帳をベッドの上の 網棚 ( あみだな ) に、 抛 ( ほう ) りあげ、そそくさ、部屋を出て行きました。
二十分程してから、もういないだろうと、 恐 ( おそ ) る恐る、 扉 ( とびら ) をあけると、松山さんは、ぼくのトランクに 腰 ( こし ) をかけたままでしたが、沢村さんは、ぼくの顔を見るや、立ち上がって、なにかを、ぼくの寝台に抛りあげ、そのまま、下段の自分のベッドに転がり、松山さんと、意味ありげに顔を見合せ、ぼくのほうを 振 ( ふ ) りかえります。
ぼくは、ばつが悪く、再び扉をしめ、出ようとすると、沢村さんが、「おい、 大坂 ( ダイハン ) 」と呼びとめました。「え」といぶかるぼくに、「ああ、ぼくはあの女が好きでたまらない、か」と、ぼくの日記の一節を手痛く、 叩 ( たた ) きつけた。続いて、松山さんが、にこりともせず、 怒 ( おこ ) ったような口調で、「あア、好きで好きでたまらない、か」と言いざま、二人とも、声のない 嘲笑 ( ちょうしょう ) を、ぼくの胸にねじこむような眼付で、ぼくの顔をみながら、ドアをばたんと、乱暴に閉め、足音高く、出て行きました。
ぼくはカアッとなり、 屈辱 ( くつじょく ) の思いにひかれ、ベッドの上から、紅いセエム革の手帳を、 鷲 ( わし ) 掴 ( づか ) みにし、一気に、階段をとんであがり、誰もいない、Cデッキの 蔭 ( かげ ) に行ってから、思いッきり手帳をとおくに投げつけました。
手帳は、空中で風を受け、 瞬間 ( しゅんかん ) 止まったようでしたが、ふっと 吹 ( ふ ) き飛ばされると、もう、 遥 ( はる ) かの船腹におちていました。 沸騰 ( ふっとう ) する飛沫に、 翻弄 ( ほんろう ) され、そのまま 碧 ( あお ) い水底に 沈 ( しず ) んで行くかと思われましたが、不意と、ぽッかり赤い表紙が 浮 ( うか ) び、浮いたり、沈んだり、はては紅い一点となり、消えうせ、太平洋の 藻屑 ( もくず ) となった。
オリンポスの果実
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