オリンポスの果実
田中英光 (Orinposu no kajitsu) | ||
四
やはり、あなたと初めてお 逢 ( あ ) いした晩のことは、はっきり 憶 ( おぼ ) えています。
例の、食事中にはネクタイをきちんと結べ、フォオクをがちゃつかすな、スウプを飲むのに音を立てるな、 頭髪 ( とうはつ ) に手を 触 ( ふ ) れるな、といった 食卓作法 ( テエブルマナア ) も、まだ出発して一週間にならない、あの 頃 ( ころ ) はよく守られていました。
そうした夕食後の 一刻 ( ひととき ) を、やはり 新人 ( フレッシュマン ) の 為 ( ため ) 、仲間はずれになっている、KOのフォアァの補欠で、銀座ボオイの 綽名 ( あだな ) のある、村川と、一等船客専用の A甲板 ( かんぱん ) を――Aデッキを練習以外には使うな、などという規則が守られていたのは、初めの二三日でした。――ぶらついていると、「オーイ、活動が一等の食堂にあるぞオ」と 誰 ( だれ ) かが 叫 ( さけ ) んで、四五人、 駆 ( か ) けて行きました。「行って見ようや」とぼくは村川を 誘 ( さそ ) い、KOの二番の 柴山 ( しばやま ) 、 補欠 ( サブ ) の河堀とも 一緒 ( いっしょ ) になって、デッキを降り、食堂に入って行きますと、映画は始まっていて、代表選手の練習を集めた実写物らしく女子選手のダイビングが、空中に美しい弓なりの 弧 ( こ ) を 描 ( えが ) いているところでした。
ぼく達、ボオトの場景が 最後 ( ラスト ) を 飾 ( かざ ) り、 観 ( み ) ていれば、 撮影 ( さつえい ) された覚えもある 荒川 ( あらかわ ) 放水路、 蘆 ( あし ) の 茂 ( しげ ) みも、 川面 ( かわも ) の 漣 ( さざなみ ) も、すべて 強烈 ( きょうれつ ) な 斜陽 ( しゃよう ) の逆光線に、 輝 ( かがや ) いているなかを、エイト・オアス・シェルの 影画 ( シルエット ) が、キラキラする水を 鋭 ( するど ) く切り、 凄 ( すさ ) まじい速さで、進んでゆくのでした。影画のようなオォルでも、上げれば、 水泡 ( すいほう ) と、 飛沫 ( しぶき ) が、同時に光ります。「いいなア」と誰かが 溜息 ( ためいき ) をついていました。 漕 ( こ ) いでいれば、あんなに 辛 ( つら ) いものでも、見ていれば 綺麗 ( きれい ) に違いありません。
映画が済んでから、またAデッキに出てみますと、太平洋は、けぶるような 朧月夜 ( おぼろづきよ ) でした。 霧 ( きり ) がすこしたれこめ、うねりもゆるやかな海面を、 眺 ( なが ) めながら、Bデッキヘの降り口にまで来たときです。甲板の反対側から、 廻 ( まわ ) ってきた、あなた達と、ぱったり一緒になってしまいました。 雀 ( すずめ ) のように 喋 ( しゃべ ) りあっているあなた達に、村川は、「どうぞお先に」とふざけて、言いました。女子ハアドルの内田さんが、先に進みでて、「おおきに」と 澄 ( す ) ましたお 辞儀 ( じぎ ) をしたので、あなた達は笑い 崩 ( くず ) れる。
そのとき、全く 偶然 ( ぐうぜん ) で、すぐ前にいたあなたに、ぼくが「活動みていたんですか」ときいた。あなたは 驚 ( おどろ ) いたように顔をあげて、ぼくをみた、 真面目 ( まじめ ) になった、あなたの顔が、月光に、青白く輝いていた。それは、童女の 貌 ( かお ) と、成熟した女の貌との 混淆 ( こんこう ) による 奇妙 ( きみょう ) な 魅力 ( みりょく ) でした。
みじんも 化粧 ( けしょう ) もせず、 白粉 ( おしろい ) のかわりに、健康がぷんぷん 匂 ( にお ) う清潔さで、あなたはぼくを 惹 ( ひ ) きつけた。あなたの言葉は 田舎 ( いなか ) の女学生丸出しだし、 髪 ( かみ ) はまるで、 老嬢 ( ろうじょう ) のような、ひっつめでしたが、それさえ、なにか 微笑 ( ほほえ ) ましい魅力でした。
あなたは、 薄紫 ( うすむらさき ) の 浴衣 ( ゆかた ) に、黄色い三尺をふッさりと結んでいた。そして、「ボオトはきれいねエ」と言いながら、 袖 ( そで ) をひるがえして 漕 ( こ ) ぐ 真似 ( まね ) をした。ぼくは別れるとき、「お名前は」とか、「なにをやって居られるんですか」とか、 訊 ( き ) きました。そしたら、あなたは、「うち、いややわ」と急に、 袂 ( たもと ) で、顔をかくし、笑い声をたてて、バタバタ駆けて行ってしまった。お友達のなかでいちばん背の高いあなたが、子供のように 跳 ( は ) ねてゆくところを、ぼくは、 拍子抜 ( ひょうしぬ ) けしたように、ぽかんと眺めていたのです。その 癖 ( くせ ) 、心のなかには、 潮 ( うしお ) のように、温かいなにかが、ふツふツと 沸 ( わ ) き、 荒 ( あ ) れ 狂 ( くる ) ってくるのでした。
船室に帰ってから、ぼくは大急ぎで、選手 名簿 ( めいぼ ) を引き出し、女子選手の 処 ( ところ ) を、探してみました。すると、あなたの顔ではありますが、全然、さっきの魅力を失った、ただの田舎女学生の、 薄汚 ( うすぎたな ) く取り澄ました、 肖像 ( しょうぞう ) が発見されました。そこに (熊本秋子、二十歳、K県出身、N体専に在学中種目ハイ・ジャムプ記録一 米 ( メエトル ) 五七)と出ているのを、何度も読みかえしました。なかでも、高知県出身とある偶然さが、 嬉 ( うれ ) しかった。ぼくも高知県――といっても、 本籍 ( ほんせき ) があるだけで、行ったことはなかったのですが、それでも、この次、お逢いしたときの、話のきっかけが出来たと、ぼくには嬉しかった。
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