University of Virginia Library

Search this document 

 1. 
 2. 
 3. 
 4. 
 5. 
 6. 
 7. 
 8. 
 9. 
 10. 
 11. 
 12. 
 13. 
 14. 
 15. 
 16. 
 17. 
 18. 
 19. 
 20. 
 21. 
 22. 
 23. 
 24. 
 25. 
 26. 
 27. 
  

  

 やはり、あなたと初めてお ( ) いした晩のことは、はっきり ( おぼ ) えています。

 例の、食事中にはネクタイをきちんと結べ、フォオクをがちゃつかすな、スウプを飲むのに音を立てるな、 頭髪 ( とうはつ ) に手を ( ) れるな、といった 食卓作法 ( テエブルマナア ) も、まだ出発して一週間にならない、あの ( ころ ) はよく守られていました。

 そうした夕食後の 一刻 ( ひととき ) を、やはり 新人 ( フレッシュマン ) ( ため ) 、仲間はずれになっている、KOのフォアァの補欠で、銀座ボオイの 綽名 ( あだな ) のある、村川と、一等船客専用の A甲板 ( かんぱん ) を――Aデッキを練習以外には使うな、などという規則が守られていたのは、初めの二三日でした。――ぶらついていると、「オーイ、活動が一等の食堂にあるぞオ」と ( だれ ) かが ( さけ ) んで、四五人、 ( ) けて行きました。「行って見ようや」とぼくは村川を ( さそ ) い、KOの二番の 柴山 ( しばやま ) 補欠 ( サブ ) の河堀とも 一緒 ( いっしょ ) になって、デッキを降り、食堂に入って行きますと、映画は始まっていて、代表選手の練習を集めた実写物らしく女子選手のダイビングが、空中に美しい弓なりの ( ) ( えが ) いているところでした。

 ぼく達、ボオトの場景が 最後 ( ラスト ) ( かざ ) り、 ( ) ていれば、 撮影 ( さつえい ) された覚えもある 荒川 ( あらかわ ) 放水路、 ( あし ) ( しげ ) みも、 川面 ( かわも ) ( さざなみ ) も、すべて 強烈 ( きょうれつ ) 斜陽 ( しゃよう ) の逆光線に、 ( かがや ) いているなかを、エイト・オアス・シェルの 影画 ( シルエット ) が、キラキラする水を ( するど ) く切り、 ( すさ ) まじい速さで、進んでゆくのでした。影画のようなオォルでも、上げれば、 水泡 ( すいほう ) と、 飛沫 ( しぶき ) が、同時に光ります。「いいなア」と誰かが 溜息 ( ためいき ) をついていました。 ( ) いでいれば、あんなに ( つら ) いものでも、見ていれば 綺麗 ( きれい ) に違いありません。

 映画が済んでから、またAデッキに出てみますと、太平洋は、けぶるような 朧月夜 ( おぼろづきよ ) でした。 ( きり ) がすこしたれこめ、うねりもゆるやかな海面を、 ( なが ) めながら、Bデッキヘの降り口にまで来たときです。甲板の反対側から、 ( まわ ) ってきた、あなた達と、ぱったり一緒になってしまいました。 ( すずめ ) のように ( しゃべ ) りあっているあなた達に、村川は、「どうぞお先に」とふざけて、言いました。女子ハアドルの内田さんが、先に進みでて、「おおきに」と ( ) ましたお 辞儀 ( じぎ ) をしたので、あなた達は笑い ( くず ) れる。

 そのとき、全く 偶然 ( ぐうぜん ) で、すぐ前にいたあなたに、ぼくが「活動みていたんですか」ときいた。あなたは ( おどろ ) いたように顔をあげて、ぼくをみた、 真面目 ( まじめ ) になった、あなたの顔が、月光に、青白く輝いていた。それは、童女の ( かお ) と、成熟した女の貌との 混淆 ( こんこう ) による 奇妙 ( きみょう ) 魅力 ( みりょく ) でした。

 みじんも 化粧 ( けしょう ) もせず、 白粉 ( おしろい ) のかわりに、健康がぷんぷん ( にお ) う清潔さで、あなたはぼくを ( ) きつけた。あなたの言葉は 田舎 ( いなか ) の女学生丸出しだし、 ( かみ ) はまるで、 老嬢 ( ろうじょう ) のような、ひっつめでしたが、それさえ、なにか 微笑 ( ほほえ ) ましい魅力でした。

 あなたは、 薄紫 ( うすむらさき ) 浴衣 ( ゆかた ) に、黄色い三尺をふッさりと結んでいた。そして、「ボオトはきれいねエ」と言いながら、 ( そで ) をひるがえして ( ) 真似 ( まね ) をした。ぼくは別れるとき、「お名前は」とか、「なにをやって居られるんですか」とか、 ( ) きました。そしたら、あなたは、「うち、いややわ」と急に、 ( たもと ) で、顔をかくし、笑い声をたてて、バタバタ駆けて行ってしまった。お友達のなかでいちばん背の高いあなたが、子供のように ( ) ねてゆくところを、ぼくは、 拍子抜 ( ひょうしぬ ) けしたように、ぽかんと眺めていたのです。その ( くせ ) 、心のなかには、 ( うしお ) のように、温かいなにかが、ふツふツと ( ) き、 ( ) ( くる ) ってくるのでした。

 船室に帰ってから、ぼくは大急ぎで、選手 名簿 ( めいぼ ) を引き出し、女子選手の ( ところ ) を、探してみました。すると、あなたの顔ではありますが、全然、さっきの魅力を失った、ただの田舎女学生の、 薄汚 ( うすぎたな ) く取り澄ました、 肖像 ( しょうぞう ) が発見されました。そこに (熊本秋子、二十歳、K県出身、N体専に在学中種目ハイ・ジャムプ記録一 ( メエトル ) 五七)と出ているのを、何度も読みかえしました。なかでも、高知県出身とある偶然さが、 ( うれ ) しかった。ぼくも高知県――といっても、 本籍 ( ほんせき ) があるだけで、行ったことはなかったのですが、それでも、この次、お逢いしたときの、話のきっかけが出来たと、ぼくには嬉しかった。