オリンポスの果実
田中英光 (Orinposu no kajitsu) | ||
十四
ロスアンゼルスヘの外港、サンピイドロの海は、 巨艦 ( きょかん ) サラトガ、ミシシッピイ等の船腹を銀色に光らせ、いぶし銀のように 燻 ( くす ) んでいました。 曇天 ( どんてん ) の 故 ( ゆえ ) もあって、海も街も、重苦しい感じでした。
ぼく 達 ( たち ) は、ロングビイチの近くにある、フォオド工場の提供してくれた、V8の新車八台に分乗して、工場の見学後、ロングビイチの合宿に着きました。
日本人のコックさんが、広島弁丸出しの 奥 ( おく ) さんと 一緒 ( いっしょ ) に、すぐ、久し 振 ( ぶ ) りの 味噌汁 ( みそしる ) で、昼飯をくわしてくれました。 娘 ( むすめ ) の花子さんは十五 歳 ( さい ) でしたか、 豊頬黒瞳 ( ほうきょうこくとう ) 、まめまめしく、ぼく達の 汚 ( よご ) れ物の 洗濯 ( せんたく ) などしてくれる、 可愛 ( かわい ) らしさでした。
翌日、マリンスタジアムに練習始め。ぼく達よりも、近所の 邦人 ( ほうじん ) の方々が、張り切って、自家用車で、練習場まで、送って下さるやら、スタンドに 陣取 ( じんど ) って 声援 ( せいえん ) して下さるやら、それよりも 騒 ( さわ ) いでくれたのが、 隣 ( となり ) 近所のメリケン・ボオイズ、ガアルズ達で、映画のアワア・ギャングもかくや、と思われる 顔触 ( かおぶ ) れが、 脱衣場 ( だついじょう ) にまで、入りこんで、パンツの世話まで、手伝ってくれるのには顔負けでした。
コオスは 掘割 ( ほりわり ) になっていて、流れは 殆 ( ほとん ) どありません。大体、二千 米 ( メエトル ) の長さしかなく、なんども、往復して練習をしました。すでに、ブラジル、英国、独逸、カナダ等、各国の選手達は集まっていて、 彼等 ( かれら ) の大きな 身体 ( からだ ) には、平均五尺八寸、十六貫六百のぼく達も、子供のように見えるほどでした。
それに、彼等が奥さんや、 恋人御同伴 ( こいびとごどうはん ) なのも、すぐ眼につきました。
しかし、ぼく達も、 隅田川 ( すみだがわ ) での恋人、「さくら」が、一足先きに 艇庫 ( ていこ ) に納まり、各国の競艇のなかに、 一際 ( ひときわ ) 、 優美 ( エレガント ) な 肢体 ( したい ) を 艶 ( つや ) やかに光らせているのをみたときは、なんともいえぬ、 嬉 ( うれ ) しさで、彼女のお腹を、ペたペたと 愛撫 ( あいぶ ) したものです。
ある国の選手達は、ロングビイチの海水浴場に入りびたり、ビイチ・パラソルの 蔭 ( かげ ) に、いかがわしい娘たちと、おおっぴらな 抱擁 ( ほうよう ) をしていたのを、見たこともあります。練習場の入口におしよせる観衆のなかから、 唇 ( くちびる ) と 頬 ( ほお ) の 真 ( ま ) ッ 紅 ( か ) な、 職業女 ( プロスチチュウト ) を呼びだして、近くの芝生でいちゃついていた、外国の選手達もみました。
微笑 ( ほほえ ) ましかったのは、米国のスカアル選手のダグラスさん、六尺八寸はあろうと思われる長身 巨躯 ( きょく ) が軽々と、左手にスカアル、右手に、美しい奥さんを 抱 ( だ ) いて、艇庫から、船台まで運び、そこで別れの 接吻 ( ベエゼ ) などしてから、お 互 ( たが ) いに、片手をあげては、スカアルの小さくなるまで、合図を 交 ( かわ ) していました。
独逸クルウの 誰 ( だれ ) かの 愛人 ( リイベ ) とみえる、一人のゲルマン娘は、いつも 毅然 ( きぜん ) としていて、練習時間には、 慎 ( つつ ) ましく、ひとり日蔭 椅子 ( いす ) に 坐 ( すわ ) り、編物か、読書に 耽 ( ふけ ) っていて、その 端麗 ( たんれい ) な姿にも、心打たれるものがありました。
然 ( しか ) し、ぼく達は、向うの新聞に、オォバアワアクであると、批評されたほど、 傍目 ( わきめ ) もふらずに練習を重ねるのでした。外国のクルウが、一、二回コオスを引いて、一日の練習を終るのに、ぼく達は午前中に四回、午後に四回とコオスを引き、それでも、隅田川にいた 頃 ( ころ ) に 較 ( くら ) べれば、軽すぎるほどでした。タイムは、それにも 拘 ( かかわ ) らず、遊んでいるような外国クルウに比し、全然、 劣 ( おと ) っておりましたが、ぼく達は、努力しすぎて負けることを、少しも 恥 ( はじ ) とせぬ 潔 ( いさぎよ ) い気持でした。ぼくも今は、ただ、ボオトを 漕 ( こ ) ぐことだけに夢中になれたのでした。
練習帰りのある日。いつもの様に、独りとぼとぼ、歩いていると、背後から、飛ばしてきた古色 蒼然 ( そうぜん ) たるロオドスタアがキキキキ……と止って、なかから、 噛 ( か ) み 煙草 ( たばこ ) を 吐 ( は ) きだし、 禿頭 ( はげあたま ) をつきだし、 容貌魁偉 ( ようぼうかいい ) な 爺 ( じい ) さんが、「ヘロオ、ボオイ」と 嗄 ( しゃが ) れた声で、呼びかけ、どぎまぎしているぼくを、自動車に乗れ、と 薦 ( すす ) めるのです。 遠慮 ( えんりょ ) なく、乗せて 貰 ( もら ) うと、 目貫 ( めぬ ) きの通りにドライブしながら、ぼくの胸にさした日の丸のバッジを 見詰 ( みつ ) め、「 俺 ( おれ ) は日本が好きだ。若いとき、船乗りだったから、横浜や、 神戸 ( こうべ ) に、 度々 ( たびたび ) 行ったよ。ゲイシャガアルは素晴しいね」とか言い、 皺 ( しわ ) くちゃの顔いっぱいに、歯の 疎 ( まば ) らな口を開け、笑ってみせます。とうとう、煙草の 脂臭 ( やにくさ ) い鼻息に閉口しながらも、親切な爺さんの 怪 ( あや ) し気な日本回想記をきかされ、 途中 ( とちゅう ) でアイスクリイムまで 奢 ( おご ) って貰い、合宿まで送り届けられたのでした。
こうして、ぼくはあなたのことを忘れ、 只管 ( ひたすら ) 、練習に精根を打ちこんでいた頃、日本から、初めての書簡に、接しました。
合宿前の日当りの 好 ( よ ) い 芝生 ( しばふ ) に、 皆 ( みんな ) は、円く坐って、黒井さんが読みあげる、 封筒 ( ふうとう ) の 宛名 ( あてな ) に「ホラ、 彼女 ( かのじょ ) からだ」とか一々、騒ぎたてていました。東海さんの 処 ( ところ ) へは、横浜で、テエプを交した女学生七人から、連名のファン・レタアも来たりしました。松山さんにも、シャ・ノアルの女給さんから、便りがあり、皆に冷かされて、嬉しそうでした。
その中、ぼくの名前でも一通、「おや、これは日本からとは 違 ( ちが ) うぞ」とぼくを見た、黒井さんの眼が、心なしか、光った気がしました。と、坂本さんが、ぼくの 肩 ( かた ) を 叩 ( たた ) き、「秋子ちゃんからじゃないか」と笑いながら、言います。皆の顔が、 一瞬 ( いっしゅん ) 、 憎悪 ( ぞうお ) に 歪 ( ゆが ) んだような気がしました。 我慢 ( がまん ) できないような 厭 ( いや ) らしい 沈黙 ( ちんもく ) のなかで、ぼくは手紙を受取ると、そのまま、宿舎に入り、便所に飛びこんで、 鍵 ( かぎ ) を降しました。
風呂場 ( シャワルウム ) と 兼用 ( けんよう ) になっている、その部屋で、ぼくは冷っこい便器に、 腰 ( こし ) を 掛 ( か ) けると、封筒を裏返してみました。ただ、K生より、となっています。ぼくはてっきり、あなたからだと信じこみ、胸 躍 ( おど ) らせ、封を切る手も、 震 ( ふる ) わせ、読み下して行くと、なんだ、がっかりしました。と言っては悪いでしょう。船で知り合った、中学の 先輩 ( せんぱい ) 、Kさんからの親切な 激励状 ( げきれいじょう ) だったのです。再び、表の芝生にでた、ぼくの顔は 蒼褪 ( あおざ ) めていたかも知れません。坂本さんから、また、「 大坂 ( ダイハン ) 、顔色変ったね」とひやかされました。
二三日 経 ( た ) って、午後の練習を終え、ヘンリイ山本君の運転する、ロオドスタアの 踏段 ( ふみだん ) に足を 載 ( の ) せ、合宿まで、帰ってくると、庭前の芝生に、花やかな色彩を 溢 ( あふ ) れさせた、女子選手の人達が、五六人、来ていて、先に帰ったクルウの連中に、囲まれ、 喋 ( しゃべ ) り合っているのが、ハッと眼につきました。ぼくは、もう、 途端 ( とたん ) に、自動車から、飛び降りたい位、気持が 顛倒 ( てんとう ) しました。
しかし、 直 ( す ) ぐ、あなたの来ていないのに気づくと、笑いかける内田さん、中村 嬢 ( じょう ) の顔にも答えず、 真 ( ま ) ッ 赧 ( か ) な顔をして、そのまま宿舎にとび 込 ( こ ) みました、と、後ろから、花やいだ笑い声が、追い駆けてきて、「ぼんち、秋っペがいないんで、 腐 ( くさ ) ってるのね」確か、中村嬢の声でした。続いて東海さんの 低音 ( バス ) が、小声でなにか言っています。また、なにかぼくの蔭口ではないかと、 焦々 ( いらいら ) している耳に、内田さんの声が、「熊本さん、この頃、とても、しょげているのよ。 可哀 ( かわい ) そうよ」「ぼんちのことで」と誰か女のひとが、 訊 ( き ) き返している様でした。ぼくは耳を 塞 ( ふさ ) ぎ、声を大にして、「 煩 ( うる ) さいッ」とでも、 怒鳴 ( どな ) りつけてやりたかった。続いて、聞えてきたのは、太い調子のひそひそ声で、なにか 陰険 ( いんけん ) な悪口か、 猥褻 ( わいせつ ) な批判らしく、無遠慮に 響 ( ひび ) いてくる高らかな皆の笑い声と共に、ぼくは 又 ( また ) 、すっかり 悄気 ( しょげ ) てしまったのです。
女の人達が帰ってから、ぼくの 狸寝 ( たぬきね ) をしている部屋に、松山さんと、沢村さんが入って来ました。松山さんは、 殊 ( こと ) の 他 ( ほか ) 、 御機嫌 ( ごきげん ) で、「村の祭が、取り持つ 緑 ( えん ) で――」という、 卑俗 ( ひぞく ) な歌を、口ずさんでいましたが、ぼくの寝姿をみるなり、「オリムピックが取り持つ縁で、嬉しい秋ちゃんとの仲になり」と歌いかえてから、沢村さんと顔見合せ、ゲラゲラ笑いだしました。ぼくは、 不愉快 ( ふゆかい ) そのもののような気持で、ベッドに 引繰 ( ひっく ) り返ったまま、眼を閉じていると、松山さんは、なおも、手近にあった通俗雑誌を手にとり、ぼくの横にわざと、ごろりと寝て、いかにも精力的らしい 体臭 ( たいしゅう ) をぷんぷんさせながら、雑誌をめくり、適当な 恋愛 ( れんあい ) 小説をみつけると、その一節を、こんな風に読みかえて、ぼくを 嘲弄 ( ちょうろう ) しようとしました。
「そう言うと、熊本秋子は、坂本の胸に深く顔をうずめた。その白いうなじに、坂本は 接吻 ( せっぷん ) したい 誘惑 ( ゆうわく ) を 烈 ( はげ ) しく感じたが、二人の 純潔 ( じゅんけつ ) のために、それをも差し 控 ( ひか ) えて、右の手を 伸 ( の ) ばし、 豊穣 ( ほうじょう ) な彼女の肉体を初めて抱きしめたのである」
ぼくは泣きだしたい気持でした。松山さんはなおも、 厭 ( いや ) らしく女の声色も使って、「『いやですわ。いやですわ』と秋子は 叫 ( さけ ) びながら、坂本の胸を両手でおしつけた。秋子の 薫 ( かお ) るような呼吸が感ぜられ、坂本は 悩 ( なや ) ましいほど幸福な気がした。
『今ではいけないのでしょうか』
『いいえ、日本にお帰りになってから』」
あえて、ぼくは神聖な愛情とは呼びません。しかし、子供めいたお 互 ( たが ) いの友情を、そんなふうに 歪曲 ( わいきょく ) して 弄 ( もてあそ ) ばれることは、 我慢 ( がまん ) できない腹立たしさでした。
オリンポスの果実
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