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十一

  ( おろ ) かにもその晩、ぼくはよく ( ねむ ) れませんでした。

 翌朝、いつもの様に、朝の 駆足 ( モオラン )

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をやっているときです。あのときのオリムピック 応援歌 ( おうえんか ) ( ) げよ日の丸、緑の風に、 ( ひび ) け君が代、黒潮越えて)その繰返し ( リフレイン )
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で、(光りだ、 ( はえ ) だ)と歌うべき ( ところ ) を、 ( みんな ) は、 禿 ( はげ ) さんと ( かげ ) で呼んでいる黒井コオチャアヘのあてこすりから、(光りだ、禿だ)と歌うのです。ぼくは黒井さんが好きでしたし、その若禿の ( ため ) に、 許婚 ( いいなずけ ) を失ったという、 噂話 ( うわさばなし ) もきかされているので、 ( うた ) う気にはなれません。

 と号令が速足進めに変り、「 ( オイチ ) ( ニッ ) ( オイチ ) ( ニッ ) 」と、黒井さんが調子を張り上げます。「四番、もっと手を振って」と注意され、ぼくは勢いよく ( うで ) を振り上げようとすると、 可笑 ( おか ) しなことに、手と足と 一緒 ( いっしょ ) に動き、 交互 ( こうご ) にならないのです。 ( たと ) えば、 右脚 ( みぎあし ) をあげると、自然に右腕が上がって、左腕が上がらないのです。無理に、互い違いに動かそうとすると、手が上がらなくなるばかりではありません。歩けなくなるのです。

 その 不恰好 ( ぶかっこう ) なざまは、 ( たちま ) ち、皆に発見され、どッと笑いものにされて ( しま ) いました。

( たの ) むぜ、おい、女の ( しり ) 追いかけるのもいいが、歩くのだけは一人前に歩いてくれよ」と森さん。「ボオトがろくに ( ) げもせんと思ったら、よう歩けもせんのか。それでもよう女だけ、出来るもんじゃ」と沢村さん。「貴様は、あまり女が好きだから、手も動かなくなるんじゃ。しっかり歩け。ぶち ( まわ ) すぞ」と松山さん。「やれやれ、なんと無器用かなア」と東海さん。等々。

 ぼくは、自分の神経が病気なのを、はっきり感じました。なんの ( ため ) に。 ( あか ) いセエム ( がわ ) がちらつく気持でした。 眩暈 ( めまい ) が起ればよかったのです。がぼくは、そのまま歩き続けました。その中、黒井さんも手の上がらないのを注意しなくなり、皆のぶツぶツ言うのも聞えなくなりました。

 その日は、バック台も棒引も、目茶苦茶でした。棒引はいつも、腕力のそう違わない沢村さんが相手なのに、その日は、力も段違いな松山さんが、前のバック台に ( すわ ) り、「ほれっ、引いてみろ」と 頑張 ( がんば ) り、木株のような腕を曲げ、鼻の穴を大きくして、 ( にら ) みつけます。その ( ひとみ ) には、むしろ敵意さえ感じられました。ちょッと ( なわ ) ( ゆる ) めてからパッと引くと訳ないのですが、それをやると、ひどく皆から ( おこ ) られ、 何遍 ( なんべん ) でも ( ) りなおしです。黒井さんが、「もう好い」と言うまで、ぼくは 油汗 ( あぶらあせ ) をだらだら流しづめでした。

 晩になって、 B甲板 ( かんぱん ) 捲揚台 ( ウインチ ) のまわりに、皆が集まっているので、行ってみると、 腕角力 ( うでずもう ) の最中でした。初め、KOの八郎さんと、十九歳の美少年上原――彼はぼく同様新人ですが、商工部のときから漕いでいるし、ボオトも上手で、皆から愛されていました。――の二人がやって、八郎さんが負けると、「うん、上原はなかなか強い。 ( おれ ) とやろう」と松山さんが節くれだった毛深い腕を出します。「いやア」と上原も顔負けしながら、やっていると、やはり、問題ではなく、松山さんが強い。

 松山さんは 機嫌 ( きげん ) よく、上原を ( ) めていましたが、ぼくと視線が合うと、忽ち、不機嫌な顔付になって、「おい、 大坂 ( ダイハン ) 、上原とやってみい。お前の方が一ツ 歳上 ( としうえ ) じゃないか」ときめつけます。ぼくは今朝以来、自信が、少しもないので、「いや、上原君のほうが強いですよ」とべそかき笑いをしますと、「ばか、貴様は、女の尻に ( ) いつくだけが、得意なんだな」と ( ののし ) り、 豪傑 ( ごうけつ ) 笑いしてから、上原なんかと行ってしまいました。

 周囲には、女の選手達、 ( こと ) にちびの中村さんも居ましたので、ぼくは完全に度を失い、立ち去ろうとすると、中村さんが、少女らしく、 ( そば ) にいる七番の坂本さんに、「ぼんちは 身体 ( からだ ) が大きいけれど、弱いの」と ( たず ) ねます。坂本さんは、ぼくをからかうように、「 大坂 ( ダイハン ) 温和 ( おとな ) しいもんな」と笑います。すると ( となり ) にいた沢村さんが、大きな声で、「青大将なのよ」とぼくのいちばん ( きら ) 綽名 ( あだな ) を呼んでから、気持よさそうに笑い出しました。「まあ、青大将」 ( だれ ) か、女のひとが、そう言って、くすッと笑うのに、 羞恥 ( しゅうち ) で消え入りそうになりながら、ぼくは ( ようや ) く、そこから ( ) げ出したのです。

 ひとりで、暗い海を ( しばら ) くみてから、 ( ) に帰ろうと、 喫煙室 ( きつえんしつ ) のなかを通り抜けていると、 一隅 ( いちぐう ) で沢村、森、松山、東海さん達が、 麻雀 ( マアジャン ) をやっていましたが、「おい、おい」と河村さんが、ぼくを呼びとめます。

 どうせまた、 嘲弄 ( ちょうろう ) されるとおもいましたが、知らん振りもできないので、近よると、「おい、さっき中村がお前のことを、ボンチと呼んでいたが、あれはお前の綽名か」とききます。「さアどうですか」と白ばっくれるのに、「どういう意味か、知ってるか」とニヤニヤ皆と目くばせしてから、 ( たず ) ねます。関西弁で、 ( ぼっ ) ちゃんという事じゃないですか、と正直に答えようと思いましたが、また反感を買ってもと思い、「知りません」と ( いささ ) かくすぐつたい返事をすると、横から、東海さんが、大声で、「あれは関西で、 白痴 ( はくち ) のことを言うんだよ」と言えば、沢村さんも、「そうとも、ボンチはつまりポンチと同じことじゃ。 阿呆 ( あほう ) のことをいうんだぞ」と大笑い。と、森さんが、したり顔で、「ああ、それで ( わか ) った。女の選手達が、 大坂 ( ダイハン ) のことをボンチとか、ボンボンとか呼んでいるのは、そういう意味か」と、言えば、松山さんも 荒々 ( あらあら ) しく、「 大坂 ( ダイハン ) よ、お前は ( ) れている女から、いつも馬鹿と呼ばれているんだぞ」と罵り、そこで皆から、ひとしきり嘲笑の雨。

 ぼくは、しばしポカンとしていましたが、 ( ) え切れなくなると、「そうですか」と一言。泣きッ ( つら ) をみられないようにまた暗い甲板に。

  ( もや ) の深い晩なので、Aデッキから、ボオト・デッキに上がり、誰にも見られず、 索具 ( さくぐ ) の蔭で悲しもうと、近づいて行くと、向うから、 靴音 ( くつおと ) がきこえて来た。

 やがて、靄の底から、ぼんやり現われたのは、立派な 白髯 ( しらひげ ) ( はや ) した、紅毛のお ( じい ) さんでした。ぼくのしょんぼりした姿をみると、にこにこ笑いながら「How do you do?」と太い声できく。外人と話し合うのは初めてでしたが、先方の好意が感ぜられて ( うれ ) しく、「Thank you, Sir. I'm very well,」と、サアをつけました。「That's good.」と、お爺さんは、重々しくうなずいて、「Are you a delegation of Japanese Olympic Team?」と尋ねます。「Yes, I am.」と言ってから、ニッコリ笑ってしまいました。すると、「What's team?」と ( ) いたような気がするので、「Boat Crew.」と答えますと、「What's?」と小首を ( かたむ ) けます。おや、間違ったかなと想い、出来るだけ 叮嚀 ( ていねい ) に、「Please say once more.」と頼むと、からから笑い、サッカアと ( ) 真似 ( まね ) をしたり、ボクシング、と ( なぐ ) る真似をします。やはりそうかと、 ( ほが ) らかになり、「I am a oarsman Rowing.」と漕ぐ恰好をすると、 大袈裟 ( おおげさ ) な身振りで、「Oh! I see. It's really splendid!」とぼくの ( かた ) ( たた ) いてから、顔を ( のぞ ) き込み、「What's the matter with you?」と気づかってくれる様です。こうなれば、なんでも叮嚀に言うに限ると思いましたから、「Thank you, Sir. Never mind, please. I am very glad to see you. How a lovely night!」とか、こんな靄の深い、 ( いや ) な晩なのも忘れ、お世辞をいいました。と、お爺さんは、またアッハーと笑い、「I think so, too.」と答えると、「O.K. boy, good night.」と笑い続け去って行きます。

 暫く、靴音が遠くなってから、とても若々しいハミングが、フウフウフフン、ウフフフフンとか ( きこ ) えて来ました。いつか佐藤が、食堂で、 亜米利加 ( アメリカ ) 人のハミングの真似をして、事務員に ( しか ) られた事を思い出し、ぼくの 出鱈目 ( でたらめ ) 英語も 可笑 ( おか ) しく、ぼくはプウと ( ) き出すと、すっかり気分がよくなって、寝に帰ったのです。

 しかし、翌日も、またその次の日も同じような皆の悪意が 露骨 ( ろこつ ) で、病的になったぼくの神経をずたずたに切り ( さい ) なみます。あなたに、 ( ) えないまま、海の荒れる日が、 桑港 ( サンフランシスコ ) に着くまで、続きました。