オリンポスの果実
田中英光 (Orinposu no kajitsu) | ||
五
翌朝から、ぼくは、あなたを、先輩達に言わせれば、まるで犬の様につけまわし出しました。船の頂辺のボオト・デッキから、船底のCデッキまで、ぼくは 閑 ( ひま ) さえあると、くるくる廻り歩き、あなたの姿を追って、一目遠くからでも見れば、満足だったのです。
その晩、B甲板の船室の 蔭 ( かげ ) で、あなたが 手摺 ( てすり ) に 凭 ( もた ) れかかって、海を見ているところを、みつけました。 腕 ( うで ) をくんで背中をまるめている、あなたの緑色のスエタアのうえに、お下げにした 黒髪 ( くろかみ ) が、 颯々 ( さつさつ ) と、風になびき、 折柄 ( おりから ) の月光に、ひかっていました。 勿論 ( もちろん ) ぼくには、 馴々 ( なれなれ ) しく、 傍 ( そば ) によって、声をかける 大胆 ( だいたん ) さなどありません。 只 ( ただ ) 、あなたの横にいた、柴山の 肩 ( かた ) を 叩 ( たた ) き、「なにを見てる」と 尋 ( たず ) ねました。それは、あなたに言った積りでした。柴山は、「海だよ」と答えてくれました。ぼくも 船板 ( ふなばた ) から、見下ろした。真したにはすこし風の強いため、 舷側 ( げんそく ) に 砕 ( くだ ) ける 浪 ( なみ ) が、まるで 石鹸 ( シャボン ) のように 泡 ( あわ ) だち、 沸騰 ( ふっとう ) して、飛んでいました。
次の晩、ぼくが、二等船室から 喫煙室 ( きつえんしつ ) のほうに、階段を 昇 ( のぼ ) って行くと、上り口の右側の部屋から、 溌剌 ( はつらつ ) としたピアノの音が、流れてきます。“春が来た、春が来た、野にも来た”と 弾 ( ひ ) いているようなので、そっとその部屋を 覗 ( のぞ ) くと、あなたが、ピアノの前にちんまりと腰をかけ、その傍に、内田さんが立っていました。
二人は、覗いているぼくに気づくと、顔を見合せ、花やかに、笑いだしました。その花やいだ笑いに、つりこまれるように、ぼくは、その部屋が男子禁制のレディスルウムであるのも忘れ、ふらふらと入り 込 ( こ ) んでしまいました。あなた達は、 怪訝 ( けげん ) な顔をして、ぼくを見ています。ぼくも入ったきり、なんとも出来ぬ、 羞恥 ( しゅうち ) にかられ、立ちすくんでしまった。
すると、あなた達はそそくさ、部屋を出て行きました。ぼくも、その後から、急いで 逃 ( に ) げだしたのです。
翌晩、船で、簡単な 晩餐会 ( ばんさんかい ) があって、その席上、選手全員の自己紹介が行われました。なにしろ元気一杯な連中ばかりですから、溌剌とした 挨拶 ( あいさつ ) が、食堂中に 響 ( ひび ) き 渡 ( わた ) ります。 槍 ( やり ) の 丹智 ( タンチ ) さんが女にしては、堂々たる声で、「槍の丹智で 御座 ( ござ ) います」とお 辞儀 ( じぎ ) をすると、TAをCHIと 聴 ( き ) き 違 ( ちが ) え 易 ( やす ) いものですから、男達は、どっと笑い出しました。ぼくには、大きな体の丹智さんが、 呆気 ( あっけ ) にとられ、 坐 ( すわ ) りもならず、立っているのが、その時には、ほんとうにお気の毒でした。いつもなら、 無邪気 ( むじゃき ) に笑えたでしょう。が、あなたの上に、すぐ考えて、それが 如何 ( いか ) にも、女性を 穢 ( けが ) す、許されない 悪巫山戯 ( わるふざけ ) に、思えたのです。
ぼくの番になったら、美辞 麗句 ( れいく ) を連ね、あなたに認められようと思っていたのに、 恥 ( はず ) かしがり屋のぼくは、口のなかで、もぐもぐ、 姓 ( せい ) と名前を言ったら、もうお 終 ( しま ) いでした。
あなたの番になると、あなたは、 怖 ( お ) じず 臆 ( おく ) せず明快に、「高飛びの熊本秋子です」と名乗って着席しました。ぼくには、その人怖じしない態度が好きだった。
それから何日、 経 ( た ) ったでしょう、ぼくはその間、どうしたらあなたと友達になれるかと、そればかりを考えていました。前にも言ったとおり、恥かしがりで 孤独 ( こどく ) なぼくには、なにかにつけ、目立った 行為 ( こうい ) はできなかった。
ある夜、船員達の 素人芝居 ( しろうとしばい ) があるというので、 皆 ( みんな ) 一等食堂に行き、すっかりがらんとしたあとぼくがツウリスト・ケビンの間を歩いていますと、 仄明 ( ほのあか ) るい 廊下 ( ろうか ) の 端 ( はず ) れに、月光に輝いた、実に 真 ( ま ) ッ 蒼 ( さお ) な海がみえました。と、その間から、ひょいと、あなたの顔が、覗いてひっこんだのです。ぼくは我を忘れ駆けて行ってみました。すると、手摺に 頬杖 ( ほおづえ ) ついた、あなたが、一人で月を 眺 ( なが ) めていました。月は、横浜を 発 ( た ) ってから大きくなるばかりで、その夜はちょうど 十六夜 ( いざよい ) あたりでしたろうか。太平洋上の月の 壮大 ( そうだい ) さは、 玉兎 ( ぎょくと ) 、銀波に映じ、といった古風な形容がぴったりする 程 ( ほど ) です。満々たる月、満々たる水といいましょうか。 澄 ( す ) みきった天心に、 皎々 ( こうこう ) たる 銀盤 ( ぎんばん ) が一つ、ぽかッと 浮 ( うか ) び、 水波渺茫 ( すいはびょうぼう ) と 霞 ( かす ) んでいる 辺 ( あた ) りから、すぐ眼の前までの一帯の海が、限りない 縮緬皺 ( ちりめんじわ ) をよせ、洋上一面に、金光が、ちろッちろッと走っているさまは、 誠 ( まこと ) に、もの 凄 ( すさ ) まじいばかりの景色でした。
ぼくは 一瞬 ( いっしゅん ) 、 度胆 ( どぎも ) を 抜 ( ぬ ) かれましたが、こんな景色とて、これが、あの背広を失った晩に見たらどんなにつまらなく見えたでしょうか。いわばあなたとの最初の 邂逅 ( かいこう ) が、こんなにも、海を、月を、夜を、 香 ( かぐ ) わしくさせたとしか思われません。ぼくは胸を 膨 ( ふく ) らませ、あなたを見つめました。
その夜のあなたは、また、 薄紫 ( うすむらさき ) の 浴衣 ( ゆかた ) に、黄色い三尺帯を 締 ( し ) め、髪を左右に編んでお下げにしていました。 化粧 ( けしょう ) をしていない、小麦色の 肌 ( はだ ) が、ぼくにしっとりとした、落着きを 与 ( あた ) えてくれます。顔つき合せては、恥かしく、というより、何も彼にもが、しろがね色に光り輝く、この 雰囲気 ( ふんいき ) のなかでは、 喋 ( しゃべ ) るよりも 黙 ( だま ) って、あなたと、海をみているほうが、 愉 ( たの ) しかった。
随分 ( ずいぶん ) 、長い間、 沈黙 ( ちんもく ) が続いた後で、ぽつんとぼくが、「熊本さんも、高知ですか」と 訊 ( たず ) ねました。あなたは 頷 ( うなず ) いてから、「坂本さんは、高知の、どこでしたの」と言います。「いや、高知は両親の生れた所ですけれど、まだ知りません。ずっと東京です」「そう。高知は良い国よ。水が 綺麗 ( きれい ) だし、人が親切で」「ええ、 聴 ( き ) いています。母がよく、話してくれます。ほら、よさこい節ってあるんでしょう」「ええ、こんなんですわ」とあなたは、 悪戯 ( いたずら ) ッ 児 ( こ ) のように、くるくる動く 黒眼勝 ( くろめがち ) の、 睫 ( まつげ ) の長い 瞳 ( ひとみ ) を、輝かせ、 靨 ( えくぼ ) をよせて 頬笑 ( ほほえ ) むと、 袂 ( たもと ) を 翻 ( ひるが ) えし、かるく 手拍子 ( てびょうし ) を打って『土佐は良いとこ、南を受けて、 薩摩颪 ( さつまおろし ) がそよそよと』と小声で歌いながら、ゆっくり、 踊 ( おど ) りだしました。
ぼくが 可笑 ( おか ) しがって、 吹出 ( ふきだ ) すと、あなたも声を立てて、笑いながら、『土佐の高知の、 播磨屋 ( はりまや ) 橋で、 坊 ( ぼう ) さん、 簪 ( かんざし ) 、買うをみた』と 裾 ( すそ ) をひるがえし、 活溌 ( かっぱつ ) に、踊りだしました。文句の 面白 ( おもしろ ) さもあって、踊るひと、 観 ( み ) るひと共に、大笑い、天地も、 為 ( ため ) に笑った、と言いたいのですが、これは白光 浄土 ( じょうど ) とも呼びたいくらい、 荘厳 ( そうごん ) な月夜でした。
しかし、その月光の 園 ( その ) の 一刻 ( ひととき ) は、長かったようで、 直 ( す ) ぐ終ってしまいました。それは、あなたの友達の内田さんが、船室の蔭から、ひょッこり姿を、現わしたからです。内田さんも、あなたの様子にニコニコ笑って来るし、ぼく達も、笑って 迎 ( むか ) えましたが、ぼくにとっては月の光りも、一時に、 色褪 ( いろあ ) せた気持でした。
オリンポスの果実
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