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二十七
  

  

二十七

 そうして、横浜に着きました。

  朝靄 ( あさもや ) を、 微風 ( びふう ) ( ) いて、さざら波のたった海面、くすんだ緑色の島々、 玩具 ( おもちゃ ) のような 白帆 ( しらほ ) 伝馬船 ( てんません ) 、久し ( ) りにみる故国日本の姿は 綺麗 ( きれい ) だった。 ( かもめ ) とびかう 燈台 ( とうだい ) のあたりを ( ) けて、船が 岸壁 ( がんぺき ) に向おうとすると、すでに、 満艦飾 ( まんかんしょく ) をほどこした 歓迎船 ( かんげいせん ) が、 数隻 ( すうせき ) 出迎えに来てくれていました。

  埠頭 ( バンド ) を埋めた黒山の群衆のなかから、日の丸の旗がちらちら見えるのに、負けてきた、という 感慨 ( かんがい ) が、 今更 ( いまさら ) のように 口惜 ( くや ) しく、済まないなアと ( ) みあげて来ました。

 もはやどやどやと上がりこんで来た連中で、 甲板 ( かんぱん ) 一杯 ( いっぱい ) になり身動きもできません。新聞記者さんが一人、二人、ぼくのような者にまでインタアビュウに来てくれるのでした。

 しかし色んな事で上気してしまっているぼくには、話といっても別に出来ませんでした。が、その翌日の地方版をみると勇ましく片手を挙げたぼくの写真の下に、※

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坂本君は語る※
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として次の様な記事が出ていました。

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オォルの折れる ( まで ) ( うで ) の折れる迄もと思い全力を挙げて戦って参りましたが武運 ( つた ) なく敗れて故郷の 皆様 ( みなさま ) 御合 ( おあわ ) せする顔もありません。 ( ただ ) 、心配なのは今度の戦績で、今後日本人がボオトに ( おい ) て、果してどれだけの 活躍 ( かつやく ) が出来るかと危ぶまれることです。この上は、四年後のベルリンに備えて、明日からでも不断の精進を続け、必ず今日の無念さを晴らしたいと存じます※
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 ぼくは、ぼくの気持通りに書いてくれた、記者さんの御好意に感謝はしましたものの、今更のようにジャアナリズムの 魔術 ( まじゅつ ) ( あき ) れたものです。ぼくの寸言も真実、 ( しゃべ ) ったものではありませんでした。

 さて、横浜に着く迄に、あなたに ( ) いておきたかった一言は、やはり、「あなたはぼくが好きですか」でありました。その返事を聞けなかった事がぼくの心残りだと、この手記の始めに思わせ振りに書いて置きました。 ( しか ) し、聞いたからとて今思えばなんになろう。今になって残っているのは言葉でも肉体でもなく、ただ愛情の周囲を歩いた ( おも ) い出だけです。今のあなたにはお ( ) いしたくない。

 あのとき、帰りの船であなたがぼくの啄木歌集の余白に書いて下さった言葉を覚えています。

 ※

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( ) きの船ではずいぶん 面白 ( おもしろ ) 御一緒 ( ごいっしょ ) に遊んで頂きましたわ。 真珠 ( しんじゅ ) ( ゆめ ) のように一生忘れられない思い出になりましょう。日本に帰りましたら是非お遊びにいらして下さい。寄宿舎の 豚小屋 ( ぶたごや ) に※
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 そして、その ( ペエジ ) のすぐ裏には、レスラア 某氏 ( ぼうし ) の書いてくれたこんな文句がありました。

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[47]
世界は酒と女と金※
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[48]

 横浜 ( おき ) で歓迎船が見えだしてから、ぼくは ( あわ ) てて、あなたの写真を内田さんと一緒に ( ) らせて ( もら ) いました。あなたの 衣裳 ( いしょう ) も顔も ( しわ ) くちゃにレンズのなかにぼけて写っていました。あなたの顔は往きの船の健康さにひきかえ、 ( うれ ) いの ( かげ ) で深く ( くも ) っていました。ぼくはそれをぼくへの愛情の ( ため ) かと手前勝手に解釈していたのです。

 帰朝して三日目、高知県主催の歓迎会が丸の内の中央会館でありました。あなたも同じ高知県なので、 勿論 ( もちろん ) お逢いできると思い、慌てて道を歩き交通 巡査 ( じゅんさ ) ( しか ) られるほどの興奮の仕方で出席しました。しかし、 面窶 ( おもやつ ) れしているあなたにお逢いしても、やはりなんにも話せませんでした。

  ( ただ ) 、エレベエタアを一緒の ( はこ ) で、 身体 ( からだ ) ( ) れ合って降りたときと、 挨拶 ( あいさつ ) 壇上 ( だんじょう ) に登る際、降りて来たあなたと ( ) れちがったときとが、限りなく苦しかった。

 帰って ( とこ ) に入り目をつむっていると、あなたが船のなかでボクサアのIさんとピンポンをしているときの姿態が ( うか ) んできた。あなたはとてもピンポンが上手で、それだけ 汗塗 ( あせまみ ) れになってやっていた。 ( うす ) 肌着 ( はだぎ ) がぴったりくっつき、あなたの肉体の線が ( あら ) わにみえていました。

 そのうちどうした 機勢 ( はずみ ) か、Iさんの強打した直球が、あなたのスカアトから股の間に飛びこんだら、皆もドッと笑ったけれど、あなただけいつまでも体をつぼめて、ヒステルカルに 癇高 ( かんだか ) く笑い続けていました。

 笑いが止まるとあなたは直ぐ、 真紅 ( まっか ) な顔になって、部屋に帰ってしまいましたが、そのときぼくがあなたを ( なぐ ) りつけたい腹立たしさで、 一隅 ( いちぐう ) から笑いもせずに ( にら ) みつけていたのを御存知ですか。

 ぼくはあなたへの愛情に、肉体を考えたことがないと前にも書きました。帰朝してから 随分 ( ずいぶん ) 色んな歓迎会も ( もよお ) して頂き、酔ったあとで友達同士、女遊びをする機会も多かったのですが、ぼくはどんな場合でも、芸者なり商売女に、「ぼくにはだいじな ( ひと ) がいるから、悪いけれど気にしないで」とまともな顔で断って、指一本、 彼女達 ( かのじょたち ) に触れたことはありませんでした。

 帰って ( しばら ) くして、銀座のシャ・ノアルにクルウが ( そろ ) って行ったことがあります。初めに書いた、 ( かつ ) てぼくの 童貞 ( どうてい ) とやらに興味を持ったN子という女給もいれば、松山さんも沢村さんの女達もいるカフエでした。ぼく達が入って行くと、マスタアが挨拶に来るは、女給が総出で取り巻くは、大変なものでした。

 ぼくはその ( ころ ) むやみに酒を飲むようになっていましたから、一人でがぶがぶと ( あお ) り、手近に ( すわ ) っていた京人形みたいな女給をちょっと好きになって、「君の名前は」とか訊いているうち、いきなり背後から生温かい ( うで ) がペたっと ( くび ) のまわりに巻きつきました。 振返 ( ふりかえ ) ると 熱柿 ( じゅくし ) みたいな ( にお ) いをぷんぷんさせたN子です。「聞いたわよ、坂本さん、船のなかで女のひとと ( すご ) かったんですッてねエ」「ああ」とぼくは素直です。「こんなお ( ばあ ) ちゃんじゃ、 ( きら ) い」とN子はぼくの頸にぶら下がったまま、ぼくの ( ひざ ) に坐り、 白粉 ( おしろい ) と紅の顔をぼくの胸におしつけます。

 実をいうとぼくは肉体の快感もあって、こういう 酩酊 ( めいてい ) 為方 ( しかた ) ( ) いなあ、と思いかけていましたが、便所に立った ( とら ) さんが帰って来て、「オイ表に出てみろよ、大変な 貼出 ( はりだ ) しが出ているぜ、ハッハッハ」と 豪傑 ( ごうけつ ) 笑いをするので、清さんと一緒に出てみますと、入口に立てかけた大看板に(只今オリムピックボオト選手一同御来店中)と 墨痕 ( ぼっこん ) ( あざ ) やかに書いてあります。

 しばらく 唖然 ( あぜん ) と突っ立っていたぼくは、折から身体を ( ) して行く銀座の 人混 ( ひとご ) みに ( もま ) れ、段々、酔いが覚めて白々しい気持になるのでした。もうそのまま、帰りたくもなりましたが、皆で来ているのでそれもならず、再び店内に入ると、もはや、ほろ苦くなった酒を ( あお ) るのも ( ) めてしまった。間もなく、マスタアが出て来て、「お写真をとらせて下さい」という。酔払った連中は、二つ返事で 銘々 ( めいめい ) 美女を 相擁 ( あいよう ) し、 威勢 ( いせい ) よくシャムパングラスを左手に ( ささ ) げ立った ( ところ ) を、ポッカアンとマグネシュウムが ( はじ ) けて一同、写真に撮られてしまいました。

  所詮 ( しょせん ) 、だらしのないぼくが、そんなにも女色が ( きら ) いだったというのは ( ひと ) えに、あなたからの手紙の御返事を待っていたからです。

 県人会でお逢いした翌日、ぼくは横浜へ着いた日に撮ったあなたの写真を、すぐあなたの寄宿舎のほうへ送っておきました。 勿論 ( もちろん ) 、あなたの 御迷惑 ( ごめいわく ) を考え、あっさりした御手紙を ( ) えておいたのですが、きっと返事が来るだろうと信じていました。返事が来れば、それからお付合をして、 ( ある ) いは結婚が出来るかとも思っていました。

 ぼくはその夏、 鎌倉 ( かまくら ) の家へ行っていました。

 毎日、 夕暮 ( ゆうぐれ ) になるとあなたからの手紙が 廻送 ( かいそう ) されているような気がして、姉の子をおぶい、散歩に出た 浜辺 ( はまべ ) から、 ( いの ) るような気持で、姉の家に帰って行ったものです。

  相模 ( さがみ ) の海の夕焼け空も、太平洋の夕照とかわりありません。 到頭 ( とうとう ) あなたの手紙は来なかった。

 それから間もなく、ぼくは兄の指導下に、学内のR・Sを手始めとして、段々本格的な 左翼 ( さよく ) 運動へと走って行きました。続いて学内サアクルの検挙、一人の母を ( ) てて地下へ、工場へ。ストライキから ( つか ) まって転向、というヤンガアジェネレェション一通りの経過をへたぼくが、 狂熱 ( きょうねつ ) 的な文学青年になったのは、オリムピックの翌々年の春でした。

 なにより先に、あなたとの思い出が書きたく、すでに書き ( ) めの 原稿紙 ( げんこうし ) も五六十枚になった頃、 偶然 ( ぐうぜん ) 、新宿の一食堂で、中村さんに逢いました。

 暫く見ないうちにすっかり大人になった、来年はまた 伯林 ( ベルリン ) に行けると張切っていた中村さんから、 ( ) ず、あなたが中国辺の女学校で、体操の先生をしているとの話を聞きました。同時に、内田さんが有名なスポオツマンの某氏と、 恋愛 ( れんあい ) 結婚をしたとの話を聞きました。

 そのときの 衝動 ( しょうどう ) は強く、帰ってから直ぐ書きかけの原稿紙を全部、破ってしまいました。こんな興奮するようでは、 ( ) だとても書けないと ( あきら ) めたからです。

 次の年、 徴兵 ( ちょうへい ) 検査で、 本籍 ( ほんせき ) のある高知県に帰ったとき、 特殊 ( とくしゅ ) 飲食店を開いている 伯父 ( おじ ) さんから商売 ( がら ) 廃娼 ( はいしょう ) 反対演説を聞いたあと、こっちも一杯 機嫌 ( きげん ) で、あなたの話をほのめかすと、伯父さんは、「熊本秋子さんなら直ぐ、 隣町 ( となりまち ) の床屋の ( むすめ ) さんじゃきに、伯父さんもよう知っとるし、本当におまはんがその気なら、じき話を決めるがのうし」と大乗気になられ、 ( かえ ) って 此方 ( こちら ) 辟易 ( へきえき ) しました。

 それよりも去年の暮、 出征 ( しゅっせい ) していた頃、 北京 ( ペキン ) 郊外 ( こうがい ) 豊台駅前のカフェに入った処が、高知県出身の女給さんばかりが多くいて、あなたの ( うわさ ) が、偶然オリムピックの話から出たのには驚きました。あなたと同じ女学校で三年下だったという 其処 ( そこ ) のある女給さんは、なかなか色白 細面 ( はそおもて ) の美人でしたが、あなたのことを「とてもすらりとした 可愛 ( かわい ) いお方でしたわ」とお世辞を言っていました。

 そうして、ぼく達のグルウプの人々は――。

 帰朝して間もなくインタアカレッジで ( ) がされたエキジビジョンの風景を想い出します。

  真紅 ( しんく ) のオォルに真紅のシャツ。みんな 出立 ( いでた ) ちは 甲斐々々 ( かいがい ) しく、ラウドスピイカアも、「これより、オリムピック・クルウの 独漕 ( どくそう ) があります」と 華々 ( はなばな ) しく放送してくれたのでしたが、 橄欖 ( かんらん ) ( みど ) りしたたるオリムピアがすでに ( むかし ) に過ぎ去ってしまった 証拠 ( しょうこ ) には、みんなの面に、身体に、帰ってからの 遊蕩 ( ゆうとう ) 、不節制のあとが歴々と刻まれ、 ( くも ) り空、どんより ( にご ) った 隅田川 ( すみだがわ ) を、 ( てい ) ( ) れるしオォルは揃わぬし、外から見た目には 綺麗 ( きれい ) でも、ぼくには早や、 落莫 ( らくばく ) 蕭条 ( しょうじょう ) の秋となったものが感ぜられました。

 そうして二三年 ( ) ってから。

『若き君の多幸を祈る』と啄木歌集の余白に書いてくれた美少年上原が、女に身を持ち ( くず ) し、下関の旅館で自殺をしたときいた。銀座ボオイの 綽名 ( あだな ) があった村川が、お ( めかけ ) 上がりのダンサアと心中して一人だけ生残ったとの噂もきいた。

 沢村さんは 満洲 ( まんしゅう ) へ、松山さんはジャワヘ、森さんは 北支 ( ほくし ) 、七番の坂本さんはアラスカヘと皆どこかへ行ってしまった。

 東海さんは昨年、戦地で逢いました。 補欠 ( サブ ) の佐藤は戦死したと聞きました。

 戦地で、 覚悟 ( かくご ) を決めた月光も明るい晩のこと、ふっと、あなたへ手紙を書きましたが、やはり返事は来ませんでした。

 あなたは、いったい、ぼくが好きだったのでしょうか。