オリンポスの果実
田中英光 (Orinposu no kajitsu) | ||
八
横浜を出てから一週間も 経 ( た ) った 頃 ( ころ ) 、朝の練習が済むと、 B甲板 ( かんぱん ) に、全員集合を命ぜられました。役員のひとりで、 豪放磊落 ( ごうほうらいらく ) なG博士が 肩幅 ( かたはば ) の広い 身体 ( からだ ) をゆすりあげ、設けの席につくと、みんなをずっと 見廻 ( みまわ ) したのち、
「諸君。ぼくはこんなことを、日本選手でもあり、立派な 紳士 ( しんし ) 、 淑女 ( しゅくじょ ) でもある 皆 ( みな ) さんに、お話するのは、じつに残念であるが、 止 ( や ) むを得ん。とにかく、本日 只今 ( ただいま ) から、男子と女子の交際は、絶対にこれを禁止する。
遊ぶのは 勿論 ( もちろん ) ならんし、話をしても 不可 ( いか ) ん。今後、この規則を破るものがあったら、発見次第それぞれの所属チイムの責任者によって、処分して 貰 ( もら ) う。 尚 ( なお ) 、その程度によっては、ホノルルなり、サンフランシスコなりに、船が着いたら、下船させてしまうぞ。スポオツマンとしての資格の欠けるものに、日本は選手として、出場して貰いたくないのだ」
日頃、太ッ腹な氏としては、 珍 ( めずら ) しく、話すのも 汚 ( けが ) らわしいといった 激越 ( げきえつ ) ぶりでした。ぼくにしてみれば、話の最中ふりかえって 此方 ( こちら ) をみる、クルウの 先輩達 ( せんぱいたち ) もいるし、それでなくとも、氏の一言一句が、ただ、ぼくに向っての 叱声 ( しっせい ) に聞え、かあッと、あがってしまうのでした。氏は語をついで、
「だいたい、この前のアムステルダム行の時は、このことを 怖 ( おそ ) れ、男子船と女子船とを別々に立たせたものだ、今回も前に比べれば、人数も増えているし、万一のことがあってはと心配して『男女七歳にして席を同じうせず』式の議論から、別々に立たせるのを主張する人もあったが、ぼくは、『厳粛なる自由』 ( スタアンリバティ ) を 称 ( とな ) え、笑って、その議論を 一蹴 ( いっしゅう ) した。諸君、もう一度、君達の胸のバッジをみたまえ。 光輝 ( こうき ) ある日の丸の下に、書かれた Japanese Delegation の文字は、 伊達 ( だて ) では、ねエんだろ。 俺 ( おれ ) は今朝、ある 忌 ( いま ) わしい場面を、この船の事務員が見たとか、いう話をきいたときは、初めは話のほうが信用できなかった。 否 ( いや ) 、今でも、そんな話は信用しとらん。
しかし、こういっただけで、 若 ( も ) し、その事実ありとしても、その当人達は、 充分 ( じゅうぶん ) 、 自戒 ( じかい ) してくれると思う。 頼 ( たの ) むから諸君、二度と俺にこんなことを、言わさないでくれ。終りッ」
そういい 棄 ( す ) てると博士をはじめ、幹部連はさっさと 引揚 ( ひきあ ) げてしまいましたが、そうなると、今度はかえって、あとの 騒 ( さわ ) ぎが大変。どこにでもいる 噂 ( うわさ ) 好きな人達が、大声で、見てきたような 嘘 ( うそ ) をいいあったり、 猥褻 ( わいせつ ) な想像をしあっては喜んでいる。そのなかで、ぼく一人、また一人ぼッち、 茫然 ( ぼうぜん ) と身動きもできませんでした。
ボオトの連中はてっきり、ぼくとあなたをこの 醜聞 ( スキャンダル ) にあて 嵌 ( は ) めてしまったのでしょう。森さんなんかは血相かえ、「俺達のなかで、困るのは、まあ 大坂 ( ダイハン ) 一人位のものだな」と皮肉をいいます。松山さんは、「 大坂 ( ダイハン ) だけ困るんじゃねえぞ。ボオト部全体の 恥 ( はじ ) だからな」とぼくを 睨 ( にら ) みつけます。と、東海さんが、「Gさんも、ああ言うんだし、皆でよく今後を打合せたらどうだい」と横目でぼくを見ながらいう。日頃、 寡黙 ( かもく ) なKOの主将、八郎さんまで、「よかろう」と積極的に 嘴 ( くちばし ) をだします。結局、それからぼくの査問会らしきものが、皆で開かれることになりました。
尤 ( もっと ) も、あとで考えると、G博士のいった醜聞は、子供ッぽいぼく等の友情などは、問題としておらず、先夜、ある男女が、ボオト・デッキの 蔭 ( かげ ) で、 抱擁 ( ほうよう ) し合っていたのを、船員にみられたという噂からだったのを、すでに連中は知っていたかとも思われますが――。
皆はぞろぞろ二等のサロンに入りました。ぼくは、勢い、衆目の帰する 処 ( ところ ) です。 出帆 ( しゅっぱん ) 前からの神経異常が、あなたとの 愉 ( たの ) しい交わりに、 紛 ( まぎ ) らわされてはいたが、こうした場合一度に出て来て、頭の 芯 ( しん ) は重だるく、気力もなくなり、なにをいわれても聞いてはいずに 肯 ( うなず ) くばかりでした。
ぼくは前から、左側の 瞼 ( まぶた ) だけが 二重 ( ふたえ ) で、右は一重瞼なのです。それを両方共、二重にする 為 ( ため ) には、眼を大きく上に 瞠 ( みは ) ってから、パチリとやれば、右も二重瞼になる。それを、あなたと 逢 ( あ ) う前には、よくやって、顔を 綺麗 ( きれい ) にしようと思ったものです。その 癖 ( くせ ) がちょうど、皆から査問を受けている最中、ひょっくり出て、 瞳 ( ひとみ ) をパチリと動かす。
と、森さんが、「おい 大坂 ( ダイハン ) 、 止 ( よ ) さんか」と真ッ赤になって怒りだした。しまった。ぼくは取返しのつかない思いにうつむく。と、「どうしたんだ」松山さんが、 面白 ( おもしろ ) がり、声を荒げて聞いた。森さんが「 否 ( いや ) 、 厭 ( いや ) らしいッたら、ありゃしない。 此奴 ( こいつ ) ったら」と、ぼくのほうを 顎 ( あご ) でしゃくって、「ウインクの 真似 ( まね ) をしてやがるんだ。こんなにしてな」と、さも厭らしく 三白眼 ( さんぱくがん ) をむいてみせます。「ハハア、それがウインクてんだな。新式の――」と 補欠 ( サブ ) の佐藤が、 憎 ( にく ) らしく、お 節介 ( せっかい ) な口を出すと、皆がどッとふきだしました。
その笑いのなかで、ぼくはもう死にたい、という気がする 程 ( ほど ) 、弱虫でした。まだ、松山氏は、沢村さんに向って、「こんなにするんだとよ。気味が悪い」とやって見せています。こんなふうに、皆から 扱 ( あつか ) われるのには慣れていますが、あなたのことが、有るだけに、たまらなかったのです。
結局さんざん 嘲弄 ( ちょうろう ) されてから、解放されましたが、それからまた、バック台練習は、以前のように 口喧 ( やかま ) しく、先輩達から 怒鳴 ( どな ) られるようになるし、怒鳴られるほど、またギゴチなくなって行きました。
こう書くと、いかにもぼくが、弱々しいだけに見えますが、先輩達だとて、ぼくが本当に弱く降参しきっていれば、あれ 迄 ( まで ) いじめなかったでしょう。加えて、ぼくには、文学少年にありがちな 孤独癖 ( こどくへき ) がありました。それも生意気だとか、図々しいとか見られていたのでしょう。実際、図々しい処もありました。あなたから、この手記の初めに書いた、 杏 ( あんず ) の実を貰ったのは、その問題があった日の昼のことでしたから――。
とにかく、その日の昼は、もうあなたと遊べなくなった淋しさと、 口惜 ( くや ) しさから、 殆 ( ほとん ) ど飯も食べずに、トレイニング・パンツに 着更 ( きが ) え、 誰 ( だれ ) もいないB甲板をうろついていると、ひょッくりあなたと小さい中村 嬢 ( じょう ) に逢いました。
中村さんは、小さい 唇 ( くち ) をとがらせ、「うち、つまらんわア、もう男のひとと、遊んではいけない言うて、 監督 ( かんとく ) さんから説教されたわ。おんなじ船に乗ってて、口 利 ( き ) いてもいかん、なんて、 阿呆 ( あほ ) らしいわ」ぼくも、 合槌 ( あいづち ) うって「すこし、変ですね」と言えば、あなたも「ほんとうにつまらんわア」中村嬢は、 益々雄弁 ( ますますゆうべん ) に「ほんとに 嫌 ( いや ) らし。山田さんや高橋さんみたいに、 仰山 ( ぎょうさん ) 、 白粉 ( おしろい ) や紅をべたべた 塗 ( ぬ ) るひといるからやわ」と、なおも小さな唇をつきだします。ぼくは 只 ( ただ ) 、中村さんに 喋 ( しゃべ ) らしておいて、心のなかでは、つまらない、つまらない、と言い続けていました。
やがて、あなたは、 剽軽 ( ひょうきん ) に、「こんなにしていて、見つけられたら大変やわ、これ上げましょ」と、ぼくの 掌 ( てのひら ) に、よく 熟 ( う ) れた杏の実をひとつ 載 ( の ) せると、二人で船室のほうへ 駆 ( か ) けてゆきました。ぼくも、杏の実を 握 ( にぎ ) りしめ、くるくると 鉄梯子 ( てつばしご ) をあがって、 頂辺 ( てっぺん ) のボオト・デッキに出ました。
太平洋は、日本晴の上天気。雲も波もなく、ただ一面にボオッと、青いまま 霞 ( かす ) んでいます。ぼくは、 手摺 ( てすり ) に 凭 ( もた ) れかかって、杏を食べはじめました。 甘酸 ( あまず ) っぱい実を、よく 眺 ( なが ) めては、食べているうち、ふっと瞼の裏が、熱くなりました。食いおわった杏の種子を、陽にかがやく海に、 抛 ( ほう ) ろうとしてから、ふと思い直し、ポケットのなかに、しまいこみました。
しばらく海をみてから、もう練習かなと、Bデッキを 瞰下 ( みおろ ) すと、皆はまだ 麻雀 ( マアジャン ) でもしているのでしょう。甲板にいるのはデッキ・チェアに寄りかかったあなたと、船客で 羅府 ( ロスアンゼルス ) 行の第二世のお嬢さんだけ。二人で、なにか仲良さそうに話している。こちらは、 莫迦 ( ばか ) みたいに、 頬笑 ( ほほえ ) んで、瞰下していると、あなたは、 直 ( す ) ぐ気づき、上をむいて、にっこりした。 隣 ( となり ) のお嬢さんも、おなじく見上げる。ぼくは、視線のやりばに困るから、船尾のほうを眺めるふりをしている。とまもなく、第二世のお嬢さんは、眼をつむり、 寝 ( ね ) てしまっている様子です。
思いきって、ぼくが合図に、右手を高くあげると、あなたも右手をあげて 振 ( ふ ) る。ほんとうに、片眼をおもいッきり、つぶってウインクをしてみる。あなたの顔は、笑いだす。ぼくも、だらしなくにこにこします。
一瞬 ( いっしゅん ) 、船は 停 ( とま ) り、時も停止し、ただ、この上もなく、じいんと 碧 ( あお ) い空と、碧い海、暖かい碧一色の空間にぼくは 溶 ( と ) け込んだ気がしたが、それも 束 ( つか ) の 間 ( ま ) 、ぼくは誰かにみられるのと、こうした幸福の持続が、あんまり 恐 ( おそろ ) しく、身体を 翻 ( ひるが ) えし、バック台の方へ 逃 ( に ) げて行き、こっとん、こっとん、 微笑 ( びしょう ) のうちに、二三回ひいてから、また、手摺まで走って行ってはあなたに手をあげ、あなたも手をあげ 応 ( こた ) えると、また、にこにこと笑い 交 ( かわ ) して、バック台まで逃げてゆく。そうしているときは愉しく、その想い出も愉しかった。
翌晩でしたか、ひどい 時化 ( しけ ) の最中、すき
焼会がありました。 大抵 ( たいてい ) のひとが出て来ないほど、船が、 凄 ( すさ ) まじくロオリングするなか、ぼくは 盛 ( さか ) んに、牛飲馬食、二番の 虎 ( とら ) さんや、水泳の 安 ( やす ) さんなんかと 一緒 ( いっしょ ) に、殆ど、最後まで残って、たしか飯を五杯以上は食いました。その飯には、杏の味の 甘美 ( かんび ) さが、まだ残っている気がしたのでした。そして、いよいよ Blue Hawaii です。
オリンポスの果実
田中英光 (Orinposu no kajitsu) | ||