オリンポスの果実
田中英光 (Orinposu no kajitsu) | ||
十九
また 暫 ( しばら ) くして、日本選手一同が 揃 ( そろ ) って、ベニスという下町へ遊びに行った日がありました。 附近 ( ふきん ) で、いちばん大きなダウンタアオンで、 途中 ( とちゅう ) の風光の美しさも類のないものでした。
碧 ( あお ) い海に沿った、遠くに緑の半島が 霞 ( かす ) み、近くには赤い屋根のバンガロオが、 処々 ( ところどころ ) に、点在する 白楊 ( はくよう ) の 並木路 ( なみきみち ) を、曲りまわって行きました。まるで、 泰西 ( たいせい ) 名画のみごとな版画をみているように、 湿 ( しめ ) り気のない空気が、 全 ( すべ ) てのものを明るく、 浮立 ( うきた ) たせてみせてくれるのでした。
突然 ( とつぜん ) 、ぼくの 脇 ( わき ) に 坐 ( すわ ) っていた、坂本さんが、ぼくの横腹をこづきます。ひょいとみると、女子選手ばかりを乗せた、前のバスが、おくれて、こちらの車台とくっつきそうになって走っています。その背後の座席に、あなたが坐っていて、人形をかざし、こちらに見せびらかすようにして顔を 硝子 ( ガラス ) に 押 ( お ) しつけていました。
硝子窓に 潰 ( つぶ ) され、 凹 ( へこ ) んだ鼻をしているその顔がまるで、泣きだしそうな 羞恥 ( しゅうち ) に 歪 ( ゆが ) んでおり、それを 堪 ( た ) えて、友達と笑い合っては、 道化 ( どうけ ) 人形を 踊 ( おど ) らせ、あなたは、こちらの注意を 惹 ( ひ ) こうとしていました。 恐 ( おそ ) らくぼくを笑わそうとして、無理におどけてみせてくれるのだと、ぼくは考えあなたの 故意 ( わざ ) とらしさが悲しく、あなたに似合わない 大胆 ( だいたん ) さが苦々しくて、ぼくにはそのとき、あなたが大変、 醜 ( みにく ) くみえた。
とうとう、前の車が故障でとまり、みんながぞろぞろ降りだしたのをみたとき、ぼくは顔をまともに合せたら、あなたが、どんな表情になるか、眼に見える心地がして、そればかりが 気懸 ( きがか ) りになりました。
果して、あなたはピエロ人形を片手に、踊らせながら、やはり、泣き笑いみたいな顔で、ぼくのほうをちらっと見たが、ぼくが笑いもせず、 反 ( かえ ) って視線のやり場に困った 鬱陶 ( うっとう ) しい顔をしているのをみると、あなたは、面を 伏 ( ふ ) せ、くるりとうしろを向き、ひとりで、バスに乗ってしまった。車が出て、背後の硝子窓に 凭 ( もた ) れかかった人形は、あなたの手と 一緒 ( いっしょ ) に再び踊りだした。しかし、顔をみせない、あなたが、友達と笑いあっているのか、ひょっとしたら、泣いて 慰 ( なぐさ ) められているのか、想像のつかないまま、あなたの 肩 ( かた ) は 震 ( ふる ) えていました。
ぼくは一体、人目を 憚 ( はば ) かったのか、それともそうしたあなたが 嫌 ( きら ) いだったのか、それも 判 ( わか ) らぬ複雑 奇怪 ( きかい ) な気持で、どうでもなれとバスに 揺 ( ゆ ) られていました。気の弱い、 我儘 ( わがまま ) なぼくも 厭 ( いや ) だったし、あなたも厭だった。
そうして、人形は踊りを 止 ( や ) め、バスの後窓に凭れたまま、小さくなり、見えなくなって行くのでした。
ベニスに着いてから、 竜 ( ドラゴン ) の口が出入り道になっているサイクロレエンに乗りました。
トロッコ様の 箱車 ( はこぐるま ) の座席が三段にわけてあり、まえに 豪傑 ( ごうけつ ) の虎さんと色男の有沢さんが乗り、真中にぼくと清さん、うしろに柴山と村川が乗りました。前に横たえてある棒をしっかり 握 ( にぎ ) っているうち、車は 滑 ( すべ ) りだし、深い穴のなかに 陥 ( お ) ちてゆきます。再び、登りだしたときは、背も 反 ( そ ) るような急角度の 勾配 ( こうばい ) でした。あれよ、あれよという間に、いちばん 頂辺 ( てっぺん ) にまで出ると、 遥 ( はる ) かサンピイドロの海が眼下にかすみ、沖にはキャバレエになっているという 豪華船 ( ごうかせん ) ――当時は 禁酒法 ( ドライ ) でしたから――が 豆 ( まめ ) のように、ちいさい。が次の 瞬間 ( しゅんかん ) に、車は急転直下、直角にちかい 絶壁 ( ぜっぺき ) を、素晴しい速力ですべり落ちてきます。背中を丸くして、横棒にかじりついていても、 腰 ( こし ) が浮くすさまじさです。と、すぐ前から、「ヒェーッ」という金属的な悲鳴が、風に流れきこえてきました。色男の有沢さんの声です。実際、声でもたてねばやり切れぬ、気持でした。車はあるいは急角度に横にまがり 斜 ( なな ) めにおち、ガッタンガッタンと、登ったかとおもえば、また陥ちる、頭の 髪 ( かみ ) が、風にふかれて 舞 ( ま ) い上がるのも、 恐怖 ( きょうふ ) に追われ逆立つおもいでした。
もう後では、目をつむってこらえている内、するすると竜の口から再び 吐 ( は ) きだされて、おしまいでした。降りたった六人は、 今更 ( いまさら ) のように 聳 ( そび ) えたつサイクロレエンを 眺 ( なが ) めて、感にたえた顔をしていましたが、有沢さんの悲鳴を 誰 ( だれ ) かが言いだすと、 途端 ( とたん ) に、みんなゲラゲラと大笑いがとまりませんでした。
それまでに、サイクロレエンに乗っていた 酔 ( よ ) っぱらいの水兵が、 滑走 ( かっそう ) の途中、立ち上がり、横木にはさまれて 頸 ( くび ) を折ったとか、赤ん坊を 抱 ( だ ) いた若妻が滑りおちる恐怖にたえかね、子供を手放したので、赤ん坊がおっこち頭を割って死んだとか、そんな話もきかされていたのですが、自分が実際乗ってみると、そんな 嘘 ( うそ ) のような話も真実におもわれる 物凄 ( ものすご ) さでした。
ぼくはサイクロレエンから降りたった後、なにもかもが飛び去ったあとのような心地よさで独り、岸にたち、潮風に、髪の毛をなぶらせながら、青黒くひかる海を、 虚心 ( きょしん ) に、 眺 ( なが ) めていました。
その後、 羅府 ( ロスアンゼルス ) 動物園へ、選手一同 赴 ( おもむ ) いた折にも、 巨 ( おお ) きな象の二三頭が、放し 飼 ( が ) いになって自由に散歩しているあいだを、内田さんと手を 繋 ( つな ) ぎ歩いているあなたの姿をお 見掛 ( みか ) けしたことがあります。
その朝、ぼくはデレゲェションバッジをなくなし、 皆 ( みんな ) にまた 口汚 ( くちぎた ) なくいわれる 疑懼 ( ぎく ) と、ひとつは 日頃嘲弄 ( ひごろちょうろう ) される 復讐 ( ふくしゅう ) の気持もあって、実に男らしくないことですが、手近にあった東海さんの上着からバッジを 盗 ( ぬす ) み、東海さんの 困却 ( こんきゃく ) をまのあたりみせられ、 些 ( いささ ) か 後悔 ( こうかい ) の念に 駆 ( か ) られ、良心の 苛責 ( かしゃく ) もひどかったときなので、ともすれば見失いそうな自分の姿を 掴 ( つか ) まえる 為 ( ため ) 、すっかり 茫然 ( ぼうぜん ) としていて、近くにあった、あなたの姿にも、痛いものをみる 想 ( おも ) いで眼をそらした。
その 癖 ( くせ ) 、そのときでも、あなたが見えなくなると、バッジの件を考える苦しさよりもあなたを想う甘さに 惹 ( ひ ) かれるのでした。
そうしたときでも、いつもあなたには逢いたいような、逢いたくないような気持が、 例 ( たと ) えば、『逢わぬは逢うにいやまさる』といった 都々逸 ( どどいつ ) の文句のように 錯綜 ( さくそう ) して、あなたを 慕 ( した ) っていたのです。
マウントロオで、ケエブルカアから降りて村川と二人、 養狐場 ( ようこじょう ) のほうへ行きかけると、すれちがった若い 亜米利加娘 ( アメリカむすめ ) が二人、とつぜんぼく達を呼びとめ、ぼくの持っていたカメラで 撮 ( うつ ) してくれというのです。たいへん 朗 ( ほが ) らかな、 可愛 ( かわい ) い娘さん達なので、喜んで、一緒に写真をとったり 名刺 ( めいし ) を 貰 ( もら ) ったり、 手振 ( てぶ ) り身振りで会話をしたりしました。そうしたとき、 奇妙 ( きみょう ) に強く、想われるのはやはりあなたの 面影 ( おもかげ ) でした。
ホワイトポイントヘ 魚釣 ( さかなつ ) りにも行きましたが、ぼくは釣なぞしたことがないので、 無闇 ( むやみ ) やたらにそこいら辺を歩きまわっただけでした。ひとりで、ホテルの裏にでると、ダンス場があって、ちょうどヒリッピン人の会合があり、 彼等 ( かれら ) が、勝手放題に、 淫 ( みだ ) らな踊り方をしたり、または 木蔭 ( こかげ ) で 抱擁 ( ほうよう ) し合っているのをみると、急に 淋 ( さび ) しく、あなたが 欲 ( ほ ) しくてたまらなくなるのでした。
試合 ( ゲエム ) が済んだあとでは、みんな、各自、県人会のひとに案内して貰ったり、または自分達同士でロスアンゼルスに遊びに行ったりしては、やれ今日は飛行機に乗ったとか、秘密のキャバレエで酒を飲まされたとか、レビュウガアルのアパアトで三十 弗 ( ドル ) もとられたとか、そんな話の種を持って帰っては、面白そうに話しあうのでしたが、ぼくはまた、独りぽっちの仕様ことなしに、近所の子供と遊んだり、子供達から自転車を借りて乗りまわしたり、ただあてもなく散歩したり、そんな 無為 ( むい ) な日々をすごすことが多かった。
いまでも 憶 ( おも ) いだす、なつかしい 路 ( みち ) は、合宿裏の 花壇 ( かだん ) にかこまれた 鋪道 ( ほどう ) のことです。
ジギタリス、アネモネ、グラジオラス、サフラン、そんな花々につつまれて、一日中、 陽 ( ひ ) があたっている明るさ暖かさでした。ぼくがその路を、胸に 紅 ( あか ) く日の丸のマアクの入ったスエタアを着て、トレエニングパンツのゴムをぱちんぱちんとお腹にはじきながら、ぶらぶら 何遍 ( なんべん ) も往復し一体どんな歌をうたっていたと思います。おけさ節に、インタアナショナル、北大校歌に、オリムピック 応援歌 ( おうえんか ) 、さては 浪花節 ( なにわぶし ) に近代詩といった取り交ぜで、興がわくままに大声はりあげ、しかも 音痴 ( おんち ) はこの上なしというのですから、他人には見せも聞かせもしたくない、のんびりした 阿呆 ( あほ ) らしい風景でした。
そんなとき、いちばん誰 憚 ( はば ) からず、あなたのことを想って、 愉 ( たの ) しいときを過しました。白昼、花々 匂 ( にお ) う小路をさまよい、勝手な空想にふけっていれば、あなたはいつもぼくの身近く、 浄 ( きよ ) らかな童女のような 相貌 ( そうぼう ) で、ぼくにつき 纏 ( まと ) っていたのです。
オリンポスの果実
田中英光 (Orinposu no kajitsu) | ||