オリンポスの果実
田中英光 (Orinposu no kajitsu) | ||
六
それから、三人 揃 ( そろ ) って、 芝居 ( しばい ) を見に行きました。なにをやっていたか、もう忘れています。多分、 碌々 ( ろくろく ) 、見ていなかったのでしょう。ぼくは別れて、後ろの席から、あなたの、お下げ 髪 ( がみ ) と、内田さんの赤いベレエ 帽 ( ぼう ) が、時々、動くのを見ていたことだけ 憶 ( おぼ ) えています。
それからの日々が、いかに幸福であったことか。 未 ( ま ) だ、 誰 ( だれ ) にも気づかれず、ぼくはあなたへの愛情を育てていけた。ぼくはその 頃 ( ころ ) あなたと顔を合せるだけで、もう満ち足りた気持になってしまうのでした。朝の楽しい 駆足 ( かけあし ) 、Aデッキを 廻 ( まわ ) りながら、あなた達が一層下のBデッキで、デンマアク体操をしているのが、みえる 処 ( ところ ) までくると、ぼくはすぐあなたを見付けます。
なかでも、長身なあなたが、若い 鹿 ( しか ) のように、 嫋 ( しな ) やかな、ひき 緊 ( しま ) った肉体を、リズミカルにゆさぶっているのが、次の一廻り中、眼にちらついています。今度、Bデッキの上を駆ける頃になると、あなたは、海風に髪を 靡 ( なび ) かせながら、いっぱいに腕を開き、張りきった胸をそらしている。その 真剣 ( しんけん ) な顔付が、また、次の一廻り中、眼の前にある。その次、Bデッキの上まで来るとあなたは腕をあげ 脚 ( あし ) を思い切り 蹴上 ( けあ ) げている、というように、以前は、 嫌 ( きら ) いだった駆足も、駆けている間中、あなたが見えるといった 愉 ( たの ) しさに変りました。
それからすっかり腹を 空 ( す ) かした朝の食事、オオトミイルに牛乳をなみなみと注いで、あなたを見ると、 林檎 ( りんご ) を 丸噛 ( まるかじ ) りに 頬張 ( ほおば ) っているところ、なにかふっと笑っては、自分に照れ、 俯 ( うつむ ) いてしまいます。(よく、食うなア)と、あなたに言った積りですが、案外、自分のことでしょう。
朝飯を食うと午前中の練習で、八時半から十一時頃まで、ボオト・デッキと 体育室 ( ギムナジウムルウム ) の前に置いてあるバック台を、まず、三百本以上は、 定 ( き ) まって引きました。大体、三番の 梶 ( かじ ) さんと、四番のぼくは 並 ( なら ) んで引くのが原則ですが、 下手糞 ( へたくそ ) な 為 ( ため ) 、時々、五番の松山さんや整調の森さんとも引きます。ぼくは、 胴 ( どう ) が長くて、上体が重く、いつも起上り ( レカバリー )
が、おくれて、 叱 ( しか ) られるのですが、あの数日は、すばらしい好調でした。いつもは 隣 ( となり ) のバック台に、合わそうとすればする 程 ( ほど ) 合わないのが、その頃は合わそうとしないでも、いつの間にかチャッチャッとリズムが出てくるのです。身も心も 浮々 ( うきうき ) していて、 普段 ( ふだん ) は 音痴 ( おんち ) のぼくでも、ひどく音楽的になれたのでしょう。そのリズムに乗ってしまえばしめたもので、カタンと足で蹴り身体を 倒 ( たお ) した 瞬間 ( しゅんかん ) 、もう上半身は起き上がり、スウッと身体は前に出てゆきます。手首をブラッと 突 ( つ ) きだし、全身が倒れた反動で、ひとりでに進むのをゆるくセエブしながら、みはるかす眼下ひろびろと、日に輝く太平洋が 青畳 ( あおだたみ ) のように 凪 ( な ) いでいるのを見るのは、まことに気持の 好 ( よ ) いものです。
そんな時、 監督 ( かんとく ) に廻って来た総監督の西博士が、コオチャアの黒井さんに、「みんな、坂本君位、身体があれば大したものだなア」と 褒 ( ほ ) めて下さるのを聞くと、いつもクルウの 先輩 ( せんぱい ) 連からは、「大きな身体を、持てあましていやがって――」など言われているだけに、思わず、ハッとあがってしまい、 又 ( また ) 、普段の地金が出るのではないかと固くなるのでした。
ある日、バック台を引いたあとで、腕組みをしながら、あとの人達のやるのを見ていて、ひょいと眼をあげると、あなたの 汗 ( あせ ) ばんだ顔が、体育室の円窓越しに、 此方 ( こちら ) を 眺 ( なが ) めていました。ぼくは 直 ( す ) ぐ、 恥 ( はず ) かしくなって、視線をそらせようとすると、あなたも、 寂 ( さび ) しいくらい白い歯をみせ、笑うと、窓 硝子 ( ガラス ) をトントン 拳 ( こぶし ) で 叩 ( たた ) く 真似 ( まね ) をしてから、身をひるがえし逃げてゆきました。
それからと 云 ( い ) うものは、ぼくは、バック台をひきながらも、背後の体育室のなかで、かすかに、モーターの廻り出す音でも、聞えると、あなたが来ているかなと、胸が 昂 ( たか ) まるのでした。
いつでしたか、いちばん後まで残り、バック台を 蔵 ( しま ) ってからも、皆、降りて行ってしまうまで海を眺めるふりをし、誰もいなくなってから、体育室に入ってみました。
すると、あなたと、内田さんが、木馬に乗って、ギッコンギッコンと 凄 ( すさ ) まじい速さで、上がったり下がったりしています。おまけに、あなた達はパンツ一枚なのですから、 太股 ( ふともも ) の紅潮した筋肉が張りきって、プリプリ律動するのがみえ、ぼくはすっかり 駄目 ( だめ ) になり、ほうほうの 態 ( てい ) で、 退却 ( たいきゃく ) したことがあります。
午後は、ぼく達の棒引が終ってから、あなたがたの練習をみるのが、また楽しみでした。
殊 ( こと ) に、あなたのアマゾンヌの様な、トレエニング・パンツの姿が、A甲板の端から此方まで、風をきって 疾走 ( しっそう ) してくる。それも、ひどく真剣な顔が汗みどろになっているのが、一種異様な美しさでした。
( 視 ( み ) よ、わが愛する者の姿みゆ。視よ、山をとび、 丘 ( おか ) を 躍 ( おど ) りこえ来る。わが愛する者は
※ ( しか ) のごとく、また小鹿のごとし)紫紺 ( しこん ) のセエタアの胸高いあたりに、 紅 ( あか ) く、Nippon と 縫 ( ぬ ) いとりし、 踝 ( くるぶし ) まで同じ色のパンツをはいて、足音をきこえぬくらいの速さで、ゴオルに躍りこむ。と、すこし 離 ( はな ) れている、ぼくにさえ聞えるほどの 激 ( はげ ) しい 動悸 ( どうき ) 、 粒々 ( つぶつぶ ) の汗が、小麦色に 陽焼 ( ひや ) けした、豊かな 頬 ( ほお ) を 滴 ( したた ) り、黒いリボンで結んだ、髪の乱れが、 頸 ( くび ) すじに、汗に 濡 ( ぬ ) れ、 纏 ( まつわ ) りついているのを、無造作にかきあげる。
七番の坂本さんが、ぼくの 肩 ( かた ) を叩いて、「すごいなア」という。あなたの真剣さに、感動したのでしょう。「ええ」と 領 ( うなず ) きながら、ぼくはふいと目頭が熱くなったのに、自分で 驚 ( おどろ ) き、汗を 拭 ( ぬぐ ) うふりをすると、 慌 ( あわ ) てて船室に駆け降りました。
舷 ( ふなばた ) では、 槍 ( やり ) の丹智さんが、大洋にむかって、 紐 ( ひも ) をつけた、槍を投げています。ブンと風をきり、五十 米 ( メエトル ) も海にむかって、突き刺さって行く槍の 穂先 ( ほさ ) きが、波に 墜 ( お ) ちるとき、キラキラッと陽に 眩 ( くる ) めくのが、 素晴 ( すばら ) しい。と、上の甲板からは、ダイビングの女子選手が、胴のまわりを、 吊鐶 ( つりわ ) で 押 ( おさ ) えたまま、空中に、さッと飛びこむ。アクロバットなどより 真面目 ( まじめ ) な美しさです。
と、また、男達のほうでも、ボクサアは、 喰 ( く ) いつきそうな形相で、サンドバッグを叩いていますし、レスラアは、筋肉の 塊 ( かたま ) りにみえる、すさまじさで、ブリッジの練習。体操の選手は選手で、 贅肉 ( ぜいにく ) のない 浮彫 ( うきぼり ) のような体を、平行棒に、 海老 ( えび ) 上がりさせては、くるくる廻っています。おおかた上のプールでは、水泳選手の 河童 ( かっぱ ) 連が、 水沫 ( みずしぶき ) をたてて、浮いたり 沈 ( しず ) んだり、ウォタアポロの、球を 奪 ( うば ) いあっているのでしょう。
それでありながら、古代ギリシャ、ロオマの 巨匠 ( きょしょう ) 達が発見した、人間の文字通り具体的な、観念に 憑 ( つ ) かれぬという意味での美しさが、百花 撩乱 ( りょうらん ) と咲き乱れておりました。
しかしながら、その中に育った、ぼく達の愛情は、肉体の 露 ( あら ) わにみえる処に、あればあるほど肉体的でない、まるで 童話 ( メルヘン ) の 恋 ( こい ) 物語めいた、静かさでありました。あなたと語り合うことは、 恐 ( おそ ) ろしく、眼を 見交 ( みかわ ) すことが、楽しく、 黙 ( もく ) して身近くあるよりも、ただ訳もなく 一緒 ( いっしょ ) に遊んでいるほうが、 嬉 ( うれ ) しかったのです。
夜の食事のときなど、メニュウが、手紙になったり、先の方に絵葉書がついていたりします。ぼくはその上に書く、あなたへの、愛の手紙など空想して、コオルドビイフでも 噛 ( か ) んでいるのです。メニュウには、 殆 ( ほとん ) ど 錦絵 ( にしきえ ) が 描 ( えが ) かれています。 歌麿 ( うたまろ ) なぞいやですが、 広重 ( ひろしげ ) の富士と海の色はすばらしい。その 藍 ( あい ) のなかに、とけこむ、ぼくの文章も青いまでに美しい。ところで、あなたはパセリなど 銜 ( くわ ) えながら、時々こちらに、ちらっと笑いかけてくれるのでした。
夜は、 概 ( がい ) して平安一路な航海、月や星の美しい甲板で、 浴衣 ( ゆかた ) がけや、スポオツドレスのあなたが、近くに 仄白 ( ほのじろ ) く浮いてみえるのを、意識しながら、照り輝く 大海原 ( おおうなばら ) を、眺めているのは、また幸福なものでした。
なかでも、わけて愉しかったのは、昼食から三時までの練習休みの時間、 大抵 ( たいてい ) のひとが暑さにかまけて、 昼寝 ( ひるね ) でもしているか、 涼 ( すず ) しい船室を選んで 麻雀 ( マアジャン ) でも 闘 ( たたか ) わしているのに、ぼくは 炎熱 ( えんねつ ) で 溶 ( と ) けるような甲板の上ででも、あなたや内田さんと、デッキ・ゴルフや、シャブルボオドをして遊んでいれば、暑さなど、 想 ( おも ) ってもみない、楽しさで 充実 ( じゅうじつ ) した時間でした。
飯を食うと、ぼくは直ぐAデッキに出て、コオチャア黒井さんが昼寝している横の、デッキ・チェアに 腰 ( こし ) を降し、 瀝青 ( チャン ) のように、たぎった海を見ています。 暫 ( しばら ) く 経 ( た ) ってから、黄色いブラウスに白いスカアトをはいた、あなたと、赤いベレエ帽に、紺の 上衣 ( うわぎ ) を着た内田さんとが、笑いながらやって来ます。内田さんは、ぼくに、「ぼんち、デッキ・ゴルフやろう」と言ってから、今度は黒井さんの手をひっぱって、無理に起します。黒井さんは、「ああァ」と 大欠伸 ( おおあくび ) をしてから、周囲をみまわし、「 大坂 ( ダイハン ) とか、よし、また、ひねってやろう」とゆっくり立ち上がるのでした。
そこで、あなたと内田さんの組と、ぼくと黒井さんの組が対抗してゲエムを始めます。ぼくにとって、勝負なぞ、初めは、どうでも好いのですが、やはり良い当りをみせて、あなたの持ち輪を 圏外 ( けんがい ) の 溝 ( みぞ ) のなかに、叩き落したときなぞ、思わず快心の 笑 ( え ) みがうかぶ、得意さでした。
ことに、ぼくをいつも 庇護 ( ひご ) してくれる黒井さんが、そういうとき、「うまい」と一言、 褒 ( ほ ) めてくれるのが、ふだんクルウの先輩達が、ぼくをまるで、運動神経の 零 ( ゼロ ) なように、コオチャアに言いつけているのを知っているだけ、とても嬉しかったのです。
勿論 ( もちろん ) 、あなた達のほうでも、ぼく達を負かしたときには、手を叩いて、嬉しがっていた。勝負の面白さが、 純粋 ( じゅんすい ) に勝負だけの面白さで、その時には、恋も、コオチャアも、女も、利害も、過去も未来もなかったのです。
後年、ぼくは、 或 ( あ ) る女達と、もっと 恋愛 ( れんあい ) らしい肉体的な交際を結びました。しかし、それが、 所謂 ( いわゆる ) 恋愛らしい、形を採ればとるほど、ぼくは恋愛を 装 ( よそお ) って、実は、損得を計算している自分に気づくのでした。
おもうに、あのとき、燃える空と海に包まれ、そして、焼きつくような日光をあびた甲板に、勝っているときは嬉しく、負けたときは 口惜 ( くや ) しく、遊びの楽しさの 他 ( ほか ) には、なにもなかった。ぼくは、本当に、黄金の日々を過していたのでした。
もう、あの日当りでのデッキ・ゴルフの愉しさは、書くのを 止 ( や ) めましょう。もっと、純粋な愉しさがあって、書けば書くほど、 嘘 ( うそ ) になる気がします。
しかし、この黄金の書に、ものを書く時間は短かく、これと殆ど同時に、ぼくには、大きな不幸が 忍 ( しの ) びよって来ていました。それは、まず第一に、ほかの人間達が、ぼく等の友情のなかに、 影 ( かげ ) を落して来だしたことです。次には、ぼく達が、他の人達に注目されるほど、仲良くなって行ったことです。
オリンポスの果実
田中英光 (Orinposu no kajitsu) | ||