オリンポスの果実
田中英光 (Orinposu no kajitsu) | ||
九
ハワイの 想 ( おも ) い 出 ( で ) は、レイの花からでした。
第一装 ( だいいっそう ) のブレザァコオトに 着更 ( きが ) え、 甲板 ( かんぱん ) に立っていると、上甲板のほうで、「 鱶 ( ふか ) が 釣 ( つ ) れた」と 騒 ( さわ ) ぎたて、みんな 駆 ( か ) けてゆきました。しかし、ぼくは 漸 ( ようや ) く、 雲影模糊 ( うんえいもこ ) とみえそめた島々の 蒼 ( あお ) さを 驚異 ( きょうい ) と 憧憬 ( どうけい ) の眼でみつめたまま、動く気もしなかったのです。
未知の国を初めてまのあたり 眺 ( なが ) める感動と、あなたへの 思慕 ( しぼ ) とがありました。その 頃 ( ころ ) 、漸くにして、自分の 技倆 ( ぎりょう ) の未熟さはさておき、とにかく日の丸の下に戦わねばならぬ、自分の重責を、あなたへの思い深まるに連れて、深く自覚自責するものがありました。ぼくは、あなたへの愛情をどうしても、帰国後まで、大切に、 蔵 ( しま ) っておかねばならぬと、おもった。 然 ( しか ) し、具体的なことはまだ一言も言わなかったし、言えもしなかった。ぼくの 焦躁 ( しょうそう ) はひどいものでした。
ようやく波止場も見えてきて、全員集合を命ぜられたとき、いつもの様に、ぼくの眼は、あなたの姿を探していました。 或 ( あ ) る人達が、わめきちらす、女子選手達のお 尻 ( しり ) についての 無遠慮 ( ぶえんりょ ) な評言を、ぼくは 堪 ( た ) えられないような弱い気になって、聞くともなく聞いていると、いちばん 後 ( おく ) れてあなたが、うち 萎 ( しお ) れた姿をみせた。
あなたは、先頃の明るさにひきかえ、一夜の中に、 醜 ( みにく ) く、 年老 ( としと ) って、なにか人目を 恥 ( は ) じ、泣いたあとのような赤い眼と手に 皺 ( しわ ) くちゃの 手巾 ( ハンカチ ) を持っていました。ぼくは、あなたが、てっきりぼく達のことについて、なにか言われたのではないかと、勝手な想像をして、 黯然 ( あんぜん ) となったのです。おまけに、そのとき、あなたはぼくが 逢 ( あ ) ってから、初めて厚目に、 白粉 ( おしろい ) をつけ、紅を 塗 ( ぬ ) っていた。その 田舎娘 ( いなかむすめ ) みたいなお 化粧 ( けしょう ) が、 涙 ( なみだ ) で 崩 ( くず ) れたあなたほど、 惨 ( みじ ) めに 可哀想 ( かわいそう ) にみえたものはありません。
あたかも、 直 ( す ) ぐそのあとで、ぼくの胸には、歓迎 邦人 ( ほうじん ) からの、白い 首飾 ( くびかざ ) りの花が 掛 ( か ) けられました。有名な選手などは、二つも三つも掛けて 貰 ( もら ) っていましたが、ぼくが洋装をした田舎の 小母 ( おば ) さん然たる 奥 ( おく ) さんに、にこにこ笑いながら掛けて貰ったレイの花は、ひとつでも堪えられないくらい 芳烈 ( ほうれつ ) な 香 ( かお ) りを放っていました。ぼくは、その 匂 ( にお ) いのなかに、 恋情 ( れんじょう ) の苦しさを 甘 ( あま ) くする 術 ( すべ ) を発見したのでした。
それから、間もなく 催 ( もよお ) して頂いた、ハワイの官民歓迎会の、ハワイアン・ギタアと、フラ・ダンス、いずれも土人の亡国歌、 余韻嫋々 ( よいんじょうじょう ) たる悲しさがありましたが、ぼくは、その悲しさに甘く 陶酔 ( とうすい ) している自分を、すぐ発見して、なにか 可憐 ( いと ) しく思ったのです。ハワイでは、あなたと一度も、話し出来ませんでしたが、ぼくは、美しい異国の風景のなかに、あなたの姿を、まぼろしに 描 ( えが ) くだけで、満足でした。
ぼく達が日本語よりも、英語がうまいのを 自慢 ( じまん ) にしている運転手君――というのは、ぼく達が波止場から邦人の提供してくれた、自動車に乗りこむと、早速、英語で話しかけて来て、皆が、第二世君と思っていたのに、土人かしらと、 些 ( いささ ) か 唖然 ( あぜん ) としていると「あなた達、英語出来ないんですねエ」と 軽蔑 ( けいべつ ) したように、初めて日本語を使った――その小生意気な運転手君に連れられて一同と共に、奇勝ノアノパリに向う 途中 ( とちゅう ) 、もの 凄 ( すご ) い 大雷雨 ( だいらいう ) に、 襲 ( おそ ) われました。が、 忽 ( たちま ) ち、からりと晴れると、なんとその 透 ( す ) き 徹 ( とお ) るような 碧 ( あお ) い空の見事さ。雨に 濡 ( ぬ ) れ、緑のいっそう 鮮 ( あざ ) やかに光り 輝 ( かがや ) く、草木のあいだに、 撩乱 ( りょうらん ) と咲き 誇 ( ほこ ) っている、 紅紫黄白 ( こうしこうはく ) 、色とりどりの花々の美しさ、あなたは 何処 ( どこ ) にでもいる気がふッと 致 ( いた ) しました。
ぼくはものを感じるのは、まあ 人並 ( ひとなみ ) だろうと、思っていますが、 憶 ( おぼ ) えるのは、 面倒臭 ( めんどうくさ ) いと考える 故 ( ゆえ ) もあって、自信がありません。
それでも、ノアノパリの 絶壁 ( ぜっぺき ) 上に立ち、世界で三番目に強いと言われる風速何十 米 ( メエトル ) かの 突風 ( とっぷう ) 、顔をたえず 叩 ( たた ) かれ 上衣 ( うわぎ ) をしょっちゅう 捲 ( ま ) くられているような烈風を受けつつ、眺めた景色は 髣髴 ( ほうふつ ) と、今でも 浮 ( うか ) んできます。眼前に 展 ( ひろ ) がる 蒼茫 ( そうぼう ) たる平原、かすれたようなコバルト色の空、 懸垂直下 ( けんすいちょっか ) 、何百米かの切りたった 崖 ( がけ ) の真下は、牧場とみえて、何百頭もの牛馬が草を 食 ( は ) んでいる。その牛馬一 匹 ( ぴき ) 々々の 玩具 ( おもちゃ ) のような小ささ、でもさすがに、 獣 ( けだもの ) の生々しい毛皮の色が、今も眼にあります。
しかし、後方右側に 聳 ( そび ) えたつ、なんとか峰はたえず陽に輝き、左側のなんとか峰はたえず雨に降られている。これは、その 昔 ( むかし ) ハワイの王様なんとか一世が、なんとかいう 蛮人 ( ばんじん ) の 酋長 ( しゅうちょう ) を、火牛の戦法で、この崖から追い落した。で、陽の照っているほうは、なんとか一世の 善霊 ( ぜんりょう ) 、 鎮 ( しず ) まり、雨に降られているほうは、蛮人なんとかの悪霊、鎮まるという、こんな伝説の固有名詞は全部忘れてしまいました。が、折からの 驟雨 ( しゅうう ) が晴れて、水々しい山頂をくっきりと 披璃 ( はり ) のような青い空に、聳えさせていた峰々のうるわしさは、忘れません。
あなたはあのとき、びッしょり濡れて、善霊峰の下の 洞穴 ( どうけつ ) に、風雨を 避 ( さ ) けていた。スカアトの 襞 ( ひだ ) も崩れ、 手巾 ( ハンカチ ) を 冠 ( かぶ ) って強風にあおられている。あなたは、朝の印象もあって、ばかに惨めにみえました。が、その苦しさも、ハワイの素晴しい自然が、すぐ 慰 ( なぐさ ) めてくれ、甘いものとする。そう考えるほど、ぼくは自分のなかだけで、恋情を育てていたのです。
午後から、ハワイのロオイング 倶楽部 ( クラブ ) に、招待されて練習に行きました。
コオスはほんとうに、草花につつまれているのどかさで、 小波 ( さざなみ ) ひとつなく、目にみえる流れさえない 掘割 ( ほりわり ) でした。 隅田 ( すみだ ) 川の 濁流 ( だくりゅう ) 、ポンポン蒸汽、 伝馬船 ( てんません ) 、モオタアボオト等に囲まれ、せせこましい練習をしていた、ぼく達にとって、文字どおり、ドリイミング・コオスといった感じです。 艇 ( てい ) は、 固定席 ( フィックス ) が 滑席艇 ( スライデング ) に移るまえにあった。ドギュウと日本では称しているような昔 懐 ( なつか ) しいもの。それにオォルの 握 ( にぎ ) りも太く、ブレエドの 幅 ( はば ) も広く、艇は 遅 ( おそ ) いけれど、バランスがよく、舟足も軽い。まっさおい水の上に、艇をポオンと置いてから、約 一月 ( ひとつき ) ぶりに、シャッシャッと 漕 ( こ ) ぎだすと、一本々々のオォルに水が青い油のように、ネットリ 搦 ( から ) みついて、スプラッシュなどしようと思っても、出来ないあんばい。三十本も漕ぐと、艇はたちまちコオスの 端 ( はし ) まで行ってしまう。河幅わずか十米あまり。漕いでいるオォルの先に、ぷうんと熱帯の花々が匂うばかりです。さすがに 先輩 ( せんぱい ) たちも感にたえたか、ぼくはいつもの 叱言 ( こごと ) 一つさえ、 聴 ( き ) きませんでした。五番の松山さんが、突然「あーア」とおおきい 溜息 ( ためいき ) をつき、「おーイ、みんな、漕ぐのは 止 ( や ) めろッ、 寝 ( ね ) ろッ寝ろッ」と 叫 ( さけ ) びさま、オォルをぽおんと投げだし、ぼくの 太股 ( ふともも ) のうえに、もじゃもじゃの頭を 載 ( の ) せました。彼の 鬼 ( おに ) をも 欺 ( あざむ ) くばかりの 貌 ( かお ) が、ニコニコ笑うのをみると、ぼくは股の上の彼の 感触 ( かんしょく ) から、へんに 肉感的 ( センシュアル ) なくすぐッたさを覚え、みんなに 倣 ( なら ) って、やはり三番の沢村さんの 膝 ( ひざ ) に、頭をのせ 仰向 ( あおむ ) けになりました。と、そんな 吝 ( けち ) な肉感なんか、忽ちすッとんでしまうほど空はとろけそうに碧く、ギラギラ燃えていた。その空の奥に、あなたの顔の 輪廓 ( りんかく ) が、ぼおっと浮んだような気がしました。
あなたに逢いたい、逢いたいと思っていた。そうしたら、ワイキキ・ビイチに行く途中、 凱旋門 ( がいせんもん ) のところで、あなたと内田さん達の一行に、ぱったり逢いました。ぼく達の自動車は、助手席の 処 ( ところ ) にぼく、うしろに三番の沢村さん、二番の虎さんなんかが乗っていた。あなたはその日、朝からずうっと 萎 ( しお ) れどおしのようでした。ただ、内田さんは、たいへん元気で、あなた達がつけたぼくの 綽名 ( あだな ) を呼び「ぼんぼん、アイスクリイムあげよう」と片手に、容器を 捧 ( ささ ) げてとんで来ました。ちょうど、車が動きだしたところだったので、はにかみながら 腕 ( うで ) を 伸 ( の ) ばした。ぼくには届かず、うしろの沢村さんが、ひッたくッてしまった。そして、なにか 猥褻 ( わいせつ ) なことを内田さんに言い、自分もすこし照れた様子で、わざと「うまい。うまい」と内田さんのほうに、みせびらかしながら、虎さんと食ってしまいました。虎さんも助平な事を言い、 豪傑 ( ごうけつ ) 笑いしてから食っていた。
ぼくは 甚 ( はなは ) だ、 憤慨 ( ふんがい ) したが、弱いのだから止むを得ません。ただ、半べそを 掻 ( か ) きつつ、「ひどいわ。意地悪」と叫んでいる内田さんに、たいへん愛情を感じました。
しかし、それはその時に、 沸 ( わ ) き上がった感情です。あなたに対しては、心の中で、すでに、愛さなければならないという 規範 ( きはん ) を、打ち 樹 ( た ) てていたと思います。
ホノルル・ブロオドウェイの 十仙店 ( テンセンストア ) で、ぼくは、 紅 ( あか ) のセエム 革 ( がわ ) 表紙のノオトを買いました。初めて、米国の金でした買物、金五十仙 也 ( なり ) 。ぼくは、それをあなたとの、日記帳にしようと思って 厭 ( いや ) らしく、紅い色のものを買ったのです。しかし、それも後から 憶 ( おも ) えば買わなかったほうが、いや買ったにしても、なんにも書かぬ 白紙 ( カイエブランシュ ) のなかに、 記憶 ( きおく ) だけを 止 ( とど ) めておいたほうが、良かった結果になりました。
翌月の午後は、個人外出を許され、船の 出帆 ( しゅっぱん ) 時刻は、確か、七時でしたが、ひとりぼっちで歩いていても、 面白 ( おもしろ ) くなく、帰ったならば、案外また、あなたに逢えるかとも思うと、四時頃からもう帰船しました。
午前中の甲板には、銭拾いの土人達が多勢、集まって来ていて、それが 頂辺 ( てっぺん ) のデッキから、真ッ 逆様 ( さかさま ) に、蒼い海へ、 水煙 ( みずけむ ) りをあげて、次から次へ、飛びこむと、こちらで 抛 ( ほう ) った 幾 ( いく ) つもの銀貨が海の中を水平に、ゆらゆら光りながら、落ちて行く。それを 逸早 ( いちはや ) く、 銜 ( くわ ) えあげたものから、ぽっかりぽっかりと海面に首を出し、ぷうっと口々に水を 吐 ( は ) きながら、片手で水を 叩 ( たた ) き、片手に金をかざしてみせる。とまた、忽ち 猿 ( さる ) の 如 ( ごと ) く甲板に 攀 ( よ ) じのぼってきては、同じ芸当を 繰返 ( くりかえ ) すのでした。その中に、ぼくは片足の 琉球人 ( りゅうきゅうじん ) 城間 ( クスクマ ) 某 ( ぼう ) という、 赤銅色 ( しゃくどういろ ) の 逞 ( たくま ) しい三十男を発見し、彼の生活力の豊富さに 愕 ( おどろ ) いたものです。
然し、外出から帰ってみると、甲板には、もう土人達は一人もいず、その代りに第二世のお 嬢 ( じょう ) さんたちが、花やかに着飾って、まだ、あまり帰っていない選手達を取り巻いていました。
真面目でもあるし、 殊 ( こと ) にフェミニストの坂本さんが、やはり、五六人のお嬢さん達に取り囲まれていましたが、ぼくの姿をみるなり「ああ坂本君」と呼んで「この人もボオトの選手です。大きいでしょう」とか、 紹介 ( しょうかい ) しておいて、自分は歓迎に来ている県人会の人達のほうへ行ってしまいました。ぼくは周囲の女性達をみるなり、坂本さんが、ぼくに 委 ( まか ) して、立ち去ったのが、すぐ 諒解 ( りょうかい ) できました。 美醜 ( びしゅう ) はとわず、とにかく、その頃の言葉で、心臓の強いお嬢さん達でした。
いずれも二十歳前後の娘さんとみえますが、なかに一人、豊かに 肥 ( こ ) えた 肩 ( かた ) をむきだした洋装の、だぼ 沙魚 ( はぜ ) みたいなお嬢さんが、リイダア格で、「サインして下さいよう」とサイン帳をつきだすと、あとは我も我もと、キャアキャア手帳をつきつけます。「ぼくなんかサインしてもつまりませんよ」と、それでも 押 ( お ) しつけられるままに、ぼくが女持の万年筆を借りて、Xth Olympic, Japanese Rowing Team, No.4. S. Sakamoto と書きながら、驚いたのは、そのだぼはぜ嬢、「 好 ( い ) いのよ、好いのよ」と 嬌声 ( きょうせい ) を発し、「あなた、とても好いわ」とぼくの肩に手を置いた事です。馬鹿です。ぼくは 相好 ( そうごう ) 崩して喜んだらしい。「チャアミングよ」というお嬢さんもいれば、「日本人で、こんなに大きい。スプレンディッド」という 女 ( ひと ) もいる。いよいよ、好い気持になって、ワアワアヘしあってくる娘さん達の、 香油 ( こうゆ ) と、 汗 ( あせ ) と白粉のムッとする 体臭 ( たいしゅう ) にむせていると、いきなり、また 吃驚 ( びっくり ) させられました。というのは、そのだぼはぜ嬢が、 愈々 ( いよいよ ) 、 瞳 ( ひとみ ) に 媚 ( こび ) をたたえて、「けっして、助平とは思わないでね」とウインクをするのです。失礼! が、ぼくはふき出したい 衝動 ( しょうどう ) のあとで、泣き出したいような気になりました。だって、このお嬢さん達は、きっと祖国を知らないんだ。だから日本の 礼儀 ( れいぎ ) 、日本の言葉もよく知らないのだろう。笑ってはいけない、と思いました。で、「ええ、思いませんとも」真面目に言いきりましたが、そういう口の 端 ( は ) から、へんに肉感的な 微苦笑 ( びくしょう ) が、唇を 歪 ( ゆが ) めるのを、 押 ( おさ ) えられませんでした。
すると、そのだぼはぜ嬢はいきなり、ハンドバッグのなかから、自分の写真を取り出し、サインをしてくれます。と 傍 ( そば ) から、「わたしも上げる」とか言いながら、パアスを探すお嬢さんがいます。二三枚、貰った写真は、 何 ( いず ) れもブロマイド式に 凝 ( こ ) ったものですが、正直 綺麗 ( きれい ) なひとは、一人もいませんでした。
その上、「あなた、メモ貸して、ミイのアドレス書く」と、だぼはぜ嬢が切り出し、また、続けて、二三人が、達者な英語で、御自分のアドレスを書いてくれました。
「あなた、向うのアドレス、着いたら、教えて」とだぼはぜお嬢さんが言うのを、うんうん 肯 ( うなず ) いている中、ぼくは、そのグルッペの 隅 ( すみ ) に、ひとりの 可憐 ( かれん ) な娘を見つけました。
美しい顔ではありませんが、色の黒い、 瘠 ( や ) せた顔に、子供らしい瞳が、くるくるしていて 可愛 ( かわい ) らしい。先刻から、だぼはぜさんの蔭にかすんで、 悄然 ( しょんぼり ) しているのが、今朝からのあなたの姿に連想され、「テエプ、この 裡 ( うち ) の一人に抛ってね」とだぼはぜ嬢が自信ありげに念を押したとき、よしあの 娘 ( こ ) に抛ろうと、とっさに決めたのでした。
出帆の 銅鑼 ( どら ) が鳴りだしたとき、ぼくは白いテエプを、その娘に投げてやりました。 淋 ( さび ) しい顔立が、 人混 ( ひとご ) みに 揉 ( も ) まれ、船が 離 ( はな ) れて行けば、いっそう 頼 ( たよ ) りなげに見える、そのぼんやりした瞳に、ぼくが、テエプを抛ろうとすると、その瞳は、急に 濡 ( ぬ ) れてみえるほど、生々と光りだした気がしました。この娘は、まだ十七で、帰りに寄航したときも逢いましたし、内地に子供らしい手紙を 度々 ( たびたび ) くれました。
あとで、船室に集まった皆が、ハワイでの 収穫 ( しゅうかく ) を話しあったとき、坂本さんが、ニヤニヤ笑いながら、ぼくとだぼ沙魚嬢のロオマンスを 素 ( す ) ッ 破抜 ( ぱぬ ) きました。こんな 巫山戯 ( ふざけ ) た話になると、みんなとても 機嫌 ( きげん ) よく、森さんが、 先 ( ま ) ず、「ほう、 大坂 ( ダイハン ) は、最近、大当りだな」とひやかせば、松山さん、「色男は 違 ( ちが ) うな」と、大口開いて笑うし、虎さんは、「ドレドレ」とだぼはぜ嬢の写真をとって見ようとする。「 俺 ( おれ ) にも貸せ」と梶さんが手を 伸 ( の ) ばす。「待て、待て」と横から 覗 ( のぞ ) いていた沢村さんが怒る。あとは、ワアッと大笑いでした。
あなたとの友情も、こんなに巫山戯半分で、皆と共々に笑える 余裕 ( よゆう ) があったなら、あんなに皆から 憎 ( にく ) まれず、また、ぼくも苦しい 想 ( おも ) いをしなくても、済んだ、と思います。
オリンポスの果実
田中英光 (Orinposu no kajitsu) | ||