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十二

 ぼくは、もう日本に帰る ( まで ) 、あなたとは口を ( ) くまいと、かたく心に ( ちか ) ったのです。日本を ( はな ) れるに ( したが ) って、日本が好きになるとは、誰しもが言う ( ところ ) です。幼いマルキストであったぼくですが、――ハワイを過ぎ、 桑港 ( サンフランシスコ ) も近くなると、 今更 ( いまさら ) のように、自分は日本選手だ、という気持を感じて来ました。

 その ( ころ ) 、ぼくは、人知れず、 ( ひま ) さえあれば、バック台を引いて、練習をしていました。ようやく静まってきた波のうねりをみながら、一望千里、 ( はて ) しない大洋の ( あお ) さに、 ( あま ) い少年の感傷を注いで、スライドの ( すべ ) る音をきいていたのも、忘れられぬ思い出であります。

 船が 桑港 ( サンフランシスコ ) に入る前夜、ぼくは日本を ( ) つとき、学校の先生から ( たの ) まれた、 羅府 ( ロスアンゼルス ) にいる先生の 親戚 ( しんせき ) への 贈物 ( おくりもの ) 、女の着物の始末に困って、 副監督 ( ふくかんとく ) のM氏に相談しました。M氏は、それを誰か女の選手に、 彼女 ( かのじょ ) の持物として、預かって ( もら ) えと言います。浅ましい話ですが、ぼくはそれをきくと、眼の色が変るほど、興奮しました。あなたに預かって貰えたら、と思ったのです。口を利かずともどんな形にでも、あなたと ( つな ) がっているものが ( ) しかった。ぼくは、その着物に ( ひそ ) ませる、 恋文 ( こいぶみ ) のことなど考えて、その夜も、また ( ねむ ) れませんでした。

 もう二時間 ( ほど ) で、 桑港 ( サンフランシスコ ) に入るという午後、ぼくは、M氏から、誰という名前はきかず、その着物を預かって貰えるからとの話で、着物をお願いしました。

 がっかりすると言うより、ぼんやりして、海を見ていると、 舵手 ( だしゅ ) の清さんがやって来て、 ( かた ) ( たた ) きます。「どうしたんだい、坂本さん」 微笑 ( ほほえ ) んでいる清さんは、本当に、ぼくを 気遣 ( きづか ) ってくれるのでしょう。「いや、別に」とぼくは、だらしなく 悄気 ( しょげ ) た声を出しました。「ばかに、元気がないじゃないか」「ええ」とうなずいて、清さんの顔をみていると、このひとに、なにもかにも打明けたら、さっぱりするだろうという、気がふッと ( いた ) しました。

 と、清さんは、急に真顔になって、「坂本さん。ちょッと話があるんだ。来てくれませんか」と先に立ち、 上甲板 ( じょうかんぱん ) に登って行きます。ああ、そのことかと、胸にギクリ来ましたが、結局、言われたほうが、楽になると思い、ついて行くと、ボオト・デッキから更に階段をあがり、船の頂上、プウルのある甲板にでました。方二間位のプウルには、青々と水が ( たた ) えられ、船の 動揺 ( どうよう ) にしたがって、 ( ) れています。周囲にベンチが二つ、置かれてあるだけの ( せま ) い甲板です。「まア、 ( ) けましょう」といわれ、 ( なら ) んで ( こし ) を降ろしたまま、しばらく 沈黙 ( ちんもく ) が続きました。もう港が近いとみえ、 ( かもめ ) ( はる ) か下の海上を飛んでいるのが見えます。

「少し、話し ( にく ) いことなんですが――」と前置きをして、清さんは切り出しました。「実は、あんたのことで、変な ( うわさ ) があるのを前からきいていましたが、坂本さんに限って、そんな 莫迦 ( ばか ) はしないと、ぼくはいつも打消していました。

 ところが、この頃、あんまり、森さんや、松山さん達が、心配するんでね、ぼくも、もう米国に着いたことだし、ここで、坂本さんにしっかりして貰えなきゃ困るんで、今日、改まって、 ( ) く訳ですが、一体、あの噂は、 何処 ( どこ ) ら辺までが本当なんです」

 ぼくも、こんな風に言われると、やはり、自分の精神的な、 苦悩 ( くのう ) は大切に ( しま ) っておきたく、それとはあべこべに、あなたとの楽しかった遊びが、次から次へと、 走馬燈 ( そうまとう ) のように ( おも ) い出され、清さんのそれからの御意見も、いつしか空吹く風と、きき流したくなりました。と、不意に、(意見せられて、さし 俯向 ( うつむ ) いて――)という、おけさの一節が、頭に ( うか ) びました。(泣いていながら ( ぬし ) のこと)なにか ( うった ) えるものが欲しかった。 自然 ( ネイチュア ) よ! と眼をあげた 刹那 ( せつな ) 、映じた風景は、むろん異国的ではありながら、その ( くせ ) 未生 ( みしょう ) 前とでもいいますか、どこかで一回は ( なが ) めたことがあるという 感懐 ( かんかい ) が、肉体を ( しび ) れさせるほど、強くおそいました。

 みよ、この時、 髣髴 ( ほうふつ ) ( せま ) ってくるものは、水天青一色、からりと晴れ、さわやかに碧い、みじんも 湿 ( しめ ) りッ気を ( ふく ) まぬ、おおらかな空気のなかに、真ッ白い国が浮びあがってくる。 ( ゆめ ) のような美しさだ。夢がこれほど実感を ( ともな ) って、みえたことはないというのは、オリムピックを通じての感想ではありましたが、それをこの時ほど、 如実 ( にょじつ ) に感じたことはありません。

 白い国!  蜃気楼 ( ミュアジュ ) もかくや、――など 陳腐 ( ちんぷ ) な形容ですが、事実、ぼくは 蜃気楼 ( ミュアジュ ) をみた想いでした。背後には、青空をくっきりと ( かく ) した、 峰々 ( みねみね ) 紫紺 ( しこん ) 山肌 ( やまはだ ) 、手前には、油のようにとろりと静かな港の水、その間に、整然とたち並んだ、白いビルディング、ビルディング、ビルディング。それがいかにも、 摩天楼 ( スカイスクレエパア ) という名にふさわしく、空も山も、 ( ため ) にちいさくみえる 豪華 ( ごうか ) さです。その頭上に、七月の太陽が、カアッと一面に反射して、すべては 絢爛 ( けんらん ) と光り ( かがや ) き、明るさと ( まぶ ) しさに息づいているのです。ぼく達の大洋丸は、 悠々 ( ゆうゆう ) と、海を圧して、 碇泊中 ( ていはくちゅう ) の汽船、 軍艦 ( ぐんかん ) の間を ( ) い、白い鴎に守られつつ、進んで行きます。

 しかし、実のところ、ぼくは鴎も船も港も山も、なに一つ覚えてはおりません。 ( ただ ) 、青い海に浮んだ白い大都市が、 燦然 ( さんぜん ) と、迫ってきた、あの感じが、いつもぼくに、ある 永劫 ( えいごう ) のものへの旅を誘います。金門湾、 桑港 ( サンフランシスコ ) ! と、ぼくは、 ( むかし ) なつかしい名を口にして、そのときも、今、聞かされている意見より、もっと、悠久なものについて考えていました。清さんも、同じ種類の感動に ( おそ ) われたのか、ぼくに、「ほら、もう 桑港 ( サンフランシスコ ) じゃないか。元気をだしなよ」と肩を叩いて話を打ちきり、二人はしばし、 ( くちびる ) ( つぐ ) み、じっと、この新しい大陸をみつめていました。