オリンポスの果実
田中英光 (Orinposu no kajitsu) | ||
二十六
その翌日――横浜に着く四日前――ぼくは酒を飲みました。
前の夜、あなたに言い足りなかった 口惜 ( くや ) しさで、 珍 ( めずら ) しく朝から晩まで飲んでいました。そのうち 酔 ( よ ) っ 払 ( ぱら ) ってしまって、船の酒場に入ってくる 誰彼 ( だれかれ ) なしを取っ 掴 ( つか ) まえては、 管 ( くだ ) をまき 盃 ( さかずき ) を 強 ( し ) いていました。
日が 暮 ( く ) れると、いつの間にかホッケエ部の船室に入りこみ、ウイスキイの 瓶 ( びん ) を片手に、時々 喇叭呑 ( らっぱの ) みをやりながら、「レエスに負けたって仕方がねエよ。だけど負けたのは 恥 ( はず ) かしいねエ」とかなんとか同じ文句を 繰返 ( くりかえ ) しているうち、 監督 ( かんとく ) のHさんから 肩 ( かた ) を 叩 ( たた ) かれ、「どうも君みたいな 酒豪 ( しゅごう ) にはホッケエ部で、 太刀打 ( たちうち ) できるものがいないから、 頼 ( たの ) むから帰って 寝 ( ね ) てくれよ」とにこやかに 訓 ( さと ) され、「はい、はい」と素直に立ち上がると、自分の部屋の前まで来ましたが、ちょうど同室の沢村さん、松山さんとそこで 一緒 ( いっしょ ) になりました。
「 大坂 ( ダイハン ) 、いい 機嫌 ( きげん ) だな」とか、ひやかされてぼくは 嬉 ( うれ ) しそうに、「えエ、えエ」と首を振っていましたが、松山さんが部屋に入ったあと、沢村さんがぼくの首を 抱 ( だ ) き、 覗 ( のぞ ) きこむようにして、「ぼんち、熊本さんは」と 囁 ( ささや ) くのが、てっきり、あなたの醜聞の一件を指しているのだと思うと、ぼくには、これ 迄 ( まで ) のこの人達の悪意が一ペんに 想 ( おも ) い出され、気のついたときには、もう沢村さんの 身体 ( からだ ) を 壁 ( かべ ) に 押 ( お ) しつけ、ぎりぎり 憎悪 ( ぞうお ) に 歪 ( ゆが ) んだ眼で、 彼 ( かれ ) の 瞳 ( ひとみ ) を 睨 ( にら ) みつけていました。
瞬間 ( しゅんかん ) 、ア、しまった、と思った時にはすでに 遅 ( おそ ) く、その 隙 ( すき ) に立ち直った沢村さんが、「貴様やる気だな」と 叫 ( さけ ) びざま、ぼくを 突 ( つ ) きとばすと、 直 ( す ) ぐのしかかって来て、ぼくの 頸 ( くび ) を 絞 ( し ) めつけました。
そのとき松山さんが部屋から出て来て、この有様をみるなり、「おい、沢村よせよ、 大坂 ( ダイハン ) はだいぶ酔っているぜ」と止めてくれましたが、沢村さんは一度手をはなしたかとおもうと、今度はなんともいえぬ意地悪い眼付で、まじまじぼくを 見詰 ( みつ ) めているうち、不意に、平手で、力 一杯 ( いっぱい ) 、ぼくの横ッ 面 ( つら ) を張った。ぼくはことさら 撲 ( なぐ ) られるのも感じないほど酔っている風に 装 ( よそお ) い、 唇 ( くちびる ) を開けてフラフラして見せているのに、沢村さんは、続けて、ぼくの 右頬 ( みぎほお ) から左頬ヘと、びんたを 喰 ( く ) わせ、松山さんを 顧 ( かえり ) みてはニヤニヤ笑い、「こら、 大坂 ( ダイハン ) 、これでもか。これでもか」 といくつも撲った。
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