オリンポスの果実
田中英光 (Orinposu no kajitsu) | ||
七
ある日、写真機を持出した村川が、ぼくを呼んで、あなたと内田さんの写真をとるから 誘 ( さそ ) うてきてくれ、と言います。ぼくが「いやだ」と断ると、「なんでい、熊本は、お前のいう事なら、きくよ」と笑います。
結局、あなた達の写真を 貰 ( もら ) える 嬉 ( うれ ) しさもあり、白地に、 紫 ( むらさき ) の 菖蒲 ( しょうぶ ) を散らした 浴衣 ( ゆかた ) をきたあなたと、 紅 ( あか ) いレザアコオトをきた内田さんを、ボオト・デッキの 蔭 ( かげ ) に、ひっぱり出し、村川が、写真を 撮 ( と ) り、また、ぼくと村川の写真を、内田さんが撮りました。
二三日 経 ( た ) って、出来上がった写真を、 交換 ( こうかん ) し、サインもし合っていました。あなたの顔は、眼が 円 ( まる ) く、鼻がちんまりして、色が黒く、いかにも、漁師の 娘 ( むすめ ) さんといった風だし、内田さんの顔は、また、色っぽい美人の 猫 ( ねこ ) 、といった感じに撮れていたので、 皆 ( みんな ) で、それを指摘し合っては、 騒々 ( そうぞう ) しく笑っていると、東海さんが通りかかり、ものも言わず、写真をとり上げ、 一寸 ( ちょっと ) 見るなり、「フン」と鼻で笑って、 抛 ( ほう ) り出し、行ってしまった。
その晩でしたか、七番の坂本さんが、女子選手のブロマイドを買い、皆に見せながら、一々名前をきいていましたが、なかに分らないのがあって、誰か、 名簿 ( めいぼ ) を取りに立とうとすると、東海さんが、 突然 ( とつぜん ) 、大声で、「 大坂 ( ダイハン ) に聞けよ。大坂は、女の選手のことなら、とても 詳 ( くわ ) しいんだ」といいます。昼間の写真のことだなと、ぼくは胸に 応 ( こた ) えました。すると、松山さんが、「ほう、 大坂 ( ダイハン ) はそんなに、女子選手の 通 ( つう ) なんか」といったので、皆、笑いだしたけれど、ぼくには、そのときの、 誰彼 ( だれかれ ) の皮肉な目付が、ぞっとするほど、 厭 ( いや ) だった。
又 ( また ) ある日、ぼくが、練習が済み、水を貰おうと、食堂へ降りて行くと、入口でぱったり、あなたと同じジャンパアの中村さんに、 逢 ( あ ) いました。と、十六 歳 ( さい ) のこの女学生は、突然、ぼくの顔を 覗 ( のぞ ) きこむように、「うちの写真、貰ってくれやはる」といいます。
驚 ( おどろ ) いて、まじまじしているのに、「ここで待っててね」といいざま、 子栗鼠 ( こりす ) のような素早さで、とんで行き、ぼくが 椅子 ( いす ) に 腰 ( こし ) かける間もなく、ちいさい中村さんは、息をきり、ちんまりした鼻の頭に 汗 ( あせ ) を 掻 ( か ) き、 駆 ( か ) け 戻 ( もど ) って来ると、ぼくの 掌 ( て ) に、写真を 渡 ( わた ) し、また駆けて行ってしまいました。
あとでみた、写真には、ハアト形のなかに、お 澄 ( すま ) しな 田舎 ( いなか ) 女学校の三年生がいて、おまけに 稚拙 ( ちせつ ) なサインがしてあるのが、いかにも 可愛 ( かわい ) く、ほほ笑んでしまった。
当時、すこし 自惚 ( うぬぼ ) れて、考え 違 ( ちが ) いしていましたが、これは多分、同室のあなた達が、ぼくや村川の写真を、中村さんにみせたので、少女らしい競争心を出し、まず、ぼくに写真をくれたのでしょう。
その後、 暫 ( しばら ) くしてから、「坂本さん、ボオトの写真、うち、 欲 ( ほ ) しいわ」と女学生服をきた 彼女 ( かのじょ ) から、兄貴にでもねだるようにして、せがまれました。「いやだ」というと、「熊本さんにはあげた 癖 ( くせ ) に――」と、口をとがらせ、イィをされたので、驚いたぼくは、バック台を引いている写真をやってしまいました。
こうした風に、段々、へんな 噂 ( うわさ ) がたつのに加えて、人の 好 ( い ) い村川が、無意識にふりまいた、デマゴオグも、また相当の 反響 ( はんきょう ) があったと思われます。
未 ( ま ) だ、ませた中学生に過ぎなかった彼としては、自分が、いかに女の子と親しくしているかを、大いに、みせびらかしたかったのでしょう。それだけ、ぼくより、 無邪気 ( むじゃき ) だったとも、言えますが、ぼくにしてみれば、彼が、あなた達、女子選手をいかにも、中性の化物らしく 批評 ( ひひょう ) し、「熊本や、内田の 奴等 ( やつら ) がなア」 と二言目には、あなた達が、村川に交際を求めるような 口吻 ( こうふん ) を 弄 ( ろう ) し、やたらに、写真を撮らしたり、ぼく達四人の交友を、 針小棒大 ( しんしょうぼうだい ) に言い 触 ( ふ ) らすのをきいては、 癪 ( しゃく ) に 触 ( さわ ) るやら、心配やら、はらはらして 居 ( お ) りました。
しかし、これは、人間の本能的な弱さからだと、ぼくには許せる気になるのでしたが、同時に、誰でもが持っている 岡焼 ( おかや ) き根性とは、いっても、クルウの先輩連が、ぼくに 浴 ( あ ) びせる 罵詈讒謗 ( ばりざんぼう ) には、 嫉妬 ( しっと ) 以上の悪意があって、当時、ぼくはこれを、気が変になるまで、 憎 ( にく ) んだのです。
その 頃 ( ころ ) 、整調でもあり主将もしている、クルウでいちばん年長者の森さんは、ぼくをみると、すぐこんな皮肉をいうのでした。「 大坂 ( ダイハン ) は、熊本と、もう何回 接吻 ( せっぷん ) をした」 とか 「お 尻 ( しり ) にさわったか」とか、 或 ( ある ) いは、もっと悪どいことを 嬉 ( うれ ) しそうにいって、 嘲笑 ( ちょうしょう ) するのでした。
七番のおとなしい坂本さんまでが、「 大坂 ( ダイハン ) は秋ちゃんと仲が良いのう」とひやかし半分に、ぼくの 肩 ( かた ) を 叩 ( たた ) きます。六番の美男の東海さんは「
螽※ ( きりぎりす ) みたいな、あんな女のどこが好いのだ。おい」と、ぼくの面をしげしげとのぞいて 尋 ( たず ) ねます。五番の 柔道 ( じゅうどう ) 三段の松山さんは、「 腐 ( くさ ) れ女の尻を、犬みたいに追いまわしやがって――」とすごい 剣幕 ( けんまく ) で 睨 ( にら ) みつけます。三番の、もとはぼくを 正選手 ( レギュラア ) に引張ってくれた、沢村さんまでが、「あんな女のどこが好いかのう。女が 珍 ( めずら ) しいのじゃろう。不思議だのう」と、みんなに 訊 ( たず ) ねるようにするのが 癖 ( くせ ) でした。二番の 虎 ( とら ) さんは、広い胸幅を 揺 ( ゆす ) りあげ、その話をするときは、ぼくを見ないようにして、「でれでれしやがって」と、 忌々 ( いまいま ) しそうに、 痰 ( たん ) を 吐 ( は ) きとばします。この態度が、むしろ、好きでした。舳手 ( バウ ) の梶さんは、ぼくの次に、新しい選手ですし、それに、七番の商科の坂本さん、二番の専門部の虎さんと共に、クルウの政経科で固めた中心勢力とは、派が合わぬだけ、別に何んともいわず、皆と 一緒 ( いっしょ ) にいるときは、 軽蔑 ( けいべつ ) した風をしていますが、ひとりで逢うと、時々、「おおいに、若いときの 想 ( おも ) い 出 ( で ) をつくれよ」とか、文科の学生らしく、 煽動 ( せんどう ) してくれました。こうして、好意とまでゆかないでも、気にしないでいてくれる、梶さん、清さんのような人達もありましたが、前述したような、クルウ大方の空気は、ひがんでいるぼくにとって、もはや、クルウのなかばかりでなく、船中の誰も彼もが、白眼視しているような気になり、切なくてたまらなかったのです。
例 ( たと ) えば、船に、横浜 解纜 ( かいらん ) の際、中学の先生から紹介して貰った、Kさんという、中学で四年先輩のひとが、見習船員をしておりました。Kさんは、未だ高等商船を出たばかりで、学生気の 抜 ( ぬ ) けない明るい青年で、後輩のぼくの 面倒 ( めんどう ) をよくみてくれて、船の 隅々迄 ( すみずみまで ) 、案内もしてくれるし、一緒に記念 撮影 ( さつえい ) などもしていました。
ところが、その頃、船の前端にある彼の部屋に、夜遊びに行ってみると、何かのきっかけで、Kさんが、「女子選手ッて、みんな、 凄 ( すご ) いのばかりだね」といいだしました。ビクッとしたのになおも、「あれで、男の選手へ、モオションをかけるのが、いるっていうじゃないか。アッハッハ……」と大口あいて笑うのです。
その時は、てッきり、ぼくにあてこすっているのか、忠告していると取り、早々に逃げ出したのですが、それからは、なるべく、Kさんにまで逢わないようにしていました。しかし、いま考えれば、これも、ぼくのひがみだったのです。
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