六十二
不治
(
ふじ
)
の病気に悩まされているという御縫さんについての
報知
(
たより
)
が健三の心を
和
(
やわら
)
げた。何年ぶりにも顔を合せた事のない彼とその人とは、度々会わなければならなかった昔でさえ、
殆
(
ほと
)
んど親しく口を利いた
例
(
ためし
)
がなかった。席に着くときも座を立つときも、大抵は黙礼を取り換わせるだけで済ましていた。もし交際という文字をこんな間柄にも使い得るならば、二人の交際は極めて淡くそうして軽いものであった。強烈な
好
(
い
)
い印象のない代りに、少しも不快の記憶に濁されていないその人の
面影
(
おもかげ
)
は、島田や御常のそれよりも、今の彼に取って遥かに
尊
(
たっと
)
かった。人類に対する慈愛の心を、硬くなりかけた彼から
唆
(
そそ
)
り得る点において。また漠然として散漫な人類を、比較的
判明
(
はっきり
)
した一人の代表者に縮めてくれる点において。――彼は死のうとしているその人の姿を、同情の眼を開いて遠くに眺めた。
それと共に彼の胸には一種の利害心が働いた。何時起るかも知れない御縫さんの死は、
狡猾
(
こうかつ
)
な島田にまた彼を
強請
(
せび
)
る口実を与えるに違なかった。明らかにそれを予想した彼は、出来る限りそれを避けたいと思った。しかし彼はこの場合どうして避けるかの策略を講ずる男ではなかった。
「衝突して破裂するまで行くより外に仕方がない」
彼はこう観念した。彼は手を
拱
(
こまぬ
)
いで島田の来るのを待ち受けた。その島田の来る前に突然彼の
敵
(
かたき
)
の御常が訪ねて
来
(
き
)
ようとは、彼も思い掛けなかった。
細君は何時もの通り書斎に
坐
(
すわ
)
っている彼の前に出て、「あの
波多野
(
はたの
)
って
御婆
(
おばあ
)
さんがとうとう
遣
(
や
)
って来ましたよ」といった。彼は驚ろくよりもむしろ迷惑そうな顔をした。細君にはその態度が愚図々々している
臆病
(
おくびょう
)
もののように見えた。
「御会いになりますか」
それは、会うなら会う、断るなら断る、早くどっちかに
極
(
き
)
めたら好かろうという言葉の
遣
(
つか
)
い方であった。
「会うから上げろ」
彼は島田の来た時と同じ
挨拶
(
あいさつ
)
をした。細君は重苦しそうに身を起して奥へ立った。
座敷へ出た時、彼は粗末な衣服を身に
纏
(
まと
)
って、丸まっちく坐っている一人の婆さんを見た。彼の心で想像していた御常とは全く変っているその質朴な
風采
(
ふうさい
)
が、島田よりも遥かに強く彼を驚ろかした。
彼女の態度も島田に比べるとむしろ反対であった。彼女はまるで身分の懸隔でもある人の前へ出たような様子で、
鄭寧
(
ていねい
)
に頭を下げた。言葉遣も
慇懃
(
いんぎん
)
を
極
(
きわ
)
めたものであった。
健三は小供の時分
能
(
よ
)
く聞かされた彼女の
生家
(
さと
)
の話を思い出した。
田舎
(
いなか
)
にあったその
住居
(
すまい
)
も庭園も、彼女の叙述によると、善を尽し美を尽した立派なものであった。
床
(
ゆか
)
の下を水が縦横に流れているという特色が、彼女の何時でも繰り返す重要な点であった。
南天
(
なんてん
)
の柱――そういう言葉もまだ健三の耳に残っていた。しかし小さい健三はその
宏大
(
こうだい
)
な屋敷がどこの田舎にあるのかまるで知らなかった。それから一度も
其所
(
そこ
)
へ連れて行かれた覚がなかった。彼女自身も、健三の知っている限り、一度も自分の生れたその大きな家へ帰った事がなかった。彼女の性格を
朧気
(
おぼろげ
)
ながら見抜くように、彼の批評眼がだんだん
肥
(
こ
)
えて来た時、彼はそれもまた彼女の空想から出る例の
法螺
(
ほら
)
ではないかと考え出した。
健三は自分を出来るだけ富有に、上品に、そして善良に、見せたがったその女と、今彼の前に
畏
(
かしこ
)
まって坐っている
白髪頭
(
しらがあたま
)
の御婆さんとを比較して、時間の
齎
(
もたら
)
した対照に不思議そうな眼を注いだ。
御常は昔から
肥
(
ふと
)
り
肉
(
じし
)
の女であった。今見る御常も依然として肥っていた。どっちかというと、昔よりも今の方がかえって肥っていはしまいかと
疑
(
うたがわ
)
れる位であった。それにもかかわらず、彼女は全く変化していた。どこから見ても田舎育ちの御婆さんであった。多少誇張していえば、
籠
(
かご
)
に入れた
麦焦
(
むぎこが
)
しを背中へ
脊負
(
しょ
)
って近在から出て来る御婆さんであった。