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八十三

 子供は一番気楽であった。生きた人形でも買ってもらったように喜んで、 ( ひま ) さえあると、新らしい ( いもと ) ( そば ) に寄りたがった。その妹の ( またた ) き一つさえ驚嘆の種になる彼らには、 ( くさめ ) でも ( あくび ) でも何でもかでも不可思議な現象と見えた。

 「今にどんなになるだろう」

 当面に 忙殺 ( ぼうさい ) される彼らの胸にはかつてこうした問題が浮かばなかった。自分たち自身の今にどんなになる

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[28]
かをすら領解し得ない子供らは、無論今にどうするだろうなどと考えるはずがなかった。

 この意味で見た彼らは細君よりもなお遠く健三を離れていた。外から帰った彼は、時々洋服も脱がずに、敷居の上に立ちながら、ぼんやりこれらの一団を眺めた。

 「また ( かたま ) っているな」

 彼はすぐ ( きびす ) ( めぐ ) らして部屋の外へ出る事があった。

 時によると彼は服も改めずにすぐ 其所 ( そこ ) 胡坐 ( あぐら ) をかいた。

 「こう始終 湯婆 ( ゆたんぽ ) ばかり入れていちゃ子供の健康に悪い。出してしまえ。第一いくつ入れるんだ」

 彼は何にも解らないくせに ( ) い加減な 小言 ( こごと ) をいってかえって細君から笑われたりした。

 日が重なっても彼は赤ん坊を抱いて見る気にならなかった。それでいて一つ ( へや ) に塊っている子供と細君とを見ると、時々別な心持を起した。

 「女は子供を専領してしまうものだね」

 細君は驚ろいた顔をして夫を見返した。 其所 ( そこ ) には自分が今まで無自覚で実行して来た事を、夫の言葉で突然悟らされたような趣もあった。

 「何で ( やぶ ) から棒にそんな事を ( おっし ) ゃるの」

 「だってそうじゃないか。女はそれで気に入らない亭主に 敵討 ( かたきうち ) をするつもりなんだろう」

 「馬鹿を仰ゃい。子供が ( わたくし ) ( そば ) へばかり寄り付くのは、 貴夫 ( あなた ) が構い付けて 御遣 ( おや ) りなさらないからです」

 「 ( おれ ) を構い付けなくさせたものは、 ( とり ) も直さず御前だろう」

 「どうでも勝手になさい。何ぞというと ( ひが ) みばかりいって。どうせ口の達者な貴夫には ( かな ) いませんから」

 健三はむしろ 真面目 ( まじめ ) であった。僻みとも 口巧者 ( くちごうしゃ ) とも思わなかった。

 「女は策略が好きだからいけない」

 細君は床の上で 寐返 ( ねがえ ) りをしてあちらを向いた。そうして涙をぽたぽたと枕の上に落した。

 「そんなに何も ( わたくし ) ( いじ ) めなくっても……」

 細君の様子を見ていた子供はすぐ泣き出しそうにした。健三の胸は重苦しくなった。彼は征服されると知りながらも、まだ 産褥 ( さんじょく ) を離れ得ない彼女の前に 慰藉 ( いしゃ ) の言葉を並べなければならなかった。しかし彼の理解力は依然としてこの同情とは別物であった。細君の涙を ( ) いてやった彼は、その涙で自分の考えを訂正する事が出来なかった。

 次に顔を合せた時、細君は突然夫の弱点を刺した。

 「貴夫 何故 ( なぜ ) その子を抱いて御遣りにならないの」

 「何だか抱くと 険呑 ( けんのん ) だからさ。 ( くび ) でも折ると大変だからね」

 「 ( うそ ) を仰しゃい。貴夫には女房や子供に対する 情合 ( じょうあい ) が欠けているんですよ」

 「だって御覧な、ぐたぐたして抱き ( ) けない男に手なんか出せやしないじゃないか」

 実際赤ん坊はぐたぐたしていた。骨などはどこにあるかまるで分らなかった。それでも細君は承知しなかった。彼女は昔し一番目の娘に 水疱瘡 ( みずぼうそう ) の出来た時、健三の態度が ( にわ ) かに一変した実例を証拠に挙げた。

 「それまで毎日抱いて遣っていたのに、それから急に抱かなくなったじゃありませんか」

 健三は事実を打ち消す気もなかった。同時に自分の考えを改めようともしなかった。

「何といったって女には技巧があるんだから仕方がない」

 彼は深くこう信じていた。あたかも自分自身は ( すべ ) ての技巧から解放された自由の人であるかのように。