四十二
同時に健三の気質も損われた。順良な彼の天性は次第に表面から落ち込んで行った。そうしてその陥欠を補うものは強情の二字に外ならなかった。
彼の
我儘
(
わがまま
)
には
日増
(
ひまし
)
に募った。自分の好きなものが手に
入
(
い
)
らないと、往来でも道端でも構わずに、すぐ
其所
(
そこ
)
へ
坐
(
すわ
)
り込んで動かなかった。ある時は小僧の
脊中
(
せなか
)
から彼の髪の毛を力に任せて
※
(
むし
)
り取った。ある時は神社に放し飼の
鳩
(
はと
)
をどうしても
宅
(
うち
)
へ持って帰るのだと主張してやまなかった。養父母の
寵
(
ちょう
)
を欲しいままに専有し
得
(
う
)
る狭い世界の
中
(
うち
)
に起きたり
寐
(
ね
)
たりする事より外に何にも知らない彼には、
凡
(
すべ
)
ての他人が、ただ自分の命令を聞くために生きているように見えた。彼はいえば通るとばかり考えるようになった。
やがて彼の横着はもう一歩深入りをした。
ある朝彼は親に起こされて、眠い眼を
擦
(
こす
)
りながら
縁側
(
えんがわ
)
へ出た。彼は毎朝寐起に其所から小便をする癖を
有
(
も
)
っていた。ところがその日は何時もより眠かったので、彼は用を足しながらつい途中で寐てしまった。そうしてその
後
(
あと
)
を知らなかった。
眼が覚めて見ると、彼は小便の上に転げ落ちていた。不幸にして彼の落ちた縁側は高かった。大通りから
河岸
(
かし
)
の方へ滑り込んでいる地面の中途に当るので、普通の倍ほどあった。彼はその出来事のためにとうとう腰を抜かした。
驚ろいた養父母はすぐ彼を
千住
(
せんじゅ
)
の
名倉
(
なぐら
)
へ
伴
(
つ
)
れて行って出来るだけの治療を加えた。しかし強く痛められた腰は容易に立たなかった。彼は
醋
(
す
)
の臭のする黄色いどろどろしたものを毎日局部に塗って座敷に寐ていた。それが
幾日
(
いくか
)
続いたか彼は知らなかった。
「まだ立てないかい。立って御覧」
御常は毎日のように催促した。しかし健三は動けなかった。動けるようになってもわざと動かなかった。彼は寐ながら御常のやきもきする顔を見てひそかに喜こんだ。
彼はしまいに立った。そうして
平生
(
へいぜい
)
と何の異なる所なく其所いら中歩き廻った。すると御常の驚ろいて
嬉
(
うれ
)
しがりようが、
如何
(
いか
)
にも芝居じみた表情に充ちていたので、彼はいっそ立たずにもう少し寐ていればよかったという気になった。
彼の弱点が御常の弱点とまともに
相摶
(
あいう
)
つ事も少なくはなかった。
御常は非常に
嘘
(
うそ
)
を
吐
(
つ
)
く事の
巧
(
うま
)
い女であった。それからどんな場合でも、自分に利益があるとさえ見れば、すぐ涙を流す事の出来る重宝な女であった。健三をほんの小供だと思って気を許していた彼女は、その裏面をすっかり彼に
曝露
(
ばくろ
)
して
自
(
みず
)
から知らなかった。
或日一人の客と相対して坐っていた御常は、その席で話題に
上
(
のぼ
)
った甲という女を、
傍
(
はた
)
で聴いていても聴きづらいほど
罵
(
ののし
)
った、ところがその客が帰ったあとで、甲がまた偶然彼女を訪ねて来た。すると御常は甲に向って、そらぞらしい御世辞を使い始めた。遂に、今誰さんとあなたの事を大変
賞
(
ほ
)
めていた所だというような不必要な嘘まで
吐
(
つ
)
いた。健三は腹を立てた。
「あんな嘘を吐いてらあ」
彼は一徹な小供の正直をそのまま甲の前に
披瀝
(
ひれき
)
した。甲の帰ったあとで御常は大変に
怒
(
おこ
)
った。
「御前と一所にいると顔から火の出るような思をしなくっちゃならない」
健三は御常の顔から早く火が出れば
好
(
い
)
い位に感じた。
彼の胸の底には彼女を忌み嫌う心が我知らず常にどこかに働らいていた。いくら御常から
可愛
(
かあい
)
がられても、それに
酬
(
むく
)
いるだけの
情合
(
じょうあい
)
がこっちに出て
来
(
き
)
得
(
え
)
ないような醜いものを、彼女は彼女の人格の
中
(
うち
)
に
蔵
(
かく
)
していたのである。そうしてその醜くいものを一番
能
(
よ
)
く知っていたのは、彼女の懐に温められて育った
駄々
(
だだ
)
ッ
子
(
こ
)
に外ならなかったのである。