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八十

 日取が狂って予期より早く 産気 ( さんけ ) づいた細君は、苦しそうな声を出して、 ( そば ) ( ) ている夫の夢を驚ろかした。

 「 先刻 ( さっき ) から急に 御腹 ( おなか ) が痛み出して……」

 「もう出そうなのかい」

 健三にはどの位な程度で細君の腹が痛んでいるのか分らなかった。彼は寒い夜の中に夜具から顔だけ出して、細君の様子をそっと眺めた。

 「少し ( さす ) って ( ) ろうか」

 起き上る事の 臆劫 ( おっくう ) な彼は出来るだけ口先で間に合せようとした。彼は産についての経験をただ一度しか ( ) っていなかった。その経験も大方は忘れていた。けれども長女の生れる時には、こういう痛みが、潮の 満干 ( みちひ ) のように、何度も来たり去ったりしたように思えた。

 「そう急に生れるもんじゃないだろうな、子供ってものは。 一仕切 ( ひとしきり ) 痛んではまた一仕切治まるんだろう」

 「何だか知らないけれども段々痛くなるだけですわ」

 細君の態度は明らかに彼女の言葉を証拠立てた。 ( じっ ) 蒲団 ( ふとん ) の上に 落付 ( おちつ ) いていられない彼女は、枕を外して右を向いたり左へ動いたりした。男の健三には手の着けようがなかった。

 「産婆を呼ぼうか」

 「ええ、早く」

 職業柄産婆の ( うち ) には電話が掛っていたけれども、彼の家にそんな気の利いた設備のあろうはずはなかった。至急を要する場合が起るたびに、彼は何時でも掛りつけの近所の医者の所へ ( ) け付けるのを例にしていた。

  初冬 ( はつふゆ ) の暗い夜はまだ明け離れるのに 大分 ( だいぶ ) 間があった。彼はその人とその人の ( かど ) ( たた ) 下女 ( げじょ ) の迷惑を察した。しかし 夜明 ( よあけ ) まで安閑と待つ勇気がなかった。寝室の ( ふすま ) を開けて、次の間から茶の間を通って、下女部屋の入口まで来た彼は、すぐ召使の一人を ( ) き立てて暗い夜の中へ追い遣った。

 彼が細君の枕元へ帰って来た時、彼女の痛みは ( ますます ) ( はげ ) しくなった。彼の神経は一分ごとに門前で ( とま ) る車の響を待ち受けなければならないほどに緊張して来た。

 産婆は容易に来なかった。細君の ( うな ) る声が 絶間 ( たえま ) なく静かな夜の ( へや ) を不安に ( ) き乱した。五分経つか経たないうちに、彼女は「もう生れます」と夫に宣告した。そうして今まで我慢に我慢を重ねて ( こら ) えて来たような叫び声を一度に揚げると共に胎児を 分娩 ( ぶんべん ) した。

 「 ( しっ ) かりしろ」

 すぐ立って蒲団の ( すそ ) の方に廻った健三は、どうして ( ) いか分らなかった。その時例の 洋燈 ( ランプ ) は細長い 火蓋 ( ほや ) の中で、死のように静かな光を薄暗く室内に投げた。健三の眼を落している ( あたり ) は、夜具の 縞柄 ( しまがら ) さえ 判明 ( はっきり ) しないぼんやりした陰で一面に ( つつ ) まれていた。

 彼は 狼狽 ( ろうばい ) した。けれども洋燈を移して 其所 ( そこ ) ( てら ) すのは、男子の見るべからざるものを ( ) いて見るような心持がして気が引けた。彼はやむをえず暗中に摸索した。彼の右手は ( たちま ) ち一種異様の触覚をもって、今まで経験した事のない或物に触れた。その或物は寒天のようにぷりぷりしていた。そうして輪廓からいっても 恰好 ( かっこう ) の判然しない何かの ( かたまり ) に過ぎなかった。彼は気味の悪い感じを彼の全身に伝えるこの塊を軽く指頭で ( ) でて見た。塊りは動きもしなければ泣きもしなかった。ただ撫でるたんびにぷりぷりした寒天のようなものが ( ) げ落ちるように思えた。もし強く抑えたり持ったりすれば、全体がきっと崩れてしまうに違ないと彼は考えた。彼は恐ろしくなって急に手を 引込 ( ひっこ ) めた。

 「しかしこのままにして放って置いたら、 風邪 ( かぜ ) を引くだろう、寒さで ( こご ) えてしまうだろう」

 死んでいるか生きているかさえ 弁別 ( みわけ ) のつかない彼にもこういう懸念が ( ) いた。彼は忽ち出産の用意が戸棚の ( うち ) に入れてあるといった細君の言葉を思い出した。そうしてすぐ自分の 後部 ( うしろ ) にある 唐紙 ( からかみ ) を開けた。彼は其所から多量の綿を引き ( ) り出した。脱脂綿という名さえ知らなかった彼は、それをむやみに 千切 ( ちぎ ) って、柔かい塊の上に載せた。