四十六
健三の心を不愉快な過去に
捲
(
ま
)
き込む
端緒
(
いとくち
)
になった島田は、それから五、六日ほどして、ついにまた彼の座敷にあらわれた。
その時健三の眼に映じたこの老人は正しく過去の幽霊であった。また現在の人間でもあった。それから薄暗い未来の影にも相違なかった。
「どこまでこの影が
己
(
おれ
)
の
身体
(
からだ
)
に付いて回るだろう」
健三の胸は好奇心の
刺戟
(
しげき
)
に促されるよりもむしろ不安の
漣※
(
さざなみ
)
に揺れた。
「この間
比田
(
ひだ
)
の所をちょっと訪ねて見ました」
島田の言葉遣はこの前と同じように
鄭重
(
ていちょう
)
であった。しかし彼が何で比田の家へ足を運んだのか、その点になると、彼は全く知らん顔をして澄ましていた。彼の口ぶりはまるで
無沙汰
(
ぶさた
)
見舞かたがたそっちへ用のあったついでに立ち寄った人の如くであった。
「あの
辺
(
へん
)
も昔と違って
大分
(
だいぶ
)
変りましたね」
健三は自分の前に
坐
(
すわ
)
っている人の
真面目
(
まじめ
)
さの程度を
疑
(
うたぐ
)
った。果してこの男が彼の復籍を比田まで頼み込んだのだろうか、また比田が自分たちと相談の結果通り、断然それを拒絶したのだろうか、健三はその明白な事実さえ疑わずにはいられなかった。
「もとはそら
彼処
(
あすこ
)
に
瀑
(
たき
)
があって、みんな夏になると
能
(
よ
)
く出掛けたものですがね」
島田は相手に
頓着
(
とんじゃく
)
なくただ世間話を進めて行った。健三の方では無論自分から進んで不愉快な問題に触れる必要を認めないので、ただ老人の
迹
(
あと
)
に
跟
(
つ
)
いて引っ張られて行くだけであった。すると何時の間にか島田の言葉遣が崩れて来た。しまいに彼は健三の姉を呼び
捨
(
ず
)
てにし始めた。
「
御夏
(
おなつ
)
も年を取ったね。
尤
(
もっと
)
ももう大分久しく会わないには違ないが。昔はあれでなかなか勝気な女で、能く
私
(
わたし
)
に
喰
(
く
)
って掛ったり
何
(
なん
)
かしたものさ。その代り元々兄弟同様の間柄だから、いくら
喧嘩
(
けんか
)
をしたって、仲の直るのもまた早いには早いが。何しろ困ると助けてくれって能く泣き付いて来るんで、私ゃ
可哀想
(
かわいそう
)
だからその
度
(
たん
)
びにいくらかずつ都合して
遣
(
や
)
ったよ」
島田のいう事は、姉が蔭で聴いていたらさぞ
怒
(
おこ
)
るだろうと思うように
横柄
(
おうへい
)
であった。それから手前勝手な立場からばかり見た
歪
(
ゆが
)
んだ事実を
他
(
ひと
)
に押し付けようとする邪気に充ちていた。
健三は次第に言葉
少
(
ずく
)
なになった。しまいには黙ったなり
凝
(
じっ
)
と島田の顔を見詰た。
島田は妙に鼻の下の長い男であった。その上往来などで物を見るときは必ず口を開けていた。だからちょっと馬鹿のようであった。けれども善良な馬鹿としては決して誰の眼にも映ずる男ではなかった。落ち込んだ彼の眼はその底で常に反対の何物かを語っていた。
眉
(
まゆ
)
はむしろ険しかった。狭くて高い彼の額の上にある髪は、若い時分から左右に分けられた
例
(
ためし
)
がなかった。
法印
(
ほういん
)
か何ぞのように常に
後
(
うしろ
)
へ
撫
(
な
)
で付けられていた。
彼はふと健三の眼を見た。そうして相手の腹を読んだ。一旦
横風
(
おうふう
)
の昔に返った彼の言葉遣がまた何時の間にか現在の
鄭寧
(
ていねい
)
さに立ち戻って来た。健三に対して過去の
己
(
おの
)
れに返ろう返ろうとする試みを遂に断念してしまった。
彼は
室
(
へや
)
の内をきょろきょろ見廻し始めた。殺風景を極めたその室の中には
生憎
(
あいにく
)
額も掛物も掛っていなかった。
「
李鴻章
(
りこうしょう
)
の書は好きですか」
彼は突然こんな問を発した。健三は好きとも
嫌
(
きらい
)
ともいい
兼
(
かね
)
た。
「好きなら上げても
好
(
よ
)
ござんす。あれでも
価値
(
ねうち
)
にしたら今じゃよっぽどするでしょう」
昔し島田は
藤田東湖
(
ふじたとうこ
)
の偽筆に時代を着けるのだといって、
白髪蒼顔万死余云々
(
はくはつそうがんばんしのようんぬん
)
と書いた
半切
(
はんせつ
)
の
唐紙
(
とうし
)
を、台所の
竈
(
へっつい
)
の上に釣るしていた事があった。彼の健三にくれるという李鴻章も、どこの誰が書いたものか
頗
(
すこぶ
)
る怪しかった。島田から物を貰う気の絶対になかった健三は取り合わずにいた。島田は
漸
(
ようや
)
く帰った。